クインシー・ジョーンズが手がけた名曲・名盤20選

クインシー・ジョーンズ

2018年、ニューヨーク誌とのインタビューでクインシー・ジョーンズはとりわけ饒舌だった。波乱万丈なキャリアで成し遂げた最大の偉業はと訊かれると、「これまでやってきたことすべて」と答えた。まったくもって同感だ。11月3日に91歳で永眠したジョーンズが残した唯一無二のレガシーを見ればわかる。

【画像】マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの2ショット

1933年この世に生を受け、ジャズトランペッターとしてキャリアをスタートし、努力の末にディジー・ガレスピーのバンドに加入。その傍らでプロデューサー、作曲家、アレンジャーとしての腕を磨き、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、レイ・チャールズにいたる面々に楽曲を提供した。そのうえ早い段階からロックンロールにも携わり、彼が指揮とアレンジを担当したビッグ・メイベルの楽曲「Whole Lotta Shakin’ Goin’ On」は、1955年のリリースから2年後にジェリー・リー・ルイスによってカバーされた。クインシー作品が一世を風靡し始めた1960年初期には、無名だったレスリー・ゴーアのデビュー作の舵を取り、ゴーアを一躍ポップスターの座に押し上げた。このころからグラミー賞にもノミネートされ始め、最終的に28部門を獲得した(現存するアーティストのグラミー賞最多受賞記録で、当時タイ)。

60年代にはサウンドトラックの作曲家として精力的に活動し、自らもアーティストとしてアルバムもリリースした。1974年に脳卒中であわや命を落としかけたが、すぐに復帰すると、歴史に名を遺す1979年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』を皮切りに、独り立ちして大スターの1歩を踏み出すマイケル・ジャクソンの華麗なスタートをお膳立てした。その後もスタジオ技術、トップレベルの作曲力、圧倒的なアレンジ力を革新的に融合して――その最たる例が『スリラー』だ――80年代以降の音楽シーンをがらりと一変させた。21世紀のポップとR&Bは、ジョーンズの影響なしには語れない。以下、彼が数々のアーティストに提供した名盤や楽曲を見ていこう。

レイ・チャールズ「The Ray」(1957年)



意外なことに、ジョーンズとレイ・チャールズは仕事面ではそこまで親しくなかった。10代のころにシアトルで出会った2人は生涯にわたる友情を育んだ。レイ・チャールズはジョーンズの自叙伝で、「クインシーには人好きのするところがあった。彼は天才だった」と振り返っている。「僕らはすぐに意気投合した」。2人がタッグを組んだ数少ない作品のひとつが、1957年のアルバム『The Great Ray Charles』だ。2人の初コラボレーション作品をプロデュースしたのはアトランティック・レコーズのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェクスラーだったが、ジョーンズもオープング曲「The Ray」で作曲とアレンジに加わっている。ディープでスイング感あふれるインストゥルメンタル曲は、サックス奏者のデヴィッド・”ファットヘッド”・ニューマンとベーシストのオスカーピットフォードのサポートもあって、チャールズのジャジーな側面をのぞかせている。ジョーンズの思い入れの深さを考えれば、「The Ray」はチャールズの非公式テーマソングと言っても過言ではない。

リトル・リチャード『The King of the Gospel Singers』(1962年)



アルバム『The King of the Gospel Singers』、通称『It's Real』がリリースされた1962年、リトル・リチャードは世俗的なロックサウンドから高揚感あふれるスピリチュアルなゴスペル音楽に移行する最中だった。当時アフリカ系アメリカ人アーティストの多くが黒人聖歌から世俗音楽へと転向していたが、リチャードは時代の流れと逆行した――往々にしてリチャードのゴスペル作品はそこまで出来が良くなかったこともあり、こうした動きにファンは困惑した。救世主として現れたのがジョーンズだった。アルバムのライナーノーツでプロデューサー本人もこう語っている。「リトル・リチャードとニューヨークで一緒に仕事ができて、本当に楽しかった。彼は非常に信心深いのと同時に、ロックとソウルの感覚も失っていないことに気づいた」。壮大でソウルフルな「(There Will Be) Peace in the Valley (For Me)」は言わずもがな、「Joy Joy Joy」をはじめとする楽曲で、ジョーンズは文字通り往年の熱情的なリチャードを呼び覚ました。

ディジー・ガレスピー『New Wave』(1963年)

「ディジーは12歳の頃から大ファンだった。彼はスタイル、ソウル、テクニックを備えた本物だった」と、ジョーンズは自叙伝で語っている。1956年からジョーンズはジャズトランペッターとしてガレスピーと共演し、次第に巨匠の音楽ディレクターを務めるようになった。1963年には、かつてのボスのアルバム『New Wave!』をプロデュースするまでに成長した。アルバム自体はさして目立つところはないが、プロデュース的に見ると、アントニオ・カルロス・ジョビンのボサノバの名曲を力強くカバーした「One Not Samba」「Chega de Saudade」など、ラテンやアフロキューバン時代のガレスピーを鮮やかにとらえている。当時レスリー・ゴーアとポップミュージックで最初の成功を収めようとしていたジョーンズは、ジャンルのクロスオーバーという美学に磨きをかけていた。「結局はどれも音楽だ――レスリー・ゴーアだろうと、ガレスピーだろうと、12音階を扱うことには変わりない。ずっと同じスタイルに固執していると、面白くなくなる。自分はあちこち走り回って、つねに新鮮な気持ちでいたいんだ」。

レスリー・ゴーア「涙のバースデイ・パーティ」(1963年)



デモテープがジョーンズの手に渡る前のレスリー・ゴーアは、どこにでもいる郊外のティーンエイジャーだった。ニューヨークの大手レコードレーベルでは初めての黒人副社長としてマーキュリー・レコーズに迎えられたジョーンズは、当時A&Rとプロデューサーを兼任していた。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、ニーナ・シモンといったジャズシンガーとの仕事がメインだったが、クインシーはゴーアに可能性を見出した。「彼女は独特のメロウな声の持ち主で、確立された大方のロックシンガーとは違い、音感も良かった。それで彼女と契約した」と、本人も自叙伝で振り返っている。こうした共同創作が最初に身を結んだのが、若さ溢れる陽気なヒット曲「涙のバースデイ・パーティ」だった。ビートルズが加速させた新時代の若者カルチャーを背景に、ゴーアは一夜にしてスターとなった。生前のゴーアは2006年、「私のデモを聞いたクインシーから電話がかかって来て、断れないような話を持ちかけた」とローリングストーン誌のアンソニー・ディカーティス記者に語った。「クインシー・ジョーンズのような天才には敵わないわ」。

レスリー・ゴーア「You Don’t Own Me」(1964年)



レスリー・ゴーアの代表曲「You Don’t Own Me」は、ジョーンズからゴーアに提供されたのではなく、その逆だった。ゴーア本人がアンソニー・ディカーティス記者に語った話では、キャッツキルでの公演後、作曲家のジョン・メダラとデヴィッド・ホワイトから提供され、「びっくり仰天した」そうだ。「自分でもこの曲にほれ込んだのが分かった。2人には月曜にニューヨークに戻ってもらい、マーキュリーで落ち合って、クインシーに曲を聴いてもらうことにした。彼も私と同じように気に入ってくれた」。持ち前のヒットをかぎ分ける能力に加え、当時のジョーンズはジャズや音楽理論を胸焦がすポップに昇華させる能力を急速に身に着けていた。その2つが「You Don’t Own Me」をヒットさせた主な要因だった。オーケストラをアレンジしたドラマチックな楽曲は瞬く間にヒットしただけでなく、初期フェミニズムのアンセムにもなった。ゴーアがゲイを自認するのは数年先の話だが、自己肯定という曲のメッセージは即座に世界中に共鳴した。ゴーアが他界した2015年、グレイスがこの曲をカバーしてヒットしたことからも証明済みだ。ゴーアはディカーティス記者とのインタビューでこう語っている。「クインシーは偉大な指導者、素晴らしい恩師だったけれど、彼は男性目線だった。女性の視点には立っていなかった。だから私もこういう問題と葛藤している気分だった。そもそも自分は社会でどんな人間なのか? 「You Don’t Own Me」のおかげで、自分の中でもはっきりしたわ」。

Akiko Kato

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