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カテゴリ:「メディアの時代からP2Pの時代へ」
ガ島氏が、ミドルメディアなどと言って、倫敦橋さんの不興をかっている。
梅田望夫氏の言論を、私は批判しつづけている。 日本の市井人に、ハワード・ラインゴールドの著書に納得できることは少ない。 その理由はふたつ。 日本のIT言論がステークホルダーの奴隷となり、アメリカを無批判に追従するのが日本であると考えている人たちが牛耳っているからだ。 私は、メディアがステークホルダーの奴隷となるのはかまわないと思う。だが、ネットでも存在する個が、ステークホルダーのままでいるとするならば、それはネット者ではない。 勿論、コメント欄を開かず、TBを制限するような輩はメディア者ではあっても、ネット者ではない。 2006年秋においても、いまだにメディアを論じることの虚無を感じぬものは、IT者でもない。 倫敦橋さんは「あのダイアグラムの中に検索エンジンはどこに入るのだ」と疑問を呈していたが、P2Pという概念がないから、あの図に内包できぬのだ。 今後、「メディア型のマスディストリビューションは、P2Pコミュニケーションの中の小宇宙であること」は、歌川先生との研究論文でまとめることになるだろう。 ☆ ステークホルダーの奴隷というのは、IT業界に不利になる言論を一切論じないということだから分かりやすい。 そこで、このエントリーでは、日本とアメリカの差について、ダイアグラムとして紹介する。 (ラインゴールド批判のところで追加紹介した図である) 日本は多神教の国であり、アメリカは一神教の国である。日本は単一民族であり、アメリカは人種のるつぼである。さまざまな要素がからまりあって、一概に分析できぬという評者も多いのかもしれぬが、同質性・多様性という評価軸であれば、その性向の違いは明確にできると思う。 戦後の日本に無批判でやってきたアメリカの制度・精神。そういうものを無批判に日本に導入すると、手痛いことになる。 最近では、二大政党制の日本に適していないことが分かった。次は、陪審員制度が日本に適していないことを試すという。 問題は、西欧が個人主義でできあがっており、日本が集団主義だという精神的風土が原因ではない。 西欧であっても、同質性が高いコミュニティーではカリスマは必要せず、集団指導体制(ローマの元老院)が実現する。だが、社会が成熟するにつれて、同質性の中の差異に目覚めるとカリスマによって集団を維持することが求められるようになる。 たとえば、現在の中国は、毛沢東やトウ小平のようなカリスマがいないことは、すでにひとつの国でなければ中国社会が存続していかぬことを中国人たちが理解していることの現われだともいえる。 逆に、プーチンが陰謀によって自らのカリスマ性を維持しなければならぬのは、ロシアが分断・拡散することもけっして悪いことではないと、多くのロシア人が感じ始めていることの表れでもあるのだ。 いじめの問題、政治の問題など、さつざまな日本の諸相に多いなリファレンスとなる。 宮本武蔵の五輪の書の結語をもじって、次のように〆る。 「よくよく吟味するように…」 追記: 同質性の高いコミュニティーを導くものは、外圧である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年12月07日 09時35分44秒
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