高須は松平?
昨日取り上げたタカス族というのは落合氏も半信半疑の話であるし、その後、その件には触れた気配はない。
というより、現代にも影響を及ぼしかねない事柄を含むため多少遠慮があったとも想像してしまうのである。 しかし、美濃高須藩松平家があの秩父宮妃、松平勢津子妃殿下を出した松平恒雄につながり、さらには徳川宗家の当主、恒孝の実祖父になったのである。しかし、それは尾張藩から知らないうちに水戸家に移行していたのだった。この経過を説明するのはなかなか大変。もちろん、WIKIでひとつずつ追っていけばつながっていくが、もとより正規な系図が正しいとは限らないし、時間がいくらあってもキリがない。 ここはなぜ松平なのか?から考えてみよう。 徳川が松平姓を徳川に変えた理由はいまいちはっきりしないが、単純に考えれば松平ではなかったからだろう。おそらく松平の当主が突然死に、困った松平家臣団が家康に頼み込み、すりかわったのである。もちろん家康が松平を殺し、乗っ取ったという考えもありで、長男と正室を後に殺しているのだから、むしろその方が可能性が高いのかも・・・・。そして昔、現在の豊田市は西加茂郡と呼ばれ、いわゆる賀茂氏の所領だった。また、美濃も美濃加茂市があるぐらいで、やはり賀茂氏である。おそらく賀茂氏というのは皇室との関係が極めて深いから日本建国以前の支配者支族だったはずである。やはり、現在まで松平氏が残っているのは徳川家とは混じっているように見えても、別にその主家としての血流が保存されていたと見るべきではないか。つまり、徳川家は実は松平家の家臣であり、実質は松平家の裏支配であったと・・・。 徳川の出自はこれまでも何度も考察してきたが、徐々に精度を増してきて、やはり今の段階では単にトーナメントを勝ち上がってきた運の強い武将だったという偶然説よりも、新田の血を引く天皇のお庭番的な存在だったとするほうがマヨ理論に合致するようだ。つまり、偶然ではないのである。 秩父宮妃は松平姓で、高松宮妃は徳川姓である。しかもお互い親戚で、しかも徳川宗家とも密接につながっている。一時は朝敵になった会津藩主が明治以降名誉を回復し、皇族の外戚になっていくのである。 これを「タカス」の手法とするならかなりすごいし、この話は深く秘さねばならぬだろう。(殺されるぞ・・・・) 確信は持てないものの、家康が徳川家が立ち行かなくなったら水戸家から主君を出すよう遺言したのは、表に出せない深い理由があったことは間違いない。そこにおそらく家康の出自に関わる大きな秘密が潜むのではないか。 難しすぎて・・・・・何を書けばいいのかわからないが、考察は続けましょう。
by sibanokuni
| 2010-03-29 06:15
| マヨちゃんの古代史
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