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田螺の遠吠え

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2012.09.24
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カテゴリ:日記

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我が町のほぼ中央を山口線が走っている。

普段はディーゼル車が行き来しているが、

冬季を除く土・日には『SL山口号』が走り、

鉄道ファンを喜ばせている、らしい。

 0924 sl.jpg住宅地を走るSL山口号

この山口線だが、すんなりと敷設されたのではない。

バカバカしい紆余曲折があったのだ。

 

現在の山陽本線が下関まで開通したのは明治33年(1900)だが、

実は線路が決定する前に、

鉄道会社から山口町(当時)に打診があった。

 0924 明治38年の小郡駅.jpg

 明治38年頃の小郡駅

線路を三田尻町(現防府市)から山口経由にする計画だ。

ところが山口町の旅館業らが猛反対運動を起こしたのだ。

反対の理由は、

「汽車が通過すると客足が留まらないようになって町が寂れるから」。

昭和30年発行の『山口市史』の編者は、

町の発展を阻害した彼らが余程腹に据えかねたのであろう。

反対首謀者の実名を挙げて、その経緯を詳しく記している。

 

結局、山陽鉄道は山口を通らず、現在のルートで開通した。

山口町には県庁がある。連隊もある。学校も数多くあった。

だが、鉄道が通っていない。不便極まりない。

後に、このこともあって、県庁移転問題も起きた。

そうしたところ、驚いたことに山陽鉄道に反対したヤツらが、

軽便鉄道会社を設立して、

小郡駅(現新山口駅)から山口町中まで走らせたのだ。

最初から、それが目的か怒ってると勘繰られても仕方ない。

軽便鉄道と云うのは「お猿の駕籠屋だホイサッサ」ではないが、

チンケな遊園地の中を走っていそうな汽車だ。

 0924 軽便.jpg軽便鉄道

立っている人物と比較しても大きさが判るであろう。

今であれば喜ばれそうな汽車であるが、兎に角、みすぼらしい。

これじゃあいかん、というので、山口町は近隣町村と連携を図って、

山陰縦貫鉄道敷設を始めたのであった。

熱心な請願が効を奏して、

ようやく現在の山口線敷設工事が決まったのが

明治44年(1911)のことだ。

11年もの歳月を山口町は無駄にしたのだ。

待望の汽車が小郡から山口に通じたのは大正2年のことだった。

 0924 完成当時の山口駅.jpg

 完成当時の山口駅

駅前右側に多くの人力車が並んでいる。

この山口駅舎は昭和53年の改築まで使われた。記憶がある。

こちらは昭和初年の湯田駅(現在は湯田温泉駅)である。

 0924 昭和初年湯田駅.jpg

 湯田駅

この駅舎にも覚えがある。駅前には土産物屋などが店を構えたが、

当時、乗降客は少なく、商売にならなかったようだ。

 

山口市は、この、現在の山口線ルート選択でも失敗したようだ。

当初、路線企画が3つあった。

1つは、仁保駅から大内地区を経て湯田南方から小郡に向かうルート。

2つ目は現在のルート。

3つ目は、宮野から町の北側の山裾を走り、

連隊北側から県庁前を通り、町中ら旧小郡街道に出るルートだった。

 

山口町は第3案を強く要望すべきであった。

県庁前が山口駅になる。多くの学校も県庁近くに在った。

 

山陽線誘致で失敗した経済的損失は計り知れない。

山口町を山陽線が走っていれば、当然、新幹線も止まったであろう。

以前、地元大学経済学部の先生に、

もし、山陽線が山口町を走っていたら、

の仮定で試算して貰ったことがある。

詳しい数字は忘れたが、物凄い損失だった。

反対運動を起こし、潰した連中は万死に値する。

 

のんきに汽車を走らせている田舎の単線には、

こんな過去があったのだ。

 

古い写真は『ふるさとの想い出写真集山口』、『ふるさと小郡の記憶』から借用しました。

参考文献は『山口市史・通史編』です。

 

 

 






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最終更新日  2012.09.24 14:34:34
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