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テーマ:サッカーあれこれ(20165)
カテゴリ:その他
中田英寿選手の引退メッセージを読む。
彼のHPを見るのはこれが初めてである。一読して、これほど整った文章の書き手だったのかということに少なからぬ驚きを覚えた。 この文章の書き手は「音」や「響き」を意識しながら文章を書いている。文字や単語の数、文章のバランス、センテンスとセンテンスの間の間合いや呼吸に無神経な人間はこのような文章を書くことができない。 きわめて強い意志力とある種の強固な美意識の持ち主であることが文章の端々からうかがえる。 もちろんこの文章にまったく問題がないわけではない。「思わず使いたくなる便利なことば」に対してもう少し自制心を働かせることができれば、彼は自分の内面にさらに一歩近づくことばを手にすることができただろう。 ほんの少しだけヒロイックな言い回しを好み、その言い回しに時に耽溺する傾向があるようにも思える(「おい、おい、それをお前に言われたくないよな」って声がどこからかかすかに聞こえてくるな。空耳かな。) ただ、この文章を読んで一番印象に残るのは、彼が何十回となく推敲を重ねた末に、本文をアップロードしているということだ。ほとんど疵が見あたらず、リズムの崩れや言い回しのほつれがない。これは何十回と推敲に推敲を重ねない限り、実現することのできないものである。 もちろん文章を書く経験を積めば、ほとんど「一発録り」で疵のない文章を書くことはできる。しかし、そのようにして書かれた文章には、もっと躍動感というか、ライブのノリに近い臨場感が伴うものである。 この文章からはそういう「ナマな」息づかいや鼓動を感じとることができない。いろいろな箇所を慎重に、かつ丁寧にハサミで切りそろえたような細かな細工・手入れの跡を私は感じる。 少し意地悪な言い方をすれば、彼は完成度を優先して、文章の「のびやかさ」を犠牲にしている。そういってもいいかもしれない。 しかし、文章のプロでもない人間が、自ら書いた文章を何十回も読み返して推敲できるかというと、これは至難の技である。 おそらくそれは私のようなサッカーのど素人が何百回もリフティングをするよりもはるかにむずかしい作業だと思う。 この一事をもってしても、彼が並はずれた集中力と、自らの文章表現に対する熱意の持ち主であるということは十分に推測できる。 そういえば、去年の今頃、ある国立大学を目指す海外からの帰国生に小論文を教えたことがある。毎年恒例の授業で、三日間の集中講義である。生徒は例年15名ほどだったが、その年はやや人数が少なく、9名だった。生徒の志望学部を見ると、その年には顕著な傾向があった。とにかく体育学部志望が多かったのである。その大学は国立でありながら、スポーツ医学その他の研究でも有名であり、トップクラスのアスリートが入学することでも知られている。 当然のことながら、彼らは体育的実践に日々いそしんでおり、「小論文」などという辛気くさい作業に時間を割く余裕はほとんどない。 小論文を書くのははじめてという生徒が大半である。だから、なるべく人間性をストレートに嫌味なく示す素朴な文章を書くようにと指導する。三日間ではそれくらいが限度である。 最初の時間、そのクラスに入る。9名だから、すぐに顔も名前も覚えられる。私は型通りの小論文入門講座を始める。話し始めてしばらくすると、いつもとは少し違う感触を感じる。こちらの調子はいつも通りなのだが、何か生徒の反応のなかに例年とは違う微妙な違和感を感じる。いったいこれはなんだろう。 しばらく授業を続けているうちにその原因がわかる。一番うしろの席に座っている色の浅黒いいかにもスポーツマンという感じの凛々しい青年がその違和感の発信源だ。しかし、彼がことさら変わった反応をしているわけではない。彼はきちんと背を伸ばしてこちらに正対し、私の話をワンフレーズごとにしっかりと聞き取り、理解しようと努めている。まったく模範的な生徒というべき態度である。しかし、その聞き取りの集中力とすなおさがはんぱではない。 まるでアメリカ製の強力な吸引力をもった大型の電気掃除機で、私のアドバイスが口から出された途端に、あっという間に吸い取られているような気がする。彼はときおり手を挙げて、簡潔な質問をする。私はその問いに簡潔、的確に答える。その答えはまた彼の脳髄に瞬時のうちに吸い込まれる。ちょうど乾ききった地面の上にそそがれたコップの水のように、それはあっという間に吸収されてしまう。 私は緊張した。もしここで誤ったアドバイスをすれば、彼はその誤りまで完璧に吸い取ってしまう。こういう緊張感を強いる生徒はめったにいるものではない。私は慎重に、慎重に、と自分に言い聞かせながら授業を続ける。 この授業では都合三枚の小論文を書かせる。そして、すべて私が自分で添削を行う。一枚目、彼の小論文はまるで作文だった。私は小論文と作文の原理的な違いを彼に教える。彼は瞬時にしてその意味を理解する。二日目に彼が書いた文章は、紛れもなく小論文になっていた。しかし、全体の構成に難があった。一枚目はC評価、二枚目はB評価。私は彼に構成の要諦を教えた。彼はそのことばを例の高性能の吸引ホースでしっかり吸い取った。三日目、彼の書いた文章はA評価。ほとんど完璧な文章になっていた。 「あのねー、こんなに短期間に文章が変わるってことはふつうありえないんだよ。いったいどうなってるの」と私は思い、「君は体育学部志望らしいけど、運動は何やってたの」と聞いてみた。 「サッカーっす」 「でも、ふつうの選手じゃないよね、たぶん。これはオレの勘なんだけど」 「はあ、一応全日本のユースのレギュラーっす」 なるほどね。トップアスリートというのはこういう能力をもっているのか。自分にプラスになるアドバイスのできる人間を瞬時に見きわめ、おそろしい集中力でそのアドバイスを貪欲に吸収し、即座に実行する。しかし、たいへんなものである。 「先生、あと何か気をつけたほうがいいことってありますか?」 「ああ、とりあえず毎日ちゃんと食べて、よく寝ること。それさえ実行すれば、まちがいなく合格するから」 「ありがとうございますっ」 彼は5月の空のような笑顔を見せてぺこりと頭を下げた。 当然のように彼はその大学に合格した。例年2~3名の合格者しか出ないその授業では、出席者9名のうち、なんと6名が合格してしまった。彼の貪欲な吸収力が私の潜在的な能力まで通常レベル以上に発揮させてしまったようである。しかし、すさまじい男だったな、あいつ。 中田選手の文章を読んで、去年のその生徒のことを思いだした。あのレベルの人間にとっては、もはや「あたま」とか「からだ」とかいう区別すらたいした意味をもたなくなってしまう。自分にプラスになるものを吸い取る力の強さにおいて、常人をはるかに凌駕する人間というものがこの世にはたしかに存在するのである。 しかし、僭越ながら、中田選手に一言だけアドバイスをするとしたら、私はこう言いたい。 「あなたは実にすばらしい文章を書く。すみずみまでよく考え抜き、自分のこころの核心を把握し、それを伝えるという強い意志をもって、文章を書いている。それは実にすばらしいことだ。しかも、いったん書き終わっても、けっして自分の文章に溺れることなく、全体のリズム、トーン、ボイス、バランスに考慮して、徹底的な推敲を行っている。もちろんこの文章がある意味では「歴史的な文書」になるという自覚もあってのことではあると思うけれども、ここまでの完成度の高い文章を綴ることができるということはまぎれもなくすばらしいことであると私は思う。」 「でもね、中田さん。この文章をプロの添削屋が読むと、少しだけ息がつまる。少しだけ息苦しくなる。素朴な感想としてそれだけはいっておきたい。おそらくあなたは何か行動を起こそうとするとき、まず息を「すっ」と吸ってから始動する癖があるのではないだろうか。走り始めるとき、言葉を紡ごうとするとき、重大な決意をするとき、大事なメッセージをチームメイトに伝えようとするとき、あなたはその直前に息を吸う癖をもってはいないだろうか。」 「おそらくはその癖が、あなたのことばを聞く人間を少しだけ息苦しくしてしまうのだ。それがおそらくはあなたのいうコミュニケーションの問題につながるのだと思う。息を吸うことは緊張を強いることであり、その緊張のもとにことばを発することは、そのことばの担うメッセージ以前に、相手に緊張を強いる結果になってしまうのだ。だから、中田さん、あなたに対する私の唯一のアドバイスは、何かを始める直前にいったん肺の中にある空気をゆっくりと吐ききって、吐きおわった後、自然に息を吸い込んでから、行動を開始すること。それだけです。息を吐いて、いったん体をゆるめて自然体で次の行動を開始すること。おそらく、いままでのあなたはそういう余裕をもつことすら許されないほど過酷な環境で生きてきたのでしょう。それがあなたの文章の端々から痛いほど感じとれます。でも、もうそんなに無理に息を詰めてがんばる必要はないのですよ。ゆったりと息を吐いて、次に何をしようかをのんびりと考えればいいのです。あなたの文章を読んで、私のできるアドバイスはただそれだけです。」 中田選手、おつかれさまでした。ゆっくりやすんで息を吐き切り、体の緊張をゆるめてください。そこから自然に次のメッセージがあなたの口から出てくるはずです。そして、そのことばはいまよりももっとしなやかでのびのある輝かしい文章になっていると私は思います。 周囲の雑音など気にせず、ゆっくりと息を吐ききること。 私のアドバイスは以上です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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