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カテゴリ:その他
泥棒の背中を洗う警官、その警官の背中を洗う女店員。ここには物語を、文体を立体的にする複数の視点が存在している。その伊丹の視点に大江は共感する。そのことばは伊丹を深く励ましたであろうと思う。伊集院が静かに語りはじめる。 「伊丹さんにはよく意味のわからないNGと、よく意味のわからないおっけーがあったんです。なぜ今のがだめなのか、なぜ今のがいいのか、やってるこっちにはよくわからない。でも役者はとにかく淡々と何度でも繰り返し演じるしかない。でも、あのシーンでは最初の出前持ちをからかうシーン、最後の背中を洗うシーン、あれはとにかく延々と繰り返し演技させられたのを覚えています。伊丹さんはその大江さんのことばを聞いて、きっと「報われた」と思ったと思いますよ」 ひとつの物語を複数個の視点から立体的に浮かび上がらせる。大江はこの話を周到に準備してきたのである。けっして語りがうまいとはいえない彼の話は、伏線から、最後の一語まで、実にみごとだった。 そして私は思う。 この話にはもうひとつのしかけがある、と。 この同じ話が、一般のリスナーと目の前の伊集院ではまったく異なる受けとられ方をしている。リスナーは最後の一言で警官が伊集院であったことを知り、伊集院は最初の一言でそのことを知る。 同じ話がまったく違う受けとられ方をしているのである。 複数個の視点の重要性を物語るエピソードを、複数個の受けとられ方をするように物語る。 この話は入れ子構造になっているのである。マトリョーシカ人形になっている。 そして、それこそが物語の本質なのである。 大江にこれだけの話をさせる伊集院光という人はかなりの人物であるということになるのではないだろうか。 そして、私はふと気づく。彼がその話の中で「小太り」「小太り」という言葉をさかんに連発していたことを。 「小太り」の「光」。それはまた大江の息子に連なるのではないか、と。 この話はいったいどこまで入れ子構造になっているのだろう。 物語の要諦、それは自分の後頭部を想像の目で見ることだ。 そんなことを思いながら、私は日曜の午後、日の当たるリビングでひとり静かに配水管のチェックを待つのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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