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恋愛漫画にとって歴史的に感じる出会い/竹宮惠子×仲谷鳰対談

 『響け!ユーフォニアム2』に見る恋愛のアレゴリーと、『やがて君になる』の百合以来、丸半年ぶりのブログ更新です。


 今日は京都精華大学オープンキャンパスで行われた、竹宮惠子学長と、同大学の卒業生でもある仲谷鳰(『やがて君になる』)の対談イベントを聴講してきました。


 講義としては、大学側の司会進行によるお題に、お二方がそれぞれ答えていくというスタイルで、「影響を受けた作品」など基本的なテーマもあったのですが、今回は「恋愛表現」「BL(少年愛)」「GL(百合)」という、メインと思われる話題に絞って感想を残しておきたいと思います。

BL/GLを選択する動機

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 まず、竹宮先生が『風と木の詩』という少年愛作品を手がけることになった動機や経緯についてはさまざまな媒体で幾度も語られてきたことなので、言わずもがなな読者も多いと思いますが……。
 要点を振り返れば、「旧態依然の少女漫画という状況に対して、編集者(当時はほとんど男性)の考え方を打破したり、抑圧されていた少女の性の解放をしたかった」という動機が先にあった。少年愛という(当時においては革新的すぎた)題材は、この「少女の性解放」を実現するための方法として戦略的に選んだところがあり、本人にしてみればBLだろうと、GLだろうと、年齢差のある恋だろうと、「当時抑圧されていたもの」を描けるのならば特別な違いはなかったという。
 だから『風と木の詩』はBLの文化を切り開いた作品、と評価されることも多いが、作者自身の目的は「性の抑圧の打破」そのものだったのであって、既存の価値観をひっくり返す役には立てたかもしれないが、BLを文化にしようと思ったことはまったくなかった、という認識のズレがあったりもする。


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 一方で『やがて君になる』は元々「百合」という文化が存在する前提で発表されている作品であり、そこに当然、時代の開きというものがある。
 しかし前回のエントリでも触れていたように、『やがて君になる』は恋愛至上主義的な、「恋愛こそが特別」「恋愛するのが当たり前」という価値観を疑った上で恋愛を描く、というテーマを持っている。
 作者にとってみれば「そのテーマを描くだけなら、BLでもGLでも、異性愛でもよかったかもしれない」と前置きしつつ、「でも百合になったのは私の趣味で、それが好きだから」と、ちょっと笑いながら(照れながら)理由を語ったりするところでもある。


 どちらも同性愛の表現に対して「BLやGLという手段にこだわる必要はなかったかもしれない」という出発点を共有しつつ、竹宮惠子による「どうしようもなく、当時はその表現にするしかなかった」と言わんばかりの、激しい衝動すら感じさせる創作動機に対し、仲谷鳰の「自分が好きだから」を動機にしてもよい自由さ……というのは、確かに時代の変化を実感させられます。
 いろんな表現の選択肢があるなかで、その頃の気風や状況に抗いながら戦略的に選ぶのではなく、自由に、自分の好みで選ぶことのできる時代というのは、確かにいいものだと思えますし、竹宮先生が「解放」した恋愛表現が今しっかりと実を結んでいると感じられるからです。


 その意味で、漫画における同性愛表現を開いた作家と、最前線にいる作家のあいだで「パスが通っている」様子を見ることができたような気がして、歴史的なイベントだったのではないかと言いたくなるところです。


恋愛表現としてのBL/GL

 また仲谷鳰が言うには、恋愛ドラマというものは「禁じられたり、秘密があるほど面白くなる」という側面がどうしてもある。
 竹宮惠子にとって、『風と木の詩』はその意味で「抑圧」ありきだった。「少女漫画で描いてはいけない、女の子が見てはいけない、考えてはいけない」と言われるものだからこそ描く意義があった。
 だが現代では同性愛者が抑圧される姿は見たくないし、あってほしくないと考えもする仲谷鳰は、「同性愛とは無関係な要素」から生じる「隠さなければならない感情や関係」を用意することで、同性愛の表現と「禁じと秘密を抱えた恋」の表現(=その緊張感や面白さ)を両立させたかったという。


 これも両者の時代の対称性を感じさせる違いですが、ただ単に「かつては同性愛への抑圧があって、今はない」という単純な、楽観的な変化になっているわけでは決してなくて、今もまた「同性愛への抑圧を他の要素に置き換えたい」という、現在進行系の「打破」が行われている最中なのだ、という示唆も感じさせる話でした。


 以前の別のエントリの語り直しにもなりますが、「恋愛漫画」という大きな枠のなかで、BLã‚„GLというテーマが自由に、当たり前のように描かれる/読まれることが理想なんじゃないかとぼくも思います。


 「禁じと秘密」は、広い意味で「恋愛漫画の王道」となるわけですが、その王道にGL(百合)を位置づける際に、かつての抑圧感とは異なるかたちで「百合の王道」を改めて通したかったという仲谷鳰の思惑は「百合」にとって革新的でもあるし、「恋愛漫画」にとっては直球そのものだと言える……という二面性はとても考えさせられるところがありますね。

竹宮惠子の『やがて君になる』評

 ところで、先述したように「司会進行に沿って各々がお題に答える」というスタイルの講義だったため、「2人が互いについて語り合う」という場面は少なく、そこが物足りないかな、と途中までは感じる部分もありました。
 そもそも、このイベントをニュースで知った時にまず気になったのは、精華大の学長と卒業生という繋がりこそあれ、はたして竹宮先生は百合に興味があるのか、『やがて君になる』をどう評価するのか? という点でしたからね(と、いうことを気にしたのは仲谷さんが一番だったかもしれません)。


 それでもところどころ感動的な対話もあり、「自分は恵まれた環境で、竹宮先生のように特に障害があるわけでもなく百合を描けた」と言う仲谷さんに対して「すごく時代が進んだことを感じて、私の後まで続いていることがすごく喜ばしい」「(感謝を言われて)いや私がしたくてしてたこと」と返されたやり取りだったり。
 特に講義が終わりかける頃、竹宮先生が一言、


「(あなたの作品は)愛情を使い切ってしまわないように、相手を探る気持ちがあるのがいい」


と評されていたのが、実に短く、詩的に『やがて君になる』の魅力を言い表していて、やはり竹宮先生、少女漫画家の言葉だ……と、胸に響きました。百合や『やがて君になる』のいちファンとして、なぜだか自分のことのようにも嬉しく思えるひとときなのでした。



※以上はメモと記憶を元に構成しており、もし発言の聞き間違いなどがあれば申し訳ありません

  • おまけ(同行者のレポ)

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『響け!ユーフォニアム2』に見る恋愛のアレゴリーと、『やがて君になる』の百合

 本題に入る前に、百合についてのあれこれの話から始めさせてください。


 このブログでの告知はまだでしたが、去年の11月に発売された『百合の世界入門』(玄光社)というガイドブックで、泉も百合愛好家の一人として作品紹介に協力していました。


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  • 「百合愛好家による個人的◯◯ベスト5」というコーナー内の、p122に作品セレクトが載ってます。メインの作品ガイドから漏れていた『フラグタイム』や『ゆめのかよいじ』を推すことができたのは参加した意義があったかなと


 この本はとても反響がよく、売れ行きも好調だったようで、参加者の一人としても嬉しく思います。
 「百合」に関心がある方で、まだ読んでないという人はぜひチェックを。

商業百合の広がりを見せた2016年

 その2016年を「百合」にとって記念的な年だったと捉える人も多く、とりわけ「商業百合」の可能性が大きく広がった一年だったと記念できるでしょう。


 2016年の百合界隈を賑わせたニュースはこちらなどを参考に。


 やはり2015年に連載開始、1巻発売のされた『やがて君になる』(KADOKAWA)の存在感が絶大で、2016年には2巻、3巻が立て続けて発売。
 さらに作者の仲谷鳰さんがカバーイラストを手掛ける、豪華執筆陣による百合アンソロジー『エクレア』も3巻と同時発売。


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 これらは書店での取り扱いも大きく、百合関連の様々なコラボやフェアの中心となっていきました。
 『やがて君になる』は作者のデビュー作にも関わらず、従来の百合読者を唸らせる内容面に優れることもさることながら、新たな読者の裾野を広げうる「人への薦めやすさ」が、業界を巻き込んだ多大なインパクトをもって受け入れられていたわけです。
 仲谷鳰さんが『百合の世界入門』のカバーを担当するに至るのも、当然な成り行きだったと言えるでしょう。


 個人的にも、百合界のこうした盛り上がりと、『百合の世界入門』に参加させていただいたことが重なり、2016年末は自分でも予想外なほど「百合」について考える機会の多い期間となっていました。

コンセンサスの取られやすくなった「百合の定義」

 『百合の世界入門』の「はじめに」や「百合用語解説」*1では、入門書としての立場から「百合の定義」についても触れられています。


 それは簡潔に言うと「女子同士の特別な関係」*2という広範囲なもので、その「特別な関係」には「あなたが百合だと思ったら百合です」という、さらに範囲を広く取る言葉が加わります。


 それは定義になってないじゃないか、と感じるかもしれませんが、「あなたが思ったら」という言い回しになることは重要なことで……、つまり「百合」とは「そう思うことで呼ぶ言葉」であって、百合好きにとっての「呼び方」にすぎない。


 これは2014年の『ユリイカ 特集*百合文化の現在』(青土社)における天野しゅにんたインタビューでも先立って示唆されていたことで、

── 百合とレズビアンの定義も、よくわからないですよね。
天野 私が今まで聞いた中で一番納得した説明は、森島明子先生がおっしゃっていたものですね。「レズは一人でいてもレズ。百合は二人いるのを外部から見て決めるもの。本人がどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」という。
── おお、すごくわかりやすい!


……「同性愛」と「百合」はこういう意味で違う、などと単純な比較ができるのではなく、

  • 同性愛は、個人のセクシュアリティ(自己認識や在り方)によって決まるもの
  • 百合は、カップリング(関係性)への客観視によって決まるもの

……という視点から分けることで、「百合」がどういう言葉なのかはっきりしてくるわけですね。


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 別の言い方をすれば、「百合」とは具体的な何かが存在すると考える「実体」ではなく、ある対象への「形容」に近い、と説明してもいいでしょう。*3


 公式に「百合作品」として発表されている作品もあるじゃないか、と思われるかもしれません。
 でもそれにしたって、作者なり編集部なりが「作中のカップリング」をいったん客観視して、そう「思っている」という話であって、それが「呼び方にすぎない」という意味なんですね。*4
 そうした認識で一致した雑誌やレーベル、アンソロジーなどがあることで「出版ジャンルとしての百合」という名目も成立するわけです。


 タレントの牧村朝子さんが『百合文化の現在』に寄稿されていたエッセイ*5でも、同性カップルである自分と伴侶についてふと妄想してしまうシチュエーションを「百合百合しい」と感じてしまうようすが語られていましたが、それも自分(たち)の関係性を「シチュエーション」として眺めればこそ、「百合」に認識するということなのだと思います。


 さらに意外かもしれませんが、北米で「百合=Yuri」専門の出版社の創設*6やコンベンションの主催などの活動を行っていたエリカ・フリードマンさんが10年以上前に記していた「百合の定義」もこの結論と近しい内容だったのです。

Yuri is not a genre confined by the gender or age of the audience, but by the *perception* of the audience.
(百合とは受け手の世代や性別によって枠組みされるようなジャンルではなくて、受け手の「認識」によって枠組みされるのだ。)*7

Yuricon » What is Yuricon?


 以上のように考えてみると、「百合」という言葉は、

  • 「女子同士の特別な関係」
  • 「関係性を外から眺めて思うもの」

……このふたつの条件で意味を絞り込むことができるはずだ、と考えられるでしょう。
 そして恋愛や性愛、友情などの有無に関わらず、「特別」というキーワードで何もかも包括してしまえるという発想は、広く受け入れられやすい、おおねむコンセンサスが得られやすいものになったと2016年の状況から感じています。

「百合を見出される作品」と「百合作品」のあいだで

 ただしこの定義から自然と導かれるように、日本で「百合好き」というと「作品に百合を見出すこと」を含む割合が高い、とも言えます。
 ボーイズラブ界でいうと、商業BLなどの「一次創作BL」よりも、一般誌の少年漫画などを「二次創作BLの原典」として好むようなタイプに近いのかもしれません。


 実際、ネット上で百合人気の高いアニメと言えばいくつも名を挙げられますが、それらは公式に「百合」と銘打っていない作品が多勢です。
 一見、百合好きのオタクが増えているように映っても、一次創作である「商業百合」はそれほど注目されなかった──もっと言えば「百合は売れないのでは」という不安が大きかった──ことが一部の百合好きの悩ましさでもあったと思います。
 2016年、商業百合が前例のない盛り上がりを見せたことで愛好者に衝撃を与えたというのは、そんな悲観的な認識が漂っていたからという理由もあるでしょう。
 様々なアニメに「百合」を感じて楽しむのもいいが、百合作家の描く一次の作品もいいぞ、と。


 そこで今回のエントリの趣旨は、百合が見出されるという「特別な関係」──「恋愛や性愛や友情の有無を問わない」という幅の広いもの──について再考してみようと思うものです。


 「百合」という言葉がそれらを区別しないと理解できたとしても、その次には「あれは恋愛感情の百合だ」「いや友情の百合じゃないか」みたいな、作品(カップル)ごとの区別をついつい付けたくなってしまうのが百合好きの性質ではあります。
 それは恋なのか、キスやセックスはするのか、結婚はする(望む)のか……というふうに。


 あるいは「原作では友情かもしれないけど、二次創作では恋愛」と割り切った読み替えを意識して行う、二次創作BLと似た楽しみ方も出現します。
 恋愛とまでは言い切れない描写を「抑圧された同性愛感情である」と読み替える楽しみ方もBL的(腐女子的)だと感じるところですが、そうした読み替えがあってこそ「百合」と認定されることも多い。


 それは逆に考えると「恋愛への読み替えを行わなければ百合作品でない」という否定的な見方も導かれやすくなってしまう。
 百合の定義のコンセンサスとしては「恋愛であるかどうかを問わない」はずが、そのあたりの領域が少しややこしいわけです。


 しかしセクシュアリティとはグラデーションである、とは言いますが、実際、あらゆる種類の「愛情」は地続きになりうるもので、外からの区別は難しく、当事者の自認ですら不確かになりやすく、時間経過によって流動的でもある。


 そういう迷いや困惑も含んだ百合の楽しみ方を、直近の話題作である『響け!ユーフォニアム2』と『やがて君になる』を絡めて考えてみたいと思います。

『響け!ユーフォニアム2』における恋愛のアレゴリー

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 ライトノベル原作のアニメ*8『響け!ユーフォニアム』ですが、これは典型的な「百合としても見られることもある」と評せるタイプの作品。
 特にその二期は、一期以上に百合度が高いという評価も受けやすかったんじゃないでしょうか。


 ただ、この「百合度の高さ」を人に説明するのはけっこう難しい気もしていて、特に主人公である久美子を軸にした関係性は、いまひとつ「こうだ」と言い切りにくい部分があります。個人的にはですが。


 公式でも「百合」扱いすることは(たぶん)避けられていて、人物相関図の「久美子←→麗奈」間に書かれた「引力」という、抽象的すぎるにもほどのあるパワーワードが話題を呼んだほどです。


 その一方で百合好きの琴線をザワつかせるのは、劇中における「恋愛的」な描写の多さでした。
 軽く挙げてみても、密着して恋人繋ぎしながら花火を二人で見る、麗奈の「久美子を想って」トランペットを吹く発言、一時的に気まずくなった麗奈と仲直りしようとしたら無視されたことを「フラれた」と表現するなど。
 極め付けは、思い詰めた久美子があすか先輩に自分の気持ちを伝えようとすると「何々? 恋の相談?」と茶化されたことに対して、(「またふざけないでください」と反論するでもなく)「そうです」と即答する対話シーン。


 しかし、これらの描写は「恋愛」の比喩、アレゴリーとして作中では働いており、むしろそれがアレゴリーに留まることで「女子特有のノリ」を美化しているという解釈もできます。
 例えば、麗奈は男の先生に本気で惚れていると自己認識しており、それに対して久美子は嫉妬するでもなく素直に応援したり気を遣ったりする。
 麗奈が久美子を想って吹くというのも、「先生を想って吹く」とはまた別の気持ちを込めたものだと言う。
 「恋の相談?」「そうです」というやり取りの後も、まとめてみれば「先輩のユーフォの音に恋をしています」という告白だと理解できるもので、「だからあすか先輩が好き」「卒業してもあすか先輩とさよならしたくない」という好意に繋げることはできても、だからといって先輩から「じゃあ付き合おっか」と返す話になるわけでもないし、「返事は待ってくれるかな」とか「気持ちは嬉しいけどごめんね」と愛の告白を断るわけでもない。
 あすか先輩の「返事」としては、久美子に「響け!ユーフォニアム」の楽譜を差し出すことで「(自分のユーフォへの)愛の告白」に応えた、という形を取っているようにも見える。


 このように、『響け!ユーフォニアム2』での恋愛的な描写は「恋愛のアレゴリー」として用いられることで、逆にキャラクターたちをセクシュアリティから遠去ける働きをしているかのようです。
 ですが、かといって久美子・麗奈や久美子・あすかの関係性が「百合的に」魅力的でなくなるかというと、そうでもない、とも言える。
 確かに「女子同士の特別な関係」がそこにはあり、魅力的ではある。
 でも、ならばなぜわざわざ「恋愛のアレゴリーに喩えて」同性間の絆を表現する必然性があるのか?という疑念も湧いてくるでしょう。


 もちろん、セクシュアリティは流動的なものですから、ティーンエイジの時点において「恋愛じゃない」としても、将来的には「恋愛に発展する」と期待しつつ百合妄想する、という楽しみ方をしてもいいでしょう。*9
 しかし「将来的な期待」はちょっと脇に置いて、あくまで「恋愛のアレゴリー」で描かれることの効果についてきちんと考えてみたいと思います。


 それを「女子特有のノリ」*10とは呼びましたが、これはフィクションとしての百合演出というよりは、ある程度はリアルにも存在するノリ、文化を膨らませた表現なんだとは思います。
 女同士にかぎらず、男同士でも、野球選手のバッテリーや漫才コンビなどで「夫婦」「女房役」「蜜月」「フラれる」「破局」といった比喩表現は平気で用いられるのであって、「恋愛に喩えれば喩えるほど密接で強い関係を表す」という社会の価値観がそのバックボーンにはあるわけです。


 ならば、その「特別な関係を恋愛に喩える」という文化がなぜ成立するのか?と疑ってみることもできるでしょう。

「恋愛は特別」という現代の価値観

 結論から先に言うと、「恋愛は特別」というのは大昔からある価値観ではない、と考える必要があります。


 おおむねはキリスト教の影響だと言えますが、「神聖な婚約」という宗教的な価値観が広まり、夫婦関係の神聖視から「一対一の恋愛」の価値も上がり、その観念が日本にも輸入されることとなる。
 しかしキリスト教以前の文化や社会では「恋愛」の価値はけして高いとは思えず、それよりも「家族愛」や「(共同体や主君への)忠誠心」のほうが強くて尊い絆だとするのが主流だったはずです。


 キリスト教化される以前の神話や伝承では「伴侶を犠牲にしてでも肉親を優先する」物語であったのが、キリスト教化の結果として「肉親を裏切って伴侶を優先する」物語として記されるように変わるケースもあるように*11、時代によって「恋愛」の価値は変動しつづけてきたものでした。


 だから逆に、「強い恋心」を表すために、恋愛以外の「愛」を比喩に用いる、という現代とは逆転した文化も発見できます。
 古代の日本でも、妻のことを「妹」*12と喩えることで「他人である外の女を肉親のように愛する」という意味が通じていたのでしょうし、中世から近世にかけても、恋愛の誓いを「忠義立て」と呼び、主従間の忠誠心に見立てることで操を捧げることの激しさを表現していたわけです。


 そもそも「恋愛結婚」というシステムにも乏しかったわけですから、当然、恋愛を尊いと考える発想自体が薄い。
 中世や近世であるほど「対等な立場での結婚」というものが珍しくなるのだと思いますが──そして戦後の日本になろうと「対等でない結婚」は社会の主流であり続けたはずですが──、それも男女の仲というものを、恋愛以上に「主従愛」によって結びつけようとした結果のようにも感じます。


 これは少女小説の話ですが、はるおかりのさんの人気作「後宮シリーズ」(コバルト文庫)では「主君として尊敬できる男性なら、恋ができなくても愛せるし子作りもできる」「自分の恋愛よりも親孝行が優先」という前近代的かつ儒教的な思想が当然のように受け入れられている描写となっていて、面白いです。
 もちろん現代人向けの恋愛小説として、メインカップルだけは「稀有なケースとして大恋愛を経て結ばれる」というハッピーエンドを描くわけですが、恋のない夫婦関係もそう悪くないのだとみなされている点は変わりありません。


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 かつて実在していたであろう、こうした価値観と比べてみると、現代の「恋愛に喩えるほど尊い」とする基準がむしろ特殊なようにも思えてきます。
 「友情以上、恋愛未満」というフレーズが端的に表すように、「友情<恋愛」という基準で語る人は多いものです。


 そうすると、BL好きや百合好きもねじれた言い方を選ぶことが多くて、好みのカップリングを「これは恋愛よりも尊い何かだ」と、勢い余って呼んだりする。
 「人間愛<恋愛<尊い何か」という順に愛がエスカレートしていくというイメージなのでしょうが、「恋愛よりも……」と言いつつ、「人間愛<恋愛」という前提は無条件に受け入れているわけです。
 「恋愛」と「人間愛」の強さにもともと差がないならば、恋愛をわざわざ踏み台にする必要はないですからね。
 単に「尊い人間愛」と言えば済むはずなのですから。
 「ブロマンス」という言葉も男同士の友愛をプラトニックなロマンスに喩えているわけですが、やはり「友情以上、恋愛未満」という先入観を無条件に認めることから生まれる考え方でしょう。


 逆に「ただの友情だ」と素っ気なく言われてしまうと、あたかも「BLじゃない」「百合じゃない」というイメージも招いてしまう。
 つまり「特別さ」を求めるからこそ、恋愛に喩えたり、「恋愛を超えた」と表現することが求められるようになる。


 ですが友愛も恋愛も、それぞれがそのまま「特別」な強さまでエスカレートしうるし、それぞれ流動的に入れ替わったりもする。それに「ただの友情」と同程度には、ありきたりで、特別に見えない「ただの恋愛」だってあるわけですからね。


 『響け!ユーフォニアム2』の話に戻りますが、久美子と麗奈の密接なパートナーシップは見ていてやはり面白いし、気持ちのいいものでした。
 ほとんど恋人同士のように互いを見ながら、スキンシップ以上のことはしない。
 百合好きの古い考え方として「百合はプラトニックでなければならない」という偏った意見もあったものですが、確かに久美子と麗奈はプラトニックな百合(≒ブロマンスの女子版)だと思えなくもない。


 しかし、これは想像ではありますが、むしろ久美子と麗奈の絆の強さには「スキンシップ以上のことはしない」という事実こそが本人たちには重要であって、つまり「互いに性的に脅かさない」という関係を求めあっているのだろう、と。
 「性的に脅かされずに触れ合える安心感」というのは、事実上の恋人よりも必要とされるのかもしれない、と考えることもできる。


 恋人に見えるほど密接なのに、それ以上踏み込まないのは「性愛が押しとどめられているためだ」と深読みするよりもむしろ、「性的に踏み込まないからこそ恋人に見えるほど密接になれる」と反対に考えれば──実際に欲望されているのはそうした親密さであり、安心感である、という逆説も成り立つはずです。


 日本は世界でも比較的に「女性同士のスキンシップが密な」お国柄であるようですが*13、久美子と麗奈の関係を「互いに性的に脅かさない関係のまま強くエスカレートした関係」だと捉えてみても充分「百合」だな、と思えるわけです。
 恋愛のアレゴリーは頻繁に用いつつも、それは日本語のボキャブラリーとして「恋愛的な言い回し」くらいしか親密な絆の「機微」を表現できないだけ……、というのが実質的な理由だとも考えられる。


 これは『マリア様がみてる』のような、「恋愛以外の同性間の愛情」がよく表現される作品の多くにも当てはめられる見方かもしれません。
 少なくとも、それらを「疑似恋愛」だとか「一過性のプラトニック・ラブ」などと恋愛側のロジックに引きつける(その上で同性愛への発展を否定するような)見方をするよりはいいんじゃないか、とも思われるわけです。
 しいて恋愛や性愛を読み取るための解釈をしないほうが、流動的なセクシュアリティによって「将来的にはどうなるかわからない」という余地も生まれやすいと言えるかもしれません。*14


 なお、『ユリイカ 特集*アイドルアニメ』では、「百合的なアイドルアニメが性愛を可能性としてしか描写しない」ことについて分析した、安田洋祐さん([twitter:@phanomenologist])の記事*15がありました。


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 あからさまなホモフォビアで同性愛を否定するわけではなくても、「性愛に発展しない恋愛的な描写」が繰り返されることの違和感がそれらのアニメには伴う、とまずは指摘されます。
 続けて、あくまでホモフォビアの介在は否定しつつ、性愛に発展しない根拠をその記事ではこう捉えます。

 絆の崩壊という事態を防ぐための戦略が、同性愛描写を可能態にとどめることである。社会性を帯びた共同体は一対一の私的な関係に対してそれが可能態であることを要求する。別に「同性愛を犯してはならない」という規範を押し付けるわけでも、イマージュを仮象と解釈し同性愛の存在を否定するわけでもない。ただ真偽不明に押しとどめておくだけである。*16


 ただ、ここで言う「社会性を帯びた共同体」というのは、一体感や連帯を求めるアイドルグループを指したもので、アイドルものではない他の「百合的なアニメ」にも当てはまる見方にはなりません。*17
 さらに、「絆の崩壊を防ぐために性愛に踏み込まない」というヒロイン本人たちの動機と、演出手段としての「描写を真偽不明に押しとどめておく」というメタな結果論がやや混同されている点も不自然だ、と付け加えなければならないでしょう。
 本人たちの動機がどうであれ、セクシュアリティへの自己認識があやふやだとしても、自ら連帯を守るという「目的」のために「真偽不明」というややこしい状態になろうとはしないものでしょうから。


 この記事でも多用されている「ホモソーシャル」「ホモフォビア」という言葉は、(特に男性同士の関係において)「同性間の強い絆は同性愛との類似性を見せる」ことや、「潜在的な同性愛感情への抑圧を見出せる」ことと合わせて語られがちです。
 しかしそうした論じ方は、そもそも「恋愛は他の愛情がエスカレートしたかたちである」とする先入観に、現代人である私たちが囚われている様子も感じさせます。


 確かに、「互いを恋人に喩えるくらいイチャイチャしている」のにそれ以上のことはしない、という関係は違和感も生じさせる。わけあって性愛を抑圧しているのではないか、と思いたくなることもある。
 しかし、そこで考えておきたいのは「恋愛や性愛が他の愛情よりも強いとは決まっていない」という、恋愛は友情の発展形でも、エスカレート型でもないのだという、現代の先入観を取り払った捉え方です。


 ただ単純に、現代の日本においては「強い絆を表すために恋愛のアレゴリーが有効に用いられやすい」という、語彙や文化の問題であって、そこに同性愛感情が芽生えるかそうでないかは、またまったく別の基準によって分岐するとみなすべきなのだと。

『やがて君になる』の「特別」

 では続けて、『やがて君になる』という商業百合作品の話へと進んでみます。


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 この作品が「人への薦めやすさ」によっても前例のないインパクトを与えたことは先にも触れました。
 具体的には、物語そのものだけでなく、編集者によるキャッチコピーからもその「間口を広く取っているさま」は窺えます。



 その上、担当編集者はわけもなく「恋愛漫画」を標榜しているのでもなくて、きちんと「恋愛漫画」として読まれうるドラマが展開しているのが『やがて君になる』の訴求力となっているのです。



 ここで並べられている『桐生先生は恋愛がわからない』という漫画は、セクシュアリティをまだ自分で判断できない「クエスチョニング」の女性を主役に描いた作品です。


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 では『やがて君になる』はというと、「恋愛感情を持てない」ことに悩む女の子が主人公となる漫画であって、そこに恋愛のテーマとしての普遍性が、異性愛/同性愛を問わずに広げられている。
 実際、読者からの「主人公に共感できる」という反響の手応えもあるようなのですが、それは「誰にも恋をしない」という、相手が異性だろうと同性だろうと等価な問題に寄せられているわけで、一旦「百合漫画」から離れたところから支持を得ていることになります。

 恋愛漫画なのに、恋愛を知らない、恋愛に興味が持てないというキャラを主人公にすることに対する怖さですね。こういった主人公が共感を持ってもらえるのかという不安もありました。


 けれど、1巻が発売されてからすごく共感できるっていう意見を多く見ることができて……。ただ、共感できないという人にも「理解はできる」ように編集さんと突き詰めて打ち合わせをしていきました。その成果が出たのかなと思っています。

電撃 - 『やがて君になる』仲谷鳰インタビュー第2弾。公式サイト&PV公開、着せ替えアプリ、そして第二巻発売!

 恋愛を真正面に捉えた作品として、一般層に受け入れられているのは嬉しいなと思います。直近のレビューでも同性愛というよりも恋愛一般として、「『好き』とは何かを描いた作品」と書いていただいていて、すごくありがたいです。*18


 そのように広げられた間口から「百合漫画」を読んでもらうことになるわけで(作中には主人公以外の、はっきりと同性愛を自覚した女性たちが複数描かれることも手伝って)、新たな百合読者を増やすという拡大戦略は巧みに成功しているように映ります。
 一般層に向けて「今一番読んでほしい」と称しても遜色のない恋愛のテーマを扱いつつ、百合漫画としても期待を裏切らない──、そんな作品なのですから、百合好きの注目も集まるというものです。


 ところで主人公のセクシュアリティについて細かく見ていくと、あまり他のフィクションでは見掛けないキャラクターを描いていることもわかります。
 主人公である小糸侑は、「恋愛がわからない」と悩みつつも、クエスチョニングとして未決定というよりは、なかば「恋愛ができない」ことを自分で受け入れているキャラクターです。
 だから「アセクシュアル」なキャラクターなのだろう、と解釈する読者も多いのですが、ちょっと注意しないといけないのは「アセクシュアル」という用語が「恋愛」よりも「性愛」の有無(セックスなどへの興味)を問題にした概念だということです。
 厳密な分け方としては、「恋愛に興味のあるアセクシュアル」と「恋愛にも興味のないアセクシュアル」はどちらも存在するとされており、日本では前者を「非性愛者」、後者を「無性愛者」と呼び分けます*19。


 では、恋愛のできない侑の場合は「無性愛者」なのかというとそれもまた微妙で、侑は性嫌悪があるわけでもなく*20、むしろ性的な他者との触れ合いを「気持ちいい」と思ったり期待する感覚を持ち合わせてもいます。
 つまり、性欲はある。──女の子だからイメージしにくい気もしますが、男子の場合なら「恋はしなくても性欲はある」状態なんてむしろありがちなことですし、その女の子版である……などと男に喩えるのはちょっと不正確かもしれませんけど。


 つまり、「恋愛感情アリ/性的な興味ナシ」というセクシュアリティを「非性愛」と呼ぶのならば、「恋愛感情ナシ/性的な興味アリ」という侑のことは「非恋愛者」と呼べなくもありません。
 呼べなくもない、という微妙な説明になってしまうのは、セクシャル・マイノリティの話題のなかでも「非恋愛者」という言葉が使われているのはほとんど見掛けないからなのですが……。*21


 それだけ、セクシュアリティ的には注目されていなかった問題を扱っている、とみなすこともできるでしょう。
 ちなみに侑とは別に、こちらはアセクシュアル(無性愛者)そのものかも、と思わせる男性キャラクターが脇役として描かれており、そんな登場人物の多彩さも作品の奥行きを増す要素となっています。


 ともあれ、アセクシュアルと呼ばれる人々の多くがそうであるように、侑も「人間愛」や「家族愛」なら何の問題もなく感じられるキャラクターとして描かれています。感じられないのは、「恋愛感情」だけ。
 そして、広い意味での「特定の誰かを特別に思う気持ち」を抱けるかどうか……が、侑にとってはまだ答えの出ない問題になっています。


 問題が深められていくのは、彼女が「七海燈子」という先輩に片想いされ、事実上、付き合っているような関係を結ぶことに始まります。
 この「先輩」がまた困った性癖(と呼ぶのも可哀想ですが)を抱えていて、「私を特別に思わない人しか好きになれない」からこそ侑を「好きな人」に選んだのだという。


 侑は「恋愛ができない自分」をほぼ受け入れてはいても、そのことにコンプレックスも抱いているため、「自分も恋愛感情を持ってみたい」という願望と、「先輩はそれを望んでいない」という義務感の板挟みに葛藤することになる……。それが『やがて君になる』のおおまかな粗筋だと言えます。


 そこで、今回のエントリ内容に即して考えるならば、侑もまた「恋愛こそが特別な愛である」という現代的な価値観を刷り込まれて育った人間だということに気付くはずです。
 はるおかりのさんの「後宮シリーズ」を例に挙げていたように、「人間として尊敬できるのなら恋がなくても伴侶となれる」という価値観が有力だった時代もかつてはあった、と思えるからです。
 実際、アセクシュアルとされる人々でも「家族愛」によって家庭を持ち、子どもを作って(産んで)愛するケースが少なくない、と言われています。
 侑も先輩のことを充分に「先輩として」尊敬しているし、「人間として」好意を抱くようになっている。


 しかし、侑はその尊敬や好意を「特別」だと思うことができない。
 侑には「特別だと思う」ことが「恋愛感情」と強固に結び付いてしまっているため、「恋ができない私は誰も特別に思えない」という思考のループに自分を縛り付けているようにも見えます。


 それは同時に、「私を特別に思わないでほしい」、「私を(恋愛として)好きにならないでほしい」と望む先輩の掛けた呪縛でもある。よく眺めているとわかるんですが、先輩も随分と意地悪な関係を恋愛相手に求めているんですね。
 「私も先輩を好きになりたいと思っているけど、先輩の手前それを言い出せない」「もしそれを伝えてしまうと先輩に必要とされなくなってしまうかもしれない」と悩んで侑は立ち止まってしまう。


 さらに「恋愛じゃなくても特別に思うことはできるはずだ」という可能性が意識に上らなくなることで、より侑の葛藤は大きくなる……。
 そのジレンマこそが『やがて君になる』のストーリーにおいて、どう乗り越えていくのか、どう答えを出すのかという気を揉ませるところになるのかもしれません。

『響け!ユーフォニアム2』の「特別」と『やがて君になる』の「特別」

 以上、対照的に思える最新の「百合(的)作品」をふたつ同時に並べてみましたが、それぞれ自分にとっては互いに足りないところを埋め合うような刺激がありました。


 『響け!ユーフォニアム2』では、「恋愛のアレゴリー」を伴った、しかし互いに性愛を欲しない同性間の親密さこそが「特別な関係」として描かれ、そこにむしろ百合度の高さがある。


 『やがて君になる』ではその反対に、恋愛で誰かを好きになることこそを「特別な関係」とみなしてしまうことで、人間愛だけの好意を「特別」だとは思えないジレンマが描かれ、そこに「恋愛漫画」としての百合の奥深さが生じる。


 『やがて君になる』の仲谷さんは『響け!ユーフォニアム』を観て「こんな百合がやってみかった」という悔しさも覚えていたそうですが、私たちもこの二作品を同時に体験することで、互いに照らし合うような「百合」観が得られるのではないでしょうか。






 ……などと、なんやかやマジメそうに書いてきましたが、百合好きな個人の趣味としては、どんなカップリングでも「最終的には同性愛になってほしいなあ」と感じるのも正直なところだとも一応は述べておきます。別にそこで自分を韜晦しても仕方ないかなあ、と思うので。
 その意味で、自分は比較的「セクシュアリティに触れた描写があったほうが百合」と感じる派なのです。


 ここまで「自分はそんなふうに思わない」という部分も当然あると思われますが、みなさんにとっても何か考える切っ掛けになっていれば幸いです。


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*1:p12-13

*2:原文では「女の子」同士でしたが、世代を狭めないためにここでは「女子」同士とします。

*3:対してボーイズラブは「女性の描き手が女性に向けて描く」というジャンルとしての実体を区別しやすい表現でもあるので、この「百合」のような定義を必要としないと言えます。

*4:似たような定義論争では、「あなたがライトノベルだと思ったものがライトノベルです」というのも聞きますが、その定義論争では「形容としての呼び方」を提唱するでもなく、あくまで「ライトノベルという名の実体が存在する」と想定するような議論から「定義不能」という留保に至っているだけなので、「百合とは呼び方である」と定義する考え方とは大きく異なるでしょう。

*5:p87「百合レズ論争絵巻」

*6:残念ながら2013年に事業撤退。

*7:なお、この文面は『百合文化の現在』p143でも椎名ゆかりの訳で引用されています。本記事による訳文は泉によるもの。

*8:しばしば誤解されがちですが「京都アニメーションの自社レーベルが原作」ではなく、外部の作品をアニメ化したもの。アニメ版と原作では大きく設定や描写が異なる点もあるため、このエントリでは原作の描かれ方には特に言及しないことにします。

*9:ちなみに、久美子や麗奈以外のヒロインのほうが同性愛感情を「比喩」でなく包み隠さず表しているように見えることもあって、そちらは将来的にではなく現在進行形なのでは?と期待しやすいと思われる(私見)。

*10:共学校が舞台のアニメなので「女子校ノリ」とは言えないが、似たようなものとして。

*11:北欧神話の『エッダ』から『ニーベルンゲンの歌』への変化など。

*12:「いも」と読むこの場合は、姉妹の総称なのでlittle sisterの妹とはかぎらない

*13:日本以外では男性同士のスキンシップのほうが増える傾向が見られる。

*14:ちなみにリアルに引き付けた話をするなら、牧村朝子さんのエッセイにある「レズビアンだからと言って、恋人以外の女性へのハグはやめたほうがいいと注意するのは外野による勝手な決めつけでしかない」という厳しい指摘を参照してもいいでしょう。 https://cakes.mu/posts/14771

*15:p159「女性アイドルの「ホモソーシャルな欲望」」

*16:p164

*17:それこそ『響け!ユーフォニアム』では、性愛があろうがなかろうが連帯を崩しかねない状況へと進んで突入するし、一対一の仲の良さに嫉妬して三角関係を演じるキャラクターも存在するため。

*18:『百合の世界入門』スペシャルロングインタビュー/仲谷鳰(p75)

*19:あまり馴染みのない用語ですが、海外では前者を「ロマンティック・アセクシュアル」、後者を「アロマンティック・アセクシュアル」と呼び分ける。

*20:また厳密に言えば「アセクシュアル=性嫌悪」ではないため、アセクシュアルは単にその欲求がなく気持ちよさも理解できないだけ、とされる。

*21:これを英語なら、女性との性的な触れ合いに抵抗のない侑は「アロマンティック・レズビアン」、もしくは「アロマンティック・バイセクシャル」と呼ばれることになるでしょうか。もっとも、こうした用語による他者からの呼び分けは、個人にとってあまり意味のあることでもないと思うのですが。

アイカツ!総括本への寄稿のお知らせ(2016年冬C91)

 今年の冬コミですが、泉信行は二冊の評論同人誌に寄稿をしています。
 とりあえずはその一冊である、アイカツ!総括本『スタートライン』のお知らせです。

マンガ☆ライフ |C91新刊アイカツ!本『スタートライン』&ラブライブ!サンシャイン!!本『Shining Dreamer』のお知らせ

 3日目(12/31)、東V18a「魔界戦線」にて頒布予定。価格は500円とのこと。
 これはぼくが以前、『プリティーリズム』や『KING OF PRISM』の同人誌でも寄稿させてもらっていた、「アイドルアニメ」評論サークルの新刊ということになります。


 ちなみに当日は『ラブライブ!サンシャイン!!』本も同時に出しているのでそちらに興味のある人もどうぞ。


 それで肝心の泉の原稿なんですが、自分にとっての「アイカツ!世界におけるアイドル観」を言語化してみた上で、大空あかりちゃんと氷上スミレちゃんへの愛情を込めた内容にできたつもりです。
 よろしくご確認くださいませ。

この夏の暑さをハッカ油で乗り切ろう

 今は6月21日。今年の7月も押し迫ってきました。


 毎年、夏の暑さには苦労させられているのですが、今年から注目しているのが「ハッカ油」による暑さ対策です。
 当方もこのハッカ油システムを導入することで、かなり暑さの苦しみを回避できており、今のところ冷房機器を導入しない生活を送ることができています。
 今回はその効果・用法の紹介をしたいと思います。


 「ハッカ」とは英語でいう「ミント」のことで、そのハッカの成分を含有させたオイルがハッカ油です。
 ミントをオイルに漬け込んで自家製することもできるようですが、そんなにお高いものでもないので、既成品で充分でしょう。


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効果

 これを一滴から数滴、肌に塗ったり、お風呂に垂らしてから浸かったりすることで清涼感を得ることができます。


 原理としては、ハッカの成分が「皮膚の表面にある冷たさを感じる細胞」を刺激するというもので、それにより「脳に涼しいと錯覚させる」という、ドラッグじみた効果があります。
 メンソール煙草を吸うと、口の中がスースーして感じますが、実はそのスースーもハッカ油と同じ成分による効果です。

注意点

 注意が必要なのは、あくまで感覚細胞の「錯覚」でしかないため、涼しくても「実際の体温が下がることはない」という点。
 炎天下なら熱中症の危険は避けられませんし、発汗も当然あるので、こまめに水分補給をしたり、手足を冷水で冷やしたりするような対処は自己判断で行いましょう。


 次に、用量の注意点。これは身体に塗る場合、一滴から数滴で十分です。
 よく「ハッカ油の塗り過ぎで凍えそうになった」という経験談も聞きますが、全身に大量に塗ったりしないかぎり大丈夫だと思います(個人差はあると思いますが……)。
 お風呂に垂らして入るときも、数滴で充分でしょう。

塗る場所

 そこで実際の使用法ですが、自分のやり方をざっくりと説明します。


 まず、ハッカ油を塗る場所を決めます。
 当然、「暑さを感じやすい箇所」を探して、そこに塗ることになります。
 血管が表面に集中して赤くなっているところや、もともと「放熱板」の役割をしている箇所を探すといいでしょう。

  • 耳の肉、耳の裏(耳にはもともと放熱板の役割があって、暑くなると赤くなりやすい場所です)
  • 首の裏、もしくは首全体
  • 額、頬
  • è‚©
  • 下腹部、胸、鎖骨あたり
  • 肘関節の内側(血管が集中しているところ)
  • その他、赤くなってたり熱を感じているところ

 さらに、座り仕事などをしていると、椅子と身体が接している部分に熱がこもりやすくなるため、そういう背中や腰の部分に塗っておくといいでしょう。
 ただしもちろん、皮膚が薄くてデリケートな部分には塗らないように気をつけましょう。


 ハッカは虫刺されにも効果があるようなので、ついでに刺され跡に塗っておいてもいいでしょう。

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 これは自分のやり方ですが、まず洗面台に立って、塗ろうと思った肌の部分を手で濡らします。
 汗や汚れを、簡単にぬぐってからのほうが清潔ですし効きやすくなると思われます。


 次に、濡れ手にハッカ油を一滴垂らします。勢いで三滴くらい垂らしてしまうかもしれませんが、別にそのくらいは大丈夫です。
 両手を合わせてそのハッカ油を軽く伸ばしたら、塗りたい場所に直接塗布していきます。
 これで終わりです。


 ハッカ油の塗布には、濡れタオルやスプレーを使うというやり方もあるようですが、手で直接塗っても問題はないようです。
 おそらく皮膚が厚いせいだと思いますが……、「ハッカ油を塗る手」の側にハッカ油をどれだけ垂らしても、その後で手のひらがめちゃくちゃ冷たくなる、ということも別にありませんでした。

注意点

 猫には、アロマオイルなどの精油が有害とされることがありますが、ハッカ油も注意したほうがよいそうです。飼い猫のいる家庭では、ご自身でよく調べた上での利用をお勧めします。



 報告は以上です。 
 というわけでハッカ油はいいぞ。


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アヒルさんチームの魅力とその「根性」の意味

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 『ガールズ&パンツァー 劇場版』のBlu-ray Diskが発売されて6日が経ちました。
 このブログで「ガルパン」を記事にするのは初めてなのですが、Twitterでは結構たくさん語っていたりするので、その一部をここにも書き留めておこうかと思います。


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 主に取り上げたいのはTV版のことで、全編通して一番好きなのが、VSプラウダ戦クライマックスのこのシーン。

佐々木あけび「もうダメかも〜。ふぅぇ〜ん」
磯辺典子「泣くな! 涙はバレー部が復活したその日のために取っておけ!」
あけび「はぁい!」
近藤妙子「大丈夫! こんな砲撃、強豪校の殺人スパイクに比べたら、全然よね!」
河西忍「そうね! でも今はここが私たちにとっての東京体育館! あるいは代々木第一体育館!」
アヒルさんチーム「そ〜れそれそれー!!!」
(TV版第9話)


 めっちゃ熱くて泣けますね。「でも今はここが私たちにとっての東京体育館! あるいは代々木第一体育館!」「そ〜れそれそれー!!!」は好きなセリフランキングならぶっちぎりに1位です。アンツィオ戦を含めると、やはり磯辺キャプテンの「もう一度最初からだ!」も入ってくるくらいアヒルさんチームはいいセリフが多いです。

肯定的に描かれる「アヒルさんチームの根性」

 磯部キャプテンの言う「つまり根性」「あとは根性」ですが、あれはめちゃくちゃいい精神論の使い方をしている、と少年漫画などの根性描写にこだわりがある人間からすると思うわけです。


 劇場版では知波単学園の選手にお説教までしているように、彼女たちが行う「根性」は、タクティクス的にネガティブな扱いを受けていないのも重要でしょう。
 彼女たちは、突撃して自滅するだけの知波単とは対照的に、適切に精神論を使いこなしている。


 精神論と聞けば「理屈抜き」「無謀、無策」という意味で捉えられがちですが、どちらかというと「直観」と呼ぶのが相応しいものです。
 やった後から分析すれば説明できるかもしれないが、すぐには頭が追いつかない判断、というのが「直観」であって、適切なトレーニングを詰んだ人間にとってはだいたいこの直観が理性よりも正しい。
 しかし人は説明できないことを恐れる傾向があるため、「直観が正しい」場合であっても、精神的ブレーキ(実力のキャップ)を掛けてしまう性質がある。


 そのブレーキを外し、全力の行動をするために「根性」が必要になる。
 例えば、スポーツで「たぶん100点までいける」と確信している際に「でも理論上で確実に保証できるのは55点くらい……」という自信しか持てない時は、実際その55点付近の成績になってしまうものです。


 で、磯辺キャプテンは「よくわからなかったけどやればできることだ」とほぼ確信している時に「つまり根性」「あとは根性」とチームに指示している。
 これは知波単の精神論とは当然、非常に対照的で、つまり日本軍的な精神論とは、「負けそうなのは直観でわかってるけどそれを忘れる」ために掲げられるものだからです。


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 この差は、アンツィオ戦の「よっしゃあ佐々木! 最初からもう一度だ!」でも顕著でしょう。



 今までの砲撃が豆戦車に無効だったと判明した上で、「正しい方法でなら不可能ではない、と西住隊長は言っている」という状況でのセリフ。
 ふつうの人間であれば、「今までの苦労がムダだった」と思ってしまうと、もうなんか疲れた、やる気も湧かない……と実行に精神的ブレーキがかかるだろう、しんどい局面です。
 でも今はそんなこと(=今までの苦労)関係なくて、隊長から可能だと言われてるんだから、「最初からもう一度だ!」とイチからリセットして気合を入れ直すことが正しい――。



 ちなみに八九式でマウスの砲塔をブロックした作戦(TV版第12話)については、車内から手で押すこと自体に意味はないものの、作戦レベルで見た場合、やはり「無謀なことをやっているわけではない」局面です。
 そこで可能なできるかぎりのことを全体としては行いつつ、(操縦手以外はやることがないし)メンタルを保つために「根性のついで」で押してる感じでしょうか。


 そもそも磯部典子の言う「根性」はかなり包括的な概念で、「ちょっとだけ頭使って後は根性!」という名台詞もありますが、作戦やフォーメーションが好きなのもバレー部の特徴です。
 河嶋桃の立てた作戦を聞いたキャプテンは、嬉しそうにガッツポーズを取る(TV版第2話)。


  • 関係ないけどここは、全くの初心者車長だからこそ「作戦」という概念を初めて知って目を輝かせる澤ちゃんと、しっかりみほの顔を観察してる会長……などと見返すとすごく見所の豊富なシーン

 桃の立案の浅はかさには気付かないものの、スポーツ選手として「作戦を駆使して勝つ」ことは当然のスタンスであり、俄然やる気の湧く「戦い方」であることがキャプテンの表情からは窺えます。


 学園内での初練習では、歴女チームと秘密協定を結んで西住みほのチームを出し抜こうとするなど、敵の裏をかこうとする労を厭いません。ドラマCDでは「脳筋」の扱いを受けたりするものの、劇場版では「殺人レシーブ作戦」を積極的に提案し、知波単の戦車を率いて作戦指導をしてもいるのです。
 「天井からのナックルサーブでダブルブロックからの近距離スパイク!」


 だから「作戦」好きの磯部キャプテンにとって、おそらく策を思い付くことすらも「根性」に含まれている。
 つまりキャプテンは「頭を使っている、という自覚をせずとも思考を行う」人間であり、自分が策士のように考えているということを意識しない。
 全ての思考過程や行動を根性で済ますことができる。こうしたシンプルな思考パターンには、純粋に見習うべき点が多い気もします。……特に「思案しがち」な頭脳労働者にとっては。


 劇場版で言えば、「私たちにできることってなんだろう」と悩み、「考えつづけながら」できることを探していたウサギさんチームと、初めから「自分たちにできること」を実行しつづけたアヒルさんチーム……、という対比も存在していたかもしれません。

スポ根としてのガルパン

 「ガルパン」をスポ根ものとして観るならば、アヒルさんチームがテーマ的な主役ともなるはずで、あの蝶野正洋大使がアヒルさんチームの佐々木あけび好きだというのも、単に体育会系の好みというだけ*1で片付けず、つまりそこにもガルパンの面白さが詰まってるんだ、と解釈できる余地があるはず。



 監督の発言によると、ガルパンは「スポ根」を意識して描いていなかったそうですが、そういうコメントが出てくるというのは「スポーツにおける根性」をどう解釈するか? という問題でもあるのでしょう。
 その一方、(高校野球漫画の)『キャプテン』はドラマの参考にしていたそうで、『キャプテン』にしても充分に根性のドラマだと思うのですが、何を「スポ根」と呼ぶべきなのかは区別が難しいものです。

意外と性格分けのあるアヒルさんチーム

 キャプテン以下、4人いるメンバーの性格分けについても触れておきます。
 主に「根性」を言い出すのは磯部キャプテンで、バレー部復活に対しても最も純粋です。他の後輩3人は、割とバレー以外のことも話題にしたがります(劇場版の特典OVAでは、バレーにバレー以外を混ぜようとする3人に「バレーやろうよ」とキャプテンがツッコむ場面もある)。


 佐々木あけびは弱音も吐く泣き虫ですが、キャプテンの示した道にはよく従います。意味がなくても、キャプテンと一緒に砲塔を押すのがあけびです。


 近藤妙子はわりと常識人で、根性で砲塔を押すキャプテンとあけびにツッコみを入れる役。通信手という、全体の指揮に通じるポジションのためか、今後の戦車道について澤梓と相談したりもするらしい(という公式媒体の記事が存在する)。
 根性があるというよりは陽性の楽観論者で、逆境に挫けないタイプ、というイメージ。


 河西忍も冷静なところのある常識人で、操縦手として指導を受けていた冷泉麻子との上下関係を意識してるあたりが体育会系っぽいです。戦車を探す麻子を「まるで刑事みたい!」と感心したり(TV版第7話)、アプリゲーム「戦車道大作戦」に収録された「冷泉先輩仕込みのドライブテクニックを見せてあげる!」という後輩らしいセリフも印象的。
 近藤妙子とは逆にニヒルというか、逆境のプレッシャーを意識して自分を追い込むタイプに映ります。でも今はここが私たちにとっての東京体育館!


 こうして見ると、チームとしての一体感はすごくあるのに全員が根性言ってるわけではないことにも気付けます。
 アヒルさんチームは「初見では各キャラの判別がつかない」という視聴者も多いと思うのですが、そんなチームでも性格分けが見付かるわけです。


 ただ、ひとつのチームに性格分けがちゃんとある、各キャラに個性がある、というよりも、ここが「ガルパン」のキャラの回し方で注目すべき点だとも思います。
 バレー部というひとつの人格をよっつに分裂させた結果のようなもので、意思とエネルギーを司るキャプテン、気弱な内面を象徴するあけび、楽観的な妙子、冷静だがモチベーションの熱い忍……というように、必要な機能を分配し、四人合わせて「アヒルさんチーム」が成立するようになっている。


 ぼくは物語を読む際、ユング心理学の影響が強い人間なので「『桃太郎』の桃太郎とお供はひとりの人格の機能をよっつに分けたもの」的な解釈をしたほうが納得しやすいタイプなのですが、ガルパンは近年、特にその解釈がマッチする物語になっているとも感じています。


 だからアヒルさんチームのセリフで一番泣けるのは、打ち合わせもなく正念場で声を合わせて言う「そ〜れそれそれー!」なんですね。
 「そーれ!」が定型句のバレーボールにそんな掛け声は本来ないはずで、つまり「複数人ぶんの掛け声をくっつけて一気に、全員で言っている」という、現実にはありえないセリフであって、ちょっとした脚本上のマジックが掛けられているシーンです。
 相談もしてないはずなのにその場の掛け声がぴったりシンクロすることで、心がひとつになっていることを演出している。


 出来事を理屈で説明できないような、リアリズムを超越した瞬間が「ガルパン」には度々発生することがあり、そこにこそ感動できるんだと思うんですね。


 ガルパンはミリタリものという性質もあって、合理的なタクティクスやキャラクター心理の解釈が優先して語られがちだと思うのですが、物語的には「気持ちが強い方に勝利が傾く」という演出になってるのも確かです。


 そうした、「SF寄りというよりファンタジー寄り」と言いますか、「空想としての物語」という視点から「ガルパン」を楽しむということについては、また改めて記事にしたい気持ちがあります。
 それは以前、児童文学やメルヒェンの角度からアニメを論じていたのと似たアプローチになるでしょう。

キャラクターデザインの効果

 余談ですが、キャラクターデザインの点においてもアヒルさんチームは独特なポジションにあります。

 例えば、脇役チームのなかでも、ネトゲチームは(メインキャラクターデザインの島田フミカネ氏ではなく)野上武志氏がまとめてデザインしたものです。
 全体的にシンプルなコンセプトで統一されたメインキャラクター(地味なイメージなのは狙った結果のよう)に対し、「色モノ」枠としてそれぞれ個性的にデザインされています。
 つまり、このチームに関しては各キャラがみな同等に「個人」化されている。


 一方でアヒルさんは、キャプテンのみフミカネデザインであり、後輩3人は野上デザインという分担になっており、シンプルなキャプテンを中心にしてまとめられている感があります。
 そしてキャプテンと他3人はデザイナーが異なるため、あんこうチームやウサギさんチームのように「(地味なりに)同列の個性が並んでいる」という感覚は薄く、キャプテンあっての後輩3人、後輩3人あってのキャプテン……というように、結果的に各キャラが個人として独立しない、4人でひとつの一体感に結びつくのではないかなと。


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*1:と、本人の奥さんが金髪

テスト

 一ヶ月間ほどこの日記がプライベートモードになっていたことにさっき気が付きました。

『ウィッチクラフトワークス』の多華宮霞ちゃん

 12月にガルパンの劇場版を観てからというもの、年始はガルパン熱の勢いでTV版全話を一気に見返したり、Amazonプライムビデオでアンツィオ戦を何度も観たりしていたのですが、特に大晦日と元旦は録り溜めして積んであった『ウィッチクラフトワークス』のアニメを水島努監督繋がりで観る、という過ごし方をしていました。


 原作コミックスやコミックス付属のOADも補完した結果なんですが、多華宮くんの妹の霞ちゃんが可愛い。


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 妹の霞ちゃんは「兄と夫婦になって一生ずっと一緒にいたいけどそれは兄妹なら当然の権利なので別に好きだと思ってないし恋人になりたいわけでもない」って認識を本人はしてるとことかいいブラコンキャラだなあと。


 霞ちゃんは「高飛車で兄をこき使う妹」で「甘えたがり」でツンデレというベタな妹要素の集合なのですが、本人はスクールカースト上位で普通に優秀かつ見た目が年下キャラっぽくないことや、そのベタな要素同士が微妙に矛盾してるように感じるところなどから、狙って作ったというより作者の狙いがやや斜めにズレた偶然の産物という感触もする。


 例えば「私お兄ちゃんと結婚するー」と小さい頃に口走った延長でブラコン設定の妹はよくあったとしても、キャラとしては「成長後にその発言を後悔するツンデレ」か「成長したので真剣になってしまっている」かのどちらかであって、霞氏のように「成長後も子ども感覚で兄のリソースを独占するためだけに結婚したいとしか考えてない」ってブラコン設定は簡単に出てこないものでしょう、たぶん。


 霞ちゃんは性的なことは一切汚らわしいと考えてるらしいので、お兄ちゃんと一緒に寝たがるし風呂に入りたがるけど、本気で恋愛感情のないブラコンっぽく見える。このあたり友人の田沼氏が「いやそれ恋愛感情だろ」と思い込んでいるのでミスリードを誘うんですが、いや本当にこの人は「思春期の恋愛感情を経由してないただの妹」でしかないのでは……?


 しかし見た目は子どもっぽくもなく、スクールカーストが高くて強そうなキャラゆえに、幼くて精神年齢の低い妹や、ただのツンデレ妹だとはベタに感じさせず、可愛い。あとアニメでは声が茅野愛衣さんなので、ボケ役や貧乏クジ役の多い役回りながらも、そこはかとなく「正統派ヒロイン」っぽい雰囲気を残しているのもよいバランス感覚になっています。

霞ちゃんはいいぞ

 あとなんでこういうキャラクターに注目するのかっていうと、「家族愛でも恋愛のどちらにも分類できない感じ」が表現されてないと、血の繋がったカップリングを描く意義があんまりないからと考えるからでもあります。
 その点、霞氏はまさに「これはどっちでもないよなあ……」としか言えない心理状態としてブラコン感情を描いているので、こりゃ面白いぞ、もっとやれ、惜しむらくはメインヒロインじゃないのにキャラが立ってしまってることなんだが……と思うところなのでした。


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