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カテゴリ:戯れ言
昨日毒づいてると言われたので追記。
個人HP、ブログ、mixiにはプロフィールがある。 その中で「私は毒舌家です」などと書いている人がいる。 そもそも毒舌とは何か。 ■どくぜつ 【毒舌】 手きびしい皮肉や悪口。辛辣(しんらつ)な皮肉。 「大辞林 第二版」より。 私的な解釈をすれば「悪口」をオブラートで包んだ言い方である。 「私は悪口を言うのが好きです」というより「私は毒舌家です」と言った方が陰湿さが抜けて、確かにマイルドな感じにはなる。 しかし悪口はどこまで行っても所詮悪口で、攻撃的なスタンスである事は間違いない。 しかし「自称毒舌家」という幟を掲げる事によって「マイルドに悪口言ってるんだから、本気で反撃するなんてナンセンスだよ~」と言うようエッセンスを含ませたいのだ。しかしこれはまるで無抵抗な者に空爆をしかけるようなものだ。自分はあくまで安全地帯。相手からの反撃は届かない。 田中眞紀子が以前小泉純一郎に対し「小泉はアジアで一番アタマが悪い」と発言した事があるが、これなどは明らかに単なる悪口で「毒舌」の皮をかぶって反撃を免れようとしているに過ぎない。 まさに卑劣。 次に自称「私は気分屋さんなの」も代表的な卑怯な手口。 「私は気分屋なので、ときどき嫌な事言ったり、突然泣いたり、かと思えば笑ったり、周りを巻き込んで迷惑かけてもしかたないの。だって気分屋さんだもん★」 これは自爆テロだ。 「どうしてアタシの事批判するの!私は気分屋だって言ってるじゃない!」 自分の思想に埋没する原理主義だ。 若い時は良い。容姿が良ければ短期間ならば異性は相手を肯定してくれる。それがかわいらしさと思う奇特な人物もいるかもしれない。しかし年をとった時当人達はどうするのつもりなのだろうか。大人になると面と向かって忠告してくれる人は少なくなる。その時あなたは影でなんと評価されているでしょうか? 別に悪口を言っても構わないし、気分屋でも全然良い。が、それを免罪符にして自分の責任を放棄するなという事だ。相手を強く叩けばその力で跳ね返ってくる。それをきちんと受け止められない様ならば最初から叩かなければよい。叩いて逃げるような事がまかり通っているから世の中おかしくなってくるのだ。 もういっちょいっとくか。 「ただ今リスカ(リストカッター)の数○本。今日は睡眠薬○錠飲みました。薬がないとダメなんです。オーバードーズです」 おそらく「私は自殺願望のある弱い人間」アピールだと思うが、mixiやってる人やブロガーなら文章を書くのがいかに大変で生命力を使うかわかるだろう。生命力の弱い人間はしっかりとした構成の文章なんてかけやしない。 大丈夫だ。君は死なない。死ねない。 私には自分を「弱い人間」だと言える、その精神の図太さが羨ましい。人間なんてみんな弱いものなのに。 そして彼女達の暴走を加速させる、良い人ぶったセックス目的の男共のコメント。 「大丈夫だよ、心配ないよ。僕には君の考えてる事がわかるよ」 もちろん人が困っていれば助けてやりたくなるのが人間だと信じたい。損得なしで相手を思いやる時もある。私だってそうだ。友人や本当に弱ってる奴がいたら手を貸してやりたい、励ましてやりたい。 が、そうでない時の方が多い。コメントした人間が本当は何を求めているのかは客観的な第三者の目でみれば簡単にわかるはず だ。 考えてみて欲しい。もしそのリスカしている相手が本当の友人だとしたらそんな上っ面だけのポテチ食いながらでも付けられそうなコメントをするだろうか? 私なら殴ってでも、絶対にやめさせる。絶対にだ。 方法論の問題ではない。それぐらい強い気持ちで相手に接するという事だ。 例えばmixiなら情緒的な文章に対し同意的な異性のコメントだけついている人なら、それは何か見返りを求めたものであると想像に難くない。批判的だったり、同性からもあるようならその人は善意によって包まれていると想像できる。 そしてそういう事が起こるのはやはりmixiが「出会い系」の性質を多分に含んでいるからであろう。認めようが認めなかろうがそれは事実である。そして世間一般で言われる「出会い系」としての性質を特化させて使用している男性が少なくないと言う事であろう。 本当にみんなそれがわかってないのだろうか。わかっていても見て見ないないフリをしているだけなのだろうか。わかっていて道化を演じているのだろうか。 世の中見ないフリが多すぎる。 尚、この文章の批判反論は一切受け付けない。 なぜなら「私は毒舌家だから」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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