いわゆるGLP問題について
例のgoogle電子的書籍データベース(Google Library Project)の問題について、講談社さんからの見解が届いた。別の出版社でも、問題点を整理して作家さんたちに見解を示してくれるという。
この問題に関してのわたしの基本的な立場は、日経新聞からの電話取材でコメントしたとおりだ(紙面では、条件の部分を削られていたけれども)。わたしは、Web上に自分の書いたテキストがアップされ、アクセスが容易になることを歓迎する。問題は、出版社と結ぶ二次著作権の優先的使用に関する契約条項にあるのではないか、と考えていたが、講談社さんの見解を読むかぎり、これは問題にならないようである。すべては作家の意志次第ということのようだ(誤解しているようだったら、ご指摘を)。
わたしは公立図書館に自分の著作物が買い上げられ、これが無料で利用者の閲覧に供され、あるいは貸し出される制度を支持する。同じように、インターネットというテクノロジーを人類が手にしたこの時代にあって、自分の著作が、ネット上「でも」読めるようになったことを喜ぶ。「商品」としての本の流通とはべつに、自分の書いたテキストが、ネットを通じて世界の誰かの目に届く可能性が拡がったこの時代を歓迎する。
わたしには、ネットを含めた多くの「無償のアクセスの回路」を通じて誰かの著作に接し、自分の読書生活を豊かにしてきたという実感がある。著作者としての立場から言っても、わたしには公立図書館と同様に、ネットが必要である。それらはわたしの将来の読者、将来のわたしの本の購入者を作る土壌にはなりえても、読者を減らす木枯らしにはならないはずである。
同業者団体の中には、この件についてきわめて神経質に対応しているところがある。
(著作がネット上に公開されると)「本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません」
しかし、この団体がこう確言できる根拠はなんだろう?
「図書館という制度のおかげで、本を買う必要がまったくなくなった例がある」とでも言うのだろうか。
この団体は、著作権料が入らないかぎり、絶対に自分たちのテキストは読ませてはやらない、という立場だ。たぶんこのひとたちとわたしとでは、そもそも何を願って書いているのか、というところから違っているのだろう。
わたしは若いころ、書きたいものがあるときは上質紙に原稿を手書きし、仲間たちに回覧した(必ずしも小説ではなかったが)。やがて謄写版印刷を使えるようになると、自分で鉄筆を持ってガリ切りし、自分で印刷して、これを自分で手渡ししてまわった。長い原稿を書いたときは、ホチキスで簡易製本して「本」を作った。
このときわたしにあったものは、自分のテキストをひとりでも多くのひとに読んでもらいたいという欲求であって、相手から原稿料なり印税を徴収したいという、貨幣との交換の期待ではなかった。その「とにかく読んでもらいたいのだ」という衝動のままに、わたしは小説家となった。
職業作家として、わたしは原稿料について触れない編集部なり編集者の原稿依頼には冷淡に対応する。ビジネスとしてやっているなら、それを明示してほしいと願う。しかし、前にも書いたが、世の中からもし出版産業が消えたとしても、わたしは書くことをやめないだろうし、インターネットを使って、わたしは原稿をアップし、公開し続けるだろう。原稿料、著作権料は、わたしが書くうえでの唯一の、あるいは最大のモチベーションではない。
内田樹教授もこの問題に関して、きょうのブログに書いている。
「著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない」
わたしはgoogleに対して、自分の著作物のネット公開を拒絶する意志表示はしない(和解に参加する)。
この問題に関してのわたしの基本的な立場は、日経新聞からの電話取材でコメントしたとおりだ(紙面では、条件の部分を削られていたけれども)。わたしは、Web上に自分の書いたテキストがアップされ、アクセスが容易になることを歓迎する。問題は、出版社と結ぶ二次著作権の優先的使用に関する契約条項にあるのではないか、と考えていたが、講談社さんの見解を読むかぎり、これは問題にならないようである。すべては作家の意志次第ということのようだ(誤解しているようだったら、ご指摘を)。
わたしは公立図書館に自分の著作物が買い上げられ、これが無料で利用者の閲覧に供され、あるいは貸し出される制度を支持する。同じように、インターネットというテクノロジーを人類が手にしたこの時代にあって、自分の著作が、ネット上「でも」読めるようになったことを喜ぶ。「商品」としての本の流通とはべつに、自分の書いたテキストが、ネットを通じて世界の誰かの目に届く可能性が拡がったこの時代を歓迎する。
わたしには、ネットを含めた多くの「無償のアクセスの回路」を通じて誰かの著作に接し、自分の読書生活を豊かにしてきたという実感がある。著作者としての立場から言っても、わたしには公立図書館と同様に、ネットが必要である。それらはわたしの将来の読者、将来のわたしの本の購入者を作る土壌にはなりえても、読者を減らす木枯らしにはならないはずである。
同業者団体の中には、この件についてきわめて神経質に対応しているところがある。
(著作がネット上に公開されると)「本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません」
しかし、この団体がこう確言できる根拠はなんだろう?
「図書館という制度のおかげで、本を買う必要がまったくなくなった例がある」とでも言うのだろうか。
この団体は、著作権料が入らないかぎり、絶対に自分たちのテキストは読ませてはやらない、という立場だ。たぶんこのひとたちとわたしとでは、そもそも何を願って書いているのか、というところから違っているのだろう。
わたしは若いころ、書きたいものがあるときは上質紙に原稿を手書きし、仲間たちに回覧した(必ずしも小説ではなかったが)。やがて謄写版印刷を使えるようになると、自分で鉄筆を持ってガリ切りし、自分で印刷して、これを自分で手渡ししてまわった。長い原稿を書いたときは、ホチキスで簡易製本して「本」を作った。
このときわたしにあったものは、自分のテキストをひとりでも多くのひとに読んでもらいたいという欲求であって、相手から原稿料なり印税を徴収したいという、貨幣との交換の期待ではなかった。その「とにかく読んでもらいたいのだ」という衝動のままに、わたしは小説家となった。
職業作家として、わたしは原稿料について触れない編集部なり編集者の原稿依頼には冷淡に対応する。ビジネスとしてやっているなら、それを明示してほしいと願う。しかし、前にも書いたが、世の中からもし出版産業が消えたとしても、わたしは書くことをやめないだろうし、インターネットを使って、わたしは原稿をアップし、公開し続けるだろう。原稿料、著作権料は、わたしが書くうえでの唯一の、あるいは最大のモチベーションではない。
内田樹教授もこの問題に関して、きょうのブログに書いている。
「著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない」
わたしはgoogleに対して、自分の著作物のネット公開を拒絶する意志表示はしない(和解に参加する)。
by sasakijo
| 2009-04-05 19:36
| 日記