日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的ジャズピアニスト/作編曲家/ビッグバンドリーダー、秋吉敏子のアルバム12作品の配信が先日スタート。彼女が海外で大きく再評価されている理由とは? ジャズ評論家・柳樂光隆に解説してもらった。近年、福井良や稲垣次郎、鈴木弘、森山威男などが海外でもその名を知られるようになった。レコードマニアが再発見したり、ストリーミングで発掘されたりしたことで、過去の日本のジャズがちょっとしたブームになっている。日本のフュージョンも人気で、高中正義や菊地ひみこなどが、これまでとは異なる文脈で聴かれているという話をたびたび見かける。シティポップやニューエイジと同様、日本のジャズはレコード市場でずっと人気を集め続けている。
とはいえ、再評価の文脈はレコード経由だけではない。現行世代のアーティストや歴史研究家などからじわじわ再評価されている日本のジャズミュージシャンもいる。そこで今、名前をあげるなら秋吉敏子は外せない、ということになるだろう。
ジャズ作曲家のマリア・シュナイダーがリスペクトを公言し、挾間美帆は2021年の「NEO-SYMPHONIC JAZZ at 芸劇」で秋吉の「Long Yellow Road」を取り上げている。同曲はテリ・リン・キャリントンが2022年に編纂した女性作曲家による新たなジャズスタンダード集『New Standards: 101 Lead Sheets by Women Composers』に収められていたのも印象深い。このように、海外で再び注目されだしている一方で、日本人が意外と知らないジャズ・ジャイアンツの偉業について解説していこうと思う。
天才ピアニストとして10代で台頭秋吉敏子は1929年12月12日、旧満州に生まれ、日本に引き揚げたあとの1947年、つまり10代の頃から九州の駐留軍クラブでジャズを演奏し始めるという、紛れもない天才児だった。1949年に上京すると、すぐに当時のトッププレイヤーたちと共演しながら頭角を現し、1951年に渡辺貞夫らと自身のグループ、コージー・カルテットを結成。1953年には来日したオスカー・ピーターソンの目に留まったことがきっかけでアルバム『Toshiko’s Piano』を録音し、アメリカでデビューしている。
1956年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルにて(Photo by Ben Martin/Getty Images)秋吉のキャリアで重要な記録のひとつに『幻のモカンボ・セッション’54』がある。1954年7月27日に伊勢佐木町のナイトクラブ、モカンボで行われたたジャム・セッションの録音で、渡辺貞夫、宮沢昭、高柳昌行らとともに秋吉も参加。この時期すでに日本のミュージシャンもビバップを完全にものにしていたことがわかる貴重な記録だが、ここでも秋吉の演奏は光っている。
そんな秋吉の転機は1956年、日本人初の留学生としてバークリー音楽院に入学したこと。すでに日本でのキャリアもあった秋吉は瞬く間に注目を集め、同年にアルバム『The Toshiko Trio』をストーリーヴィルから、1958年には『Toshiko & Leon Sash at Newport』『The Many Sides of Toshiko』をヴァ―ヴからリリース。名門からのリリースが物語るように、秋吉はアメリカでもその実力を認められ、チャールス・ミンガスのグループなどで活動。1956年〜1957年にはニューポート・ジャズ・フェス出演も果たしている。
この時期に秋吉が発表した作品は、ピアニストとしての彼女が全面に出ている。バド・パウエル系譜のイメージが強いが、改めて聴くと、アート・テイタムやオスカー・ピーターソンなども含めた当時の偉大なピアニストたちのスタイルを取り入れながら、自身の表現を模索しているピアノの素晴らしさにグッとくる。
「日本人」であることに向き合う姿勢そこから1960年代に入ると、ピアニストとしての側面以外に関しても、彼女ならではの個性とヴィジョンが確立されていった。
まず、この時期から民謡を始めとした日本の曲を積極的に取り上げ、それをジャズのレパートリーとして昇華している。『The Toshiko Trio』での「蘇州夜曲」に始まり、1965年『Lullabies for You(トシコの子守歌)』での「毬と殿様」「かんちょろりん節」、1964年のジャパン・ジャズ・オールスターズに参加しての『From Japan With Jazz』では「木更津甚句」と、その例はいくつもある。こういった日本をテーマにした楽曲は、秋吉が生涯をかけて追及するものになっていく。
また、1961年『Toshiko Mariano Quartet』収録の「Long Yellow Road」、1968年『トップ・オブ・ザ・ゲイトの秋吉敏子』の「Phrygian Waterfall」、1971年『The Personal Aspect in Jazz』の「Sumie」などを聴くと、その自作曲にはストーリーがあり、個性的な旋律や響きやテクスチャーが鳴っていて、作編曲家の立場から「アメリカ人によるジャズ」とは異なるサウンドを模索しているのがわかる。秋吉は渡米してからずっと「アメリカのジャズシーンに飛び込んだ日本人」としての自身と向き合い続けてきた。