実に数ヶ月ぶりの更新。
気がつくとすっかり日も短くなってしまったし、1年のうちで最も好きになれない時期はもうすぐそこまできている。 自分がまだ人の親ではなかった頃は、この時期を回避するために国外逃亡していたこともあったけれど、子供にとって心ときめくこの時期、“パパはちょっと来年まで逃げるからね”・・・とは言えなくなってしまった。 自分で言うのもなんだけど、今年も随分色々と考えた。 あれこれ考え過ぎて、しばらくは考えたくないなぁ・・・と思いながらも、やはり気になって仕方がないからあれこれ考える。のろまな旧型の頭脳に加えてメモリー一杯でフリーズしまくり。ど壷に嵌まってさぁ大変…な毎日…このまま年末へと突入することはもう間違いない。 前振りが長くなってしまったけれど、今年も随分と「つくること」について考えたので、「つくること」と「芸術」の周辺についてたらたらと書いてみようと思う。 そんなことは世間の大多数の人々にとってはどうでも良いことだとは思うのだけれど、「つくること」=「商売」という価値感にはどうしても納得がいかない私。 とは言え、私とて「つくること」で日々の糧を得ている一人。 別に商売を目の仇にしているわけでは無いからこそこれだけはハッキリとさせておきたい。 押し付けられた価値観の中でつくり続けるのはもうウンザリ。 そんなものつくりたくもないし見たくもない。 ![]() ただし、日本には“それ”が無かったわけじゃない。そんな概念は必要なかっただけなのだ。 欧米諸国に追いつくことだけを目標に、外側でつくられた価値観でがんじがらめになる時代の始まり。ここから日本の迷走は始まった。 現代においての芸術は、その始まりから大きく離れたところに置かれてはいるが、この国には芸術が無いと思い込まされた人々はいまだ芸術的価値観を追い続け現代に至る。 「芸術」はもともと明治時代にリベラル・アートの訳語として造語されたものらしい。 その後、英語のファインアート(fine arts)の訳語として採用されることになる。 やがてファインアートのうち視覚芸術に限定して使われるものが「美術」、これからはみだした、詩、音楽、演劇なども含むファインアートに相当する日本語としては「芸術」が使われるようになったそうだ。 古代ローマにおいて技術(アルス ars)は、自由人の諸技術(アルテース・リーベラーレース artes liberales)と、手の技である機械的技術(アルテース・メーカニカエ artes mechanicae)に区別された。 ![]() artes liberalesを英語に訳したものが「リベラル・アーツ」 リベラル・アーツ (liberal arts)の原義は「人を自由にする学問」…自由人としての教養であり、手工業者や商人のための訓練とは区別された。(この区別にはちょっとムカッとくるが…) 今日では人文学、社会科学、自然科学を包括する専門分野(disciplines)のことを意味している。 現代ではliberal artsと『芸術』が同義語とは解釈されてはいないが、「芸術とは何?」「美術とは」「アートとは?」・・・そして、社会とアートの関係性について考える上では見逃すことはできないと私は思っている。 そもそも「ars」のうち、artes liberalesを芸術としてしまったことに混迷は始まるのだが、さらに視覚芸術に限って美術としたこと、その他を芸術にしてしまったことで、さらなる混迷へと至ってしまったのだ。 古代ローマで示された技術(アルス=ars)が本質的に示しているものは、人間が持つ最も大きな可能性・・・「つくリ出す力」 「創造する力」のことではなかろうか。 ようするにそれこそが『アート』。 アートは、artes liberalesとartes mechanicae その両方を欠かすことはできない。 その両方が混ざり合ったものこそがアートではなかろうか…。 欧米のArtと日本の芸術の違い…、欧米の人々にとってArtは日本人にとっての芸術とは異なる位置にある理由はここにある。 現在、日本人の多くが認識する芸術・美術とは、artes liberalesでもなければartes mechanicaeでもない。それは、アートマーケットという市場で扱いやすいもの…市場経済というカタログに載せられる商品に近いのかもしれない。 そもそも「芸術」は、目に見えるモノだったり、耳に聞こえるもの、触って感じるもの…という違いはあれど、単にこの世の中にある一つの事象、現象にすぎない。 だから、芸術作品と呼ばれる事象・現象があるだけでは意味がわからなくて当然、芸術作品が意味を放出しているわけでは無い。 そこにある芸術作品から意思を汲み出そうとするのは自由だが、優れた芸術作品ならば誰にでも意思が伝わるという思い込みは全く根拠の無い幻想に近い。 とはいえ、優れた芸術作品はある。優れた芸術作品は人の心に何らかの影響を及ぼすことは間違いない。 芸術と向き合った時、落ち込んでいた気持ちが晴れ晴れとしたした気持ちに変わることや、忘れかけていた何かを突然思い出し、涙することもあるだろう。 芸術が人の視覚や聴覚など五感と呼ばれる感覚を介して人の心に触れる術となることを否定はしない。 それだからこそ、私はもう随分と長く芸術に関わり続けている。 自分の中にある「心」の存在に気がつく瞬間。 それは他の誰でも無い、自分は自分でしかないということに気がつく瞬間。 アートが人の心を動かすのでは無い。 人の中にある心が動くことがなければどんな事象も現象もアートには成り得ない。 なにより、そこにあるものの価値も意味もそれと対峙している自分がたった一人で決めるもの。 そこには本当の自分と本当の自由がある。 だからこそアートはただじっとそこにあるだけでいい。 アーティストにできるのはそこまで。 そう・・・、そこまでだけど・・・それを人がつくることはとてもとてもとても難しい。 「私には見えるもの」・・・芸術とはそれ以上でもなければそれ以下でもないと私は思う。 ![]()
by riki-tribal
| 2007-11-20 19:03
| Artあれこれ
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