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インド洋(アチェ)大津波から20年

非常事態宣言下のアチェ津波被災地

  20年前の12月26日にスマトラ島北西部を震源とするM9.1の巨大地震が発生し大津波も発生。各地に多大な被害をもたらした。
 本日12月26日付の中日新聞、京都新聞、沖縄タイムス、東京新聞などに「台帳修復、日本支援に評価 スマトラ沖地震20年」という記事を見つけた。”弱い立場の被災した人々の法的根拠Regal documents, Vital Recordなどを救出・保全」することの意義を認め、被災地で評価を受けている事が書かれていて、関わった者として感慨深い。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE25DES0V21C24A2000000/

  今では想像も出来ないが、2004年12月当時は、インドネシア・アチェ州の分離独立を目的としていた武装組織「自由アチェ運動GAM)」と政府軍の戦闘が散発的に続いていて非常事態宣言下で、外国人の入域など制限されていた。1月下旬にジャカルタには行けたが、バンダアチェに入れたのは2月10日だった。
  この前例のなかった日・ィ共同の津波後の復旧支援活動ついては、以下のタイトルで検索するとWeb上で「一歩前へ~アチェにおける被災文書の修復活動」と「インドネシア・アチェ州からの報告と危機管理」の2件が全文閲覧が可能です。

 文章では分かりにくい「津波を被った緑の木々が次々と茶色く枯れていく状況」に、人々は恐怖し泥の中から土地台帳を救出する作業を畏怖したが、「孤児や寡婦でも土地台帳の法的根拠があれば裁判でも守られる」と説明を受け、救出作業に来てくれた現地の被災者達、、、連続的に当時の画像を並べ共有します。
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# by PHILIA-kyoto | 2024-12-26 13:28 | 身辺雑記  

2024 ヒメコウゾの花が咲き始め

☆ヒメコウゾの雌雄同株の花が咲き始め
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  毎年、春の新芽の時期になると若葉と一緒にメスの花とオスの花が咲き始めます。 これらの画像は青梅で4月15日に撮影。葉の形も手形のようなもの、ミトン手袋のようなもの、楕円の卵型のものなど。それらが一本の木に混在しているもの、1種だけのものがある。そして一本の木の花のほとんどがメス花でオス花は数個しかなく慎重に探さないと見つからない例があり、その逆もある。樹種の識別は慎重に行う必要がある。
  ヒメコウゾは同じクワ科のカジノキなどと共に京都などの縄文時代後期の遺跡の土中から痕跡が採取されている。
     
☆正倉院収蔵品「木綿 ゆふ」

  豊の国大分の植物誌 : 大分の自然に生きる植物』など多くの植物学の著作がある荒金正憲先生(別府大学短期大学部名誉教授)は、郷土の由布の地名の由来である古代布「ゆふ」の原料植物はヒメコウゾと考えられ、ヒメコウゾの保全にも情熱を注がれた。しかし、古代布「ゆふ」の原料植物や製法については、今も分からないことが多く様々な見解がある。

  現在、「木綿ゆふ」という名称を伴う原物が、正倉院の中倉に11束、南倉に8束収蔵されている。正倉院展図録に拠ると、中倉収蔵の「木綿ゆふ」のサイズは幅11-20.5cm、長さ39.5-46cm。TAPAのように樹皮白皮を叩き技法でシート状にしたとすると、原料木の使用部位の直径は1.8-3.2cm程かと推察される。叩き技法に適したカジノキ、あるいはコウゾかヒメコウゾが用いられたのではないかと考えるが、すべては科学的な調査を待たなければならない。

# by PHILIA-kyoto | 2024-04-25 15:20 | カジノキ(クワ科)雑記  

東日本大震災から13年、続くデジタル・ジェノサイド

デジタル資源の保全、救出・復旧技術情報を提供する国の機関・組織は何ケ所?

  日本には、国民の知的遺産やアーカイブズ資源、文化歴史的資源を国として広く収集・保存・活用していく国立国会図書館、国立公文書館・国立博物館などなどが設置、運営されている。
  この投稿及び前回投稿 https://philias.exblog.jp/33886674/『月刊M』2011.7月号記事「東日本大震災とデジタル・ジェノサイド」から13年もの歳月が経ち、総務省、経済産業省、環境省、国立国会図書館、国立公文書館、文化庁、国立文化財機構文化財防災センターといたところから、国民生活に未だ「なじみの乏しい多様なデジタル資源」が被災した場合の適切な「取り扱い・対処法・テクニカル相談窓口」などの情報が提供され、手助けしていく事が必要と考えている。
  しかし、現状では発信・提供実例は、未だ無いようだ。見落とししておれば、ご指摘いただきたい。

  もし、東日本大震災から13年が過ぎても様々な被災デジタル資源への具体的な保全救出情報がっ広く国民、住民向けに提供されていないとすれば、時計の針を1997年のアメリカに戻してみることをお勧めする。
  現在も民間企業「国際マイクロ写真工業社」の多大な努力で同社のWebsiteに残された「Into the Future ~ デジタル情報社会に潜むデータ保存の危機 ~」という古典的ビデオですが、以下のURLから無料視聴いただけます。
 https://www.kmsym.com/kmview/into.pdf   まだご覧になっていない方々は、その解説とともに33分の日本語版映像を見て、従前のアナログ媒体の資源とデジタル媒体資源の特性の劇的変化に応じた方策を「成り行き任せ」にしないで、適切に講じていく事が避けられない、と考え門外漢のアナログ紙の保全修復専門家ですが問うていきます。
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# by PHILIA-kyoto | 2024-03-23 16:20 | 危機管理と災害  

能登半島地震災害におけるデジタル資源の保全・継承を急げ

『月刊IM』2011.7月号記事「東日本大震災とデジタル・ジェノサイド」から13年

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 2011年の当該記事では、「デジタル・データ救護所」に該当する情報を収集し、見つけられたのは仙台の1ケ所くらいで、”被災したデジタル・データを救助しよう”、”被災デジタル媒体の取り扱い方法”などの検索をしても、広がりを認められず、警鐘を鳴らす意味で「デジタル・ジェノサイド」状況とした。
  あれから13年が経ち、デジタル技術の社会への浸透拡大、目まぐるしい発展を経ており、能登半島地震後の「デジタル救護所」の開設情報、件数などの動静を注視していた。投稿者の年齢が上がり、情報収集が狭まった事情はあるが、眼にとまった最初のは、デジタル・データ・ソリューション社が2月14日付産経新聞記事で富山銀行との共催で3月5-7日に富山県高岡で無償でのデータ復旧を実施するという紹介であった。
  結局、本日3月9日現在、電子政府を推進する総務省、産業界を監督する経済産業省からの「被災したデジタル・データの保全・救出・復旧」に関する通達は見ていない。そして文化庁・国会図書館・国立公文書館なども参加し構成する独立行政法人文化財機構文化財防災ネットワークの側からも、社会の隅々に普及浸透したデジタル・バイタル・レコードと定義すべき記録・資料群の廃棄防止や救出保全喚起、そして救出方法に関する具体的なマニュアルは出されていない。
  おそらく、現状では「そもそもデジタル・レスキューを行う場合の救出対象は何なのか?」などなど明確にしなければ身動きできないだろう。
  これだけ、デジタルIT化が進み社会生活に浸透したのに、総務省、経済産業省、文部科学省、そして国立文化財機構文化財防災センターや史料ネットで「デジタル・レスキュー」の大切さを提起し、関与してこなかったのは何故か?という基本的疑問にも説明が必要だ。
 
  現実の課題に戻り、交通アクセスの不自由さの続く能登半島地震被災地において、津波や家屋倒壊、土砂崩れなどで水損・汚泥損傷、衝撃損傷し、今も廃棄せずに「救って欲しいハードディスクやスマホのデジタル・データ所有者が、どの程度おられるのか、至急可能な範囲でサーベイを行い、デジタル・ジェノサイドの再来を回避していただきたい。
  今回の能登半島地震でも「地域ごとのデジタル救護所」が構想されなかったことから、先行しているDDS社などのデータ復旧技術支援を得られるよう、助成財団或いは公的支援で、データ救出・復旧が技術的に不可能にならない内に時間との競争で作業が進む事を願っている。
  被災地に見つかる「アナログの写真アルバム」には、すぐに目がいき助けたいと感じるのに、ブラックボックスに入ったような「被災デジタル媒体」には無頓着になる。不思議な現象だ。  "Visible and machine-readable "という各特性の説明がある。アナログ情報は直接読めるが、デジタル情報は機器を介在させないと読めない、という原理的な差異が、シンパシーを感じる、感じないひとつの要因なのかもしれない。 
  能登半島地震関連の一連の被災デジタル媒体のデータ救出・復旧作業が一段落した段階で、デジタルIT社会における国民のかけがえのないデジタル資源を、災害時にどのように守り、救っていくのか、デジタル・ジェノサイドを日本で繰り返さないよう十分に検証し、善処いただきたい。
  **2024.4.12 11:50投稿の一部補足を行った。

# by PHILIA-kyoto | 2024-03-10 00:43 | 危機管理と災害  

樹皮紙(叩き紙Beaten Bark Paper)とは? ④

④ 気になるマヤ・アステカ研究者、専門家の思考停止

  昨年10月頃にメキシコ大使館から提供されたAmate paperに関するビデオ(https://www.youtube.com/watch?v=AFTavOj-vBU )およびアメリカ議会図書館所蔵の至宝であるアステカ期の絵文書「Huexotzinco codex, 1531」のマテリアル解説や調査記録を見る機会があった。重要なAmate紙の製作技法として、いずれもメキシコPuebla州San Pablito村の作り方を挙げておられる。これまでに多くのマヤ・アステカ全研究者、興味を持った方々が、その説明を見たり、読んだりされたと思うが、疑問もなく内容を受容されたのだろう。
  この投稿の閲覧者の方々も、「変だ、おかしい」と思うことなく読み終えられたかもしれません。
  この機に深ををして、次のメキシコのの2枚の石器ビーターに関する画像を見て、思考を働かせていただきたい。上のマップは1本の棒状Batonタイプとラタンなどでハンドルを付けるRacketタイプの石器ビーターが両タイプとも考古遺跡から出土している事が1960年代初めにはメキシコで知られていたことを示す貴重なものである。下の画像はマヤ期の遺跡から出土したとされる石器ビーターで、作業面の溝の間隔幅が”作業中間段階”と幅の間隔が狭い”仕上げ段階”の使用を伺わせる石器ビーターが写っている。石器ビーターの数本のセットでの使用を考慮しなければならないようだ。
  ところが冒頭で紹介したビデオも、米国議会図書館のアステカ絵文書の「樹皮紙Amate」の製作技法として、先述のようにメキシコSan Pablito村の製作技法を、巷の説明同様に挙げておられる。何故、Amate Paperの原形がSan Pablito村の製法であるかの如くに、著名なマヤ・アステカ研究者、ジャーナリスト、愛好者は釘付けになってしまうのでしょう? その理由は、1901年になされたアメリカ人民族学者Frederick Starrの「マヤの時代からの古来のAmate紙製作技法がSan Pablito村のOtomiインディアンの集落に生き残っていた」という大スクープに驚き、受容した結果と考えます。
  マヤ・アステカの考古学者や専門家、古代紙の愛好者は、本来なら以下の複数のタイプのビーターの発見マップや形状の異なる石器ビーターの使用時期、出土場所、特徴を各専門的視点から謙虚に調査研究し、直面する謎や疑問の解明に邁進するのが本筋でしょう。
  しかし、投稿者にはマヤ・アステカの考古学者や専門家が、長年集団的思考停止状態に陥っていたように思えます。
  これまでに投稿者が指摘してきたマヤ・アステカあるいはそれ以前の時期のBeaten Barkの謎や疑問が、ようやく解明されていく段階に来たようにワクワクしております。
樹皮紙(叩き紙Beaten Bark Paper)とは? ④_f0148999_23264713.jpg






  










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**2024.2.25 16:20 投稿に一部補足した。

# by PHILIA-kyoto | 2024-02-24 12:28 | 身辺雑記