カテゴリ:健康~こころとからだ
帰宅してテレビを久しぶりに点けたら、鬼束ちひろが歌っていた。
すべるような黒い衣装に身を包み、振り絞るように声をあげていた。 でも、曲のお尻に声が落ちてしまう。 とても苦しそうだった。 目が黒く窪んでいた。 数年前に彼女を見たときに感じた、瞳の中の狂気が失くなっていて、替わりにたくさんの哀しみが詰まっているような気がした。 「もしかしたら彼女は境界を超えてしまったのかもしれない」 正直いって、そう思った。 この数年、彼女は休業していて、ずっと塞いでいたそうだ。 顔色を見る限り、うつ病だったのではないだろうか。 久しぶりに歌う彼女はとても緊張していた。声は伸びがなくなっていた。おそらく緊張を解くために筋肉を弛緩させる薬も飲んでいるせいで、喉周りの筋肉も張ることができないのだろうと思った。 歌い手が精神の病気にかかって、投薬すると、たいていそんな喉になってしまう。 私が音楽をかじっていた十数年間、どんなことがあっても心療内科の通院やそれらの薬をいただくことを拒否したのは、それを知っていたからである。 あんまり日本人歌手の歌は聴かないのだが、鬼束ちひろは数少ない、好きな歌手だった。 デビューしたばかりのときに、テレビで彼女をひとめ見て釘付けになった。 テレビカメラに一切視線をやらず、視線が宙に舞っていた。 裸足で歌っている彼女の瞳の中には、狂気と絶望が宿っていた。 だから私は彼女に惹かれた。 歌をやっている人ならわかるだろうが、前傾のスタイルで、あれだけの細くて激しい音程の変化をこなすには、喉にどれだけ負担がかかるか。 彼女の声質から鑑みるに、そんなに声帯も丈夫じゃない。 ぎりぎりのことをやってのけているのだ。 さらに、インタビュアーが宗教的な言葉が踊るその曲のコンセプトについて尋ねたときに、 「曲が天から降りてくるの」 「神の声を聴いて作曲した」 と彼女が答えて、生放送の番組にもかかわらず、数秒間の沈黙が訪れた。 そのとき、私は思った。 「彼女の瞳に宿しているもの、表現したいものは、本当にきわどくて、真似のできないものだ」と。 シンガーソングライターであった彼女の歌い方も、声も、そして歌詞も含めて、彼女の瞳が表すように、全てが狂気に満ちていた。 「苦しい、私を理解して」 叫びなのか、祈りなのかわからないけれど、今すぐに「あちら側」に行ってしまいそうな自分を押しとどめるかのような危うい旋律で歌い上げる彼女に魅せられて、私はすぐにCDを買い求めに言ったことを覚えている。 食べ物の話で恐縮だけれど、牛肉は腐りかけが一番うまい。 アミノ酸が熟成して、乳臭く、とても甘い匂いを放つからだ。 牛乳もそう。苦くなる直前の数日にとてつもなく甘くてこくのある味に化ける。 人間も相場も、同じ性質を持つのだと思う。 行き過ぎてもう戻れなくなる状態、すなわち「あちら側」に行くかいかないかの時というのは、すごく危ういと感じると同時に、そのとき織り成すものは、人々に甘美をもたらす。 それは「メメント・モリ」(死を想う)ことと一緒である。 死ぬ直前というのは、死を自覚しながらも恐怖よりも、楽しかった記憶とともに快楽が自分を支配する。 鬼束ちひろは、「メメント・モリ」を持つアーティストだと捉えていた。 どんな人生を送ってきたかは知らないけれど、彼女の歌には現実と狂気の間に織り成すハーモニーがあった。 切り立った崖の端を裸足で駆けるかのような、そんなイメージングをおこさせる彼女の歌を何度も何度も聴いては泣き、同時に癒されたことを思い出した。 テレビで彼女の歌を聞いた後、強烈に昔の彼女の声を欲している自分がいた。 CDをひっぱり出して今、聴いている。 脆くて儚いものは、どうして甘美で、人の心を揺さぶるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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