Jetzt bin ich leicht, jetzt fliege ich, jetzt sehe ich mich unter mir, jetzt
tanzt ein Gott durch mich .
Also sprach Zarathusutra.
いまはこの身は軽い。いまはわたしは飛ぶ。いまはわたしはわたしをわたしの下に見る。
いまはひとりの神が、わたしとなって踊る思いだ。
(邦語訳は岩波文庫 氷上英廣訳より引用)
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最近は、路面が濡れている事もあり自転車はすっかりサボっていて、日の出山への駆け登りや、筋力トレーニングが主体となっている。例年、夏場はパフォーマンスが落ちるのであるが、昨日は、蒸し暑く格段にパフォーマンスが落ちてしまった。
さすがに、綿100%のTシャツでは汗だくになってしまうと着心地が悪いので、今日は、青梅の佐藤スポーツにトレーニング用のTシャツを求めに出かける。サイズXL、1800円のTシャツ(佐藤スポーツオリジナル)を三枚購入。
普段山を走っているシューズがだいぶ痛み、ついでにトレイルシューズも合わせてみたのだが、店員さんの見立てでは29cmではきついので、やはり、自分の足に合うのは30cmとなってしまい、そうするといろいろ選べない・・今回は断念する。
パアゴニアのトレイルランニング用のウェアも見てみたが、なるほど、お洒落な色合いで、デザインもよいが値段も高い。一着6000円以上である。今日のトレーニング用のTシャツを三枚買ってもお釣りがくる値段・・。
「レースに出る人は、こういうのを買って、お洒落も楽しみながら走るのかな?」なんて想像してみた。・・だとしたら、それは一種の、大人のアソビであるかも知れないなぁ・・とも感じた。
「命にかかわるような品物、・・登攀具とか、冬季用のウェア、厳冬期用の登山靴などにお金を惜しんではならない。」というのが、小西政継さんの本に書いてあったアドバイスであり、自分もそれに従い、冬山用のウェアや、登山靴にはお金は惜しまない。けれど、夏場のTシャツは、吸汗性と速乾性がそこそこあれば、あとはどれも似たようなものであろう。どうせ、汗みどろになるのであるから、高い品物を買う必要はさらさらない。むしろ、洗い替えのほうが必要だ。
そんなことを思ったら、自分はやっぱり、トレイルレースに手を染めなくって良かった、と安堵の気持ちになった。僕はトレーニングで山を走るけれど、レースには出ない。
カラフルなウェアに身を飾り、エントリー料金を払ってまで、レースに出たいとは思わないし、自分のやりたい登山は、ニーチェに出会った段階からすでに、そういう形態ではないことが運命付けられていたからである。
ハセツネから離れて、ようやく5年ぶりに大常木にも行けた。今後は、トレイルレースからはますます距離を置いて、自分のやるべき登山をしっかりやって行きたいと思っている。
トレイルレースから距離を置くと、トレイルランニングの世界の狭い人間関係(&それが引き起こすゴタゴタ)からも解放されて、本当に自由な気分だ。トレイルランニングの世界というのは、トレイルレースに出ている人たちの世界であり、その世界は狭く、また濃い、パタゴニアのトレイルランニング用ウェアを見て、そんな風に感じてしまった。
僕はレースに出ないので、トレイルランニングの世界に無関係な人間であり、だから、その世界の有名な人(足が速くってレースで優勝するような人)に「頭を下げる」必要はないということ。頭を下げる必要もないし、「彼らを上位(上座)に感じる」必要もないということ。自分を「(足が遅いということで)賤しめ」、「(人間的に尊敬できない人に対して、ただ足が速いというだけのことで)へりくだる」必要もないということだ。
(※ 逆説的にいうならば、トレイルランニングの世界には、足が速い事に価値があるという考えを持っている人がいて、足が速いと、「偉い」とされる。足が遅い人間は、いわば、「下等の人間」であり、足が速い人間に対してへりくだらなければならない。。。とこんな価値観に支配された世界であるといえるだろう。)
振り返って、トレイルランニングの世界には、「親分になりたい人」が沢山いるみたいで、私には、息苦しい世界であった。
そして頭を下げて、同じことをすれば(レースに出れば)、仲間に入れてあげるよ、みたいな感じの人が多かったなぁ・・。
若い人は、レースで優勝して、有名になりたい、経歴を作りたいと欲望をあらわにしている。彼らの多くは、高校や、大学の時に陸上部だったような人が多い、陸上から山に入ったような人は、レース志向から心が離れないのではないか?彼らは、陸上の世界で頭角をあらわせられなかったから、山のレースの世界に来て、有名になろうとしているのだろう。
私より、一回りぐらい上の、50代、60代のランナーは、昔から山を走っているということで、人脈をつくり、若い人から一目置かれ、大会主催者にも顔が効くことを上手に使ってこの世界においてそれなりの地位を欲しているのだろう。
大会主催者は、レース優勝者を子飼いにして、将棋の駒よろしく動かそうと欲している。そして、レースを通じて、市場を牛耳ろうとしている。
企業も、実力があって若いトレイルランナーに近づいて、いろいろ説き伏せて子飼いにして、その後ろで、いろいろ策略をめぐらしている。・・・トレイルランのブームが終わったら、子飼いのランナーは、切り捨てられてしまうのだろうなぁ・・。
要するに、ブームとなり、金が動くところ、百鬼夜行の状況といったところだ。
私は、そんな連中とは一線を画しているので、一銭も・・いつかも書いたようにマクドナルドのハンバーガーを買う金も入ってこないけどね(笑)。
でも、山でお金を稼ぐというのは、昔から「山稼ぎ人」という言葉もあるように、どことなく卑しい、罪深いイメージがあるのではないだろうか?
植村直巳が、自然学校のようなことをはじめたときに植村直巳の夫人は小西政継さんに「本当は、(植村に)趣味の切り売りをしてほしくはない・・」と語ったそうである(小西政継著「僕のザイル仲間たち」の植村直巳さんの章にそう書かれている)。
・・私は、そういうスタンスなので、そうでない連中、趣味を切り売りし、山でお金を稼いでいる連中をいまは、極めて不快に、忌々しく感じているところである。
まぁ、こんな世界で身を立てている連中の書いたもの(ブログ等)など、大会主催者や、スポンサー、目上の選手、及び、顧客にとって耳障りなことなど到底書けるわけがなく(そんなことを書くと、「干される」わけだ・・笑)・・当たり障りがない、調子のよいことしか書いていないので、色眼鏡でしかみられない。(私も、もし、この世界で金を稼ぎたいと思うのならば、本音などは一切書かず、おべっかを使って、バランス感覚?に優れた、当たり障りのない内容の記事を書くことだろう・・。そうすると、富士山でビールを飲むぐらいの金は入るのかな?)
そういう点で、彼らは嘘つきであり、しかも、平然と嘘を書くので極めて性質(たち)が悪い。
(そのくせ、トレイル雑誌には、そんな彼らがカッコよく掲載されているんだけれどね。)
もちろん、ここに書いたようなことをレースに出るトレイルランナー諸君は、ゆめゆめ書いてはならない、こんなことを書くと危険人物としてマークされ、あの「鏑木毅さんを囲む会」とかにも招待されなくなってしまうだろう・・苦笑
されど、「危険人物」というのは果たしてどっちだろう、・・2000人もの参加者を集って登山道を使ったレースを開催しようとしている連中のほうが、「社会的に見てよほど危険人物」なのではないだろうか?
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話がかなり脱線したが、僕は小西政継さんがいう「チョロチョロハイク」・・わずか数キロの荷物を背負って走り回ることが(トレーニングとしてはともかく)、本命の登山スタイルとして素晴らしいことだとは思っていないので、彼らのやっていることとは一線を画しているし、これからもそうだろう。
流行に左右されずに、普遍的な価値、・・いつまでも変らない、クラッシックで、先鋭的な登山の価値を追及してゆくことにしよう。
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