大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」

1位にこだわらないスパコンとして生まれて1位を獲った「富岳」。日本の技術者たちが開発で目指したものとは

富岳

 理化学研究所(理研)のスーパーコンピュータ「富岳」が、2020年5月13日に搬入が完了し、2021年度からの共有運用に向けた準備が進んでいる。

 その富岳が、このほどスーパーコンピュータ(スパコン)の世界ランキング「TOP500」において首位を獲得した。日本のスパコンが世界でトップとなるのは、2011年11月の「京」以来、8年半ぶりのことになる。さらに、3つの部門でも世界1位を獲得。史上初の4冠となった。

 だが、富岳は、性能で世界1位を狙うことを目的に開発されたものではない。科学技術の探求だけでなく、産業界をはじめとして、実用的に役立つ汎用性の高いスパコンを目指して開発されたものだ。

 すでに新型コロナウイルス症に関する研究などにも先行利用されており、これも汎用性を追求した富岳だからこそ、実現できたものだと関係者は胸を張る。富岳のこれまでといま、そして未来を追った。

TOP500、HPCG、HPL-AI、Graph500の4分野で世界1位に

 6月22日(欧州現地時間)に、今年(2020年)はオンラインで開催されたスパコンの国際会議「International Supercomputing Conference (ISC 2020)」において、最新のTOP500が発表された。

 TOP500は、LINPACKの実行性能を指標として、世界でもっとも高速なコンピュータをランクづけするもので、1993年から開始。毎年6月と11月の年2回、ランキングを発表している。

 LINPACKとは、スパコンの標準性能を評価する指標として長年用いられており、理工学で一般的な線型方程式(密行列)を解く速度を測定している。

 理研に設置された富岳は、415.5PFLOPSを達成。これまで1位だった米オークリッジ国立研究所のSummitを2位に退け、しかも、Summitの148.6PFLOPSの2.8倍という大きな差をつけて見せた。

 それだけではない。

 実アプリ性能に近いと言われ、反復法(CG法)により、疎行列の線型方程式を解く速度を評価する「HPCG」では13.4PFLOPSとなり、2位のSummitの2.93PFLOPSの4.57倍という圧倒的な差で1位。

 AI系で多用される半精度演算(16bitの浮動小数点)を活用して、線型方程式を解く速度を評価する「HPL-AI」では1.42EFLOPSとなり、2位のSummitの2.58倍のスコアを達成。

 ビッグデータ処理などの性能を評価する指標であり、整数演算やメモリアクセス速度など、グラフの探索速度で評価する「Graph500」では、70,980GTEPSとなり、2位となった中国の神威太湖之光の23,756GTEPSに対して、2.99倍もの性能差を見せつけた。

 HPL-AIは、今回がはじめてのランキング発表となったこともあり、ベンチマークテストで4冠を達成したのは、富岳がはじめてのことになる。しかも、最低でも2.58倍という圧倒的な差をつけての4冠である。

 世界4冠を獲得した報告会見で、理化学研究所の松本紘理事長が、「四冠馬ならぬ、四冠機になった」と表現。理化学研究所 計算科学研究センターの松岡聡センター長は、「現時点では、100%の性能をまだ発揮していない。富岳が世界のトップレベルでいる期間は相当長いと考えている」と語り、当面、1位の座を明け渡すことがないとの姿勢を強調した。

理化学研究所の松本紘理事長
理化学研究所 計算科学研究センターの松岡聡センター長

 実際、Graph500での計測値は、富岳全体の約6割の計算ノードを稼働させた時点での性能であり、その片鱗を見せただけで、2位以下を大きく引き離して見せたのだ。

スパコン京の後継として8年半ぶりに首位を奪還

 富岳は、2019年8月に運用を停止したスパコン「京」の後継機として、2014年から文部科学省の「フラグシップ2020プロジェクト」によって、約1,100億円の予算規模により、開発が進められてきた(総開発費は約1,300億円)。

 ハードウェアの開発は富士通川崎工場で行ない、ソフトウェア開発は富士通沼津工場および川崎工場が担当。システム評価は富士通沼津工場で行なわれ、生産は石川県かほく市の富士通ITブロダクツで行なわれた。

 京の100倍のアプリケーション実行性能を備える富岳は、今回、スパコン性能世界一の座を、日本のスパコンとして、8年半ぶりに奪還して見せた。

 だが、富岳は性能で世界一の座につくことを目指して開発したものではない。むしろ目指したのは、世界最高水準の汎用性である。

富士通の新庄直樹理事

 富士通で富岳のプロジェクトをリードした新庄直樹理事は、「富岳は、スーパーコンピュータの性能競争のために開発したわけではない」と断言。「科学技術の探求だけでなく、産業界をはじめとして、実用的で、役に立つ、汎用性の高いスーパーコンピュータを目指して開発したものである。科学的、社会的に役に立つことが富岳の役割」とする。

 理化学研究所の松本紘理事長も、「富岳は、名前のとおり、富士山のような高い性能と、裾野の広い能力を目指したものである。言い換えれば、単にスピードが速いだけでなく、Society 5.0に役立つようなインフラとして、AIやビッグデータ解析の分野でも優秀な性能を示すことを狙っている」とコメントする。

「2位じゃだめなんでしょうか」発言に当時世論は反発
しかしむしろ目指したのは1位にこだわらないスパコン

 スパコンの世界では、長年にわたり、日本、米国、中国による高性能競争が繰り広げられてきた。

 民主党政権時代に蓮舫参議院議員が、「予算仕分け」のなかで、世界1位の性能を目指すスパコンの研究開発予算に対して、「2位じゃだめなんでしょうか」と発言したことがあった。この発言にIT業界をはじめ、多くの国民が強く反発。それが話題となり、スパコンの高性能競争が、この分野において、重要な指標となっていることを、改めて強調する結果にもなった。

 もちろん1位という結果は大事だが、米中のスパコン性能競争では、特定の計算の速さだけを追求した結果、汎用性がなくなるという課題が生まれていた。そうした潮流に対して、富岳は性能競争が重視されるスパコンの課題に一石を投じたとも言える。

 富岳は、それまでの単純な性能競争から脱却し、実用性という点を追求。具体的には「省電力」、「アプリケーション性能」、「使い勝手の良さ」の3点を重視したとする。

 その姿勢は、言い方を変えれば、蓮舫議員の「2位じゃだめなんでしょうか」という発言を、むしろ肯定したものとも言える。開発当初から、「1位にはこだわらないスーパーコンピュータ」として開発されたからだ。

 実際、松岡センター長は、「アプリケーションを使いやすくすることを最優先した。それを実現する上で、ベンチマークにおいて、ほかのスーパーコンピュータに劣っても仕方がないと考えていた」とする。

 そして、理化学研究所 計算科学研究センター フラグシップ2020プロジェクトの石川裕プロジェクトリーダーも、「世界一を取れるかどうかは相手次第。LINPACKの性能だけに特化したスーパーコンピュータが出てくれば負けることもあるだろう」とも語っていた。

 だが、その富岳が、圧倒的な差をつけて、TOP500をはじめとした4部門で1位を獲得した。

 松岡センター長は、「主要なすべての部門において圧倒的な1位を獲得したが、これはわれわれにとっての意義ではない。さまざまなアプリケーションを最高性能で動かすことを追求した結果として獲得できたものである。富岳にとって、大きな意義は、1位を取れたことではなく、汎用性が広く、それぞれの領域において、圧倒的に性能が高いというところにある」とする。

富岳が重点とする9分野のターゲットアプリケーション

 富岳は、開発の早い段階で、9つの重点領域を定めている。
ものづくり、ゲノム医療、創薬、災害予測、気象・環境、新エネルギー、エネルギーの創出・貯蔵、宇宙科学、新素材の9分野である。

 石川プロジェクトリーダーは、「富岳を『ポスト京』と呼んでいた段階で、日本において解決すべき社会課題分野を挙げ、それを9つの重点領域として定めた。富岳は、そこに向けて目標性能をおき、開発を進めてきた。

 9つの重点領域で利用される典型的なアプリケーションを『ターゲットアプリケーション』と呼び、ハードウェア開発とソフトウェア開発を並行して行なうコデザインの手法を用いて、アーキテクチャを設計し、それぞれにおいてベストな性能を出すための努力をしてきた。開発した側からすると、9つの重点領域においてベストな性能を出すという努力の結果が、4部門において、世界一のベンチマークを達成したことにつながっている」とする。

 そして、松岡センター長は、アプリケーションの広がりをクルマにたとえて表現する。

 「クルマは、乗り心地を良くすれば、コーナーリング性能が悪くなる。アクセルを踏んだときの乗りやすさを重視すれば、最高出力が落ちる。さまざまなアプリケーションに対応するということはそれと同じであり、クルマで言えば、スピード重視の性能と、買い物でどれぐらいの荷物が積めるかの性能というぐらいに幅広い。それを高い次元でバランスを取った。特定のベンチマークを重視したり、特定のアプリケーションで効果を発揮するために作ったわけではない」。

 初の4冠という栄誉は、こうした開発コンセプトを打ち出し、それを実現したからこそなし得たと言える。

京が抱えていた3つの課題を解決した富岳

 富岳は、京が抱えていた課題を解決することを目指して開発されたという。

 松岡センター長は、「京は、多数のCPUを活用して性能を上げる超並列コンピュータであり、画期的な成果を上げてきた。だが、その強みを発揮する一方で、京には3つの大きな課題があった。富岳の設計はそれらを克服することを目指して設計した」と振り返る。

 京が抱える1つ目の課題は、消費電力だ。スーパーコンピュータは、電力の大きさによって、マシンのサイズが決まってしまう。消費電力が大きいほど、マシンのサイズが大きくなり、それが全体の性能やコストにも影響することになる。

 京は、GPUのような用途に特化したプロセッサに比べると、消費電力で劣っていた点が課題だった。そこで、消費電力で圧倒的な効率を高め、GPUのように特化したプロセッサと同程度の消費電力を実現することを目指す必要があったという。

 2つ目は、性能を犠牲にせず、新たなアプリケーションにも対応するという点である。より高性能のCPUを搭載し、それをあらゆるアプリケーションで性能を発揮すること。さらに、京では対応できていなかったAIのような新世代のアプリケーションでも性能を発揮ですることを目指したという。

 そして、3つ目が、業界標準のソフトウェアがきちっと動作することである。コンピュータは、いくら優れたプロセッサがあっても、ソフトウェアがないと意味がない。

 SPARCベースの京では、ある程度のソフトウェアはそろっていたが、x86系CPUに比べると、ソフトウェアの種類では圧倒的に劣り、商用ソフトウェアが新たに出てこないという問題があった。それが、京での産業利用が進みにくいという問題にもつながっていた。

 松岡センター長は、「京では、100社以上の産業利用があり、その点では成功と言える。だが、次期スパコンでは、それをもっと伸ばさなくてはならないと考えた。京は、SPARCという特殊な命令体系のCPUであったため、産業界でよく利用されるパッケージソフトウェアが動かなかった。そこで富岳では、Armの命令体系を採用することで、全世界に何百億も使われているArmのソフトウェアが直接利用できるようになった。PowerPointでさえも、利用できるCPUである」とする。

SPARCかArmか、悩まされた採用CPU

 京が抱えていた課題を解決すべく、富岳は、「省電力」、「アプリケーション性能」、「使い勝手の良さ」の3点を重視して開発したが、その上で、CPUの選択は大きな決断の1つだった。

 京の流れを汲んだSPARCとするのか、あるいはArmにするのかといった検討は、2013年頃に行なわれていた。

 もちろん、対応アプリケーションの広さを考えれば、x86という選択肢もないわけではないが、「Intelのx86には、ライセンス制度の問題があり、x86系のCPUを自分たちで作るには、どこかの会社を買収しないかぎり難しい。それに対して、Armであれば、ライセンス費用を支払えば、CPUを作ることができる」(松岡センター長)として、早い段階でx86は候補から漏れ、SPARCか、Armかの2択になった。

 「私の理解だと、理研のほとんどの人たちはArmだと言っていたが、富士通のなかではArm派と、SPARC派に分かれていたようだった」(松岡センター長)。

 富士通には、SPARCで動いていたソフトウェアが多数あり、それを捨てて、Armに移るリスクが大きいとの声があったようだ。

 だが、「80年半ば頃は、SPARCには高い評価が集まり、さまざまなツールが用意されていたが、2010年代に入るとそういう状況ではなくなっていた。プログラム開発のためのツール群をはじめとするソフトウェアスタックが少なく、その点で、x86やArmとの差が開いてしまった」(石川プロジェクトリーダー)という状況も見逃せなかった。

 その一方で、Armには汎用性があり、多くのアプリケーションを利用できる。スマートフォンで利用されていたり、組み込み系でも利用されたり、エコシステムの広がりはSPARCに比べて圧倒的であった。

 検討をおこなった時点では、Armでは、サーバー向けソフトウェアは少なかったが、エコシステム拡大の流れがサーバー分野にも波及することが想定され、「今後のソフトウェアの普及が見込めるのが魅力的だった」(松岡センター長)という声もあった。

 こうした状況を捉えながら、最終的には、富岳の利用の裾野を広げていくために、Armの採用を決定した。

 松岡センター長は、「採用するのは、メインストリームと言われるCPUでなければいけないと判断した。アプリケーションの開発に3年も、4年もかけて、ようやく使えるというものではいけない」と、Armに決定した理由の1つを語る。

富士通がゼロから開発した「A64FX」CPU

 富岳では、京のアプリケーションを利用できる互換性を維持しながら、オープンソースアプリにも対応。GCCやPython、Ruby、Eclipse、Docker、KVMが利用できる。また、レッドハットのRed Hat Enterprise Linux (RHEL)8.1を採用していることから、あらゆる領域において、コンピューティングリソースを活用できる地盤がある。

 富岳に搭載されているCPUは、「A64FX」と呼ばれる新たなチップで、Armのv8-A命令セットアーキテクチャをスパコン向けに拡張した「SVE」を使用しているのが特徴だ。

 最先端の半導体技術により、すべての機能をワンチップに集約しており、CPUピーク性能は京の24倍となる3TFLOPS、メモリバンド幅は京の16倍となる1,024GB/sを実現している。また、消費電力あたりの性能は、最新のIntel CPUと比較して約3倍の効率性を発揮するという。

 そして、富岳では、2つのCPUをメインボードに搭載し、1つのラックのなかに、このボードが192枚搭載される。1ラックを384個のCPUで構成しているという計算だ。

 富士通の説明によると、1ペタのシステムの場合、京は、80個の計算ラックと、20個のディスクラックが必要であり、計算ノード数は7,680、IOノード数は480、設置面積は128平方mが必要だった。しかし、富岳では、同等性能を実現するのに1ラックだけで済み、設置面積も1.1平方mで済む。

 松岡センター長は、「市販のCPUを購入し、スーパーコンピュータを作っていたら、マシンの電力や規模、金額も3倍に膨れ上がる。そして、これだけの成果は達成できなかった。京の40倍の性能を発揮しながら、電力増加はわずか2.2倍。従来の米国製CPUの3倍の性能を発揮できたのは自ら開発したことが大きい」と語る。

 A64FXは、スマートフォンなどに用いられる汎用Arm CPUの上位互換CPUとして、富士通がゼロから開発したものだ。製造は、台湾のTSMCで行ない、7nm FinFETプロセスによって生産されている。

 松岡センター長は、「京のCPUは、富士通が開発し、製造も富士通のファブで行なった。それに対して、富岳は、CPUやメモリなどの生産は、海外の半導体会社との協業によって行なっている。

 だがこれは、Armをはじめとする多くの半導体メーカーが、開発と製造を水平分業しているのと同じ仕組みであり、A64FXの設計は日本で行ない、そこには富士通の長年のCPUの設計技術が活きている。設計技術と、半導体製造会社の最新技術の組み合わせによって、世界一の性能を達成できた」とする。

 石川プロジェクトリーダーも、「TSMCを選択したのは富士通だが、緊密な連携を行ない、プロジェクトを推進できたことを振り返ると、正しい選択であった」と語る。

後塵を拝し続けた日本の半導体産業
その復活とも言えるA64FXと富岳の存在

 松岡センター長は、「圧倒的に性能が高く、圧倒的に消費電力が低く、そして汎用性があるCPUを開発できたことは、日本の技術力を示すことにつながった。CPU開発で後塵を拝してきた日本の半導体産業の復興」と宣言。

 「日本は、マイクロプロセッサの時代に入ってから、海外勢がびっくりするような、すごいものをつくることができていなかった。A64FXは、汎用CPUで、米国の巨大企業などにも勝つことができたCPUである。Crayがはじめて日本の高性能汎用CPUを採用したことからもそれが裏づけられる。日本半導体産業の底力を示し、復活の狼煙をあげることができたことに意義がある」と胸を張る。

 松岡センター長は、「富岳は、構想が開始されてから10年間。いよいよ運用が開始される段階に入った。振り返ってみると、実際に実現された富岳というマシンと、10年前にホワイトペーパーを書いたときに構想していたマシンとの乖離は非常に少ない。10年前に描いていた未来像を実現できたという点では感慨深い。基礎研究およびそれに基づいた開発が、持続的に行なわれてきたからこそ、今日の成果がある。持続性が大切である」と語る。

 京は、「予算仕分け」によって、プロジェクトが中止に追い込まれようとした。だが、それが国民の支持という追い風につながり、プロジェクトが継続され、完成後には2019年8月まで稼働し、さまざまな貢献を果たした。そうした京からの継続的な研究、開発の成果が、富岳にもつながっている。

難航した富岳の開発。富士通の推しが突破口に

 富岳は、幸いにも、そうした外部からの危機はなかったが、内部的にはさまざまな危機があったという。

 松岡センター長は、「この10年間で、4回か、5回の危機があった。決して、平坦な道のりではなかった」と振り返る。とくに、初期段階で大きな壁にぶつかったことを明かす。

 「2010年から約2年をかけて、ハードウェアやシステムソフトウェア、アプリケーションのロードマップを作った。さらに、2012年からは調査研究として、富士通の技術者などとともに、富岳のもとになるアーキテクチャの基本設計を考え、2014年から開発がスタートした。

 だが、それまでに予想した将来のテクノロジは、思ったようには進歩していなかった。その結果、予測に基づいた性能目標の見直しをしなくてはならない状況が発生し、目標を再設定した」(石川プロジェクトリーダー)という。

 最大の問題がCPUの性能だった。

 富士通の新庄直樹理事は、「日本国内には微細な製造プロセス設備がないため、どうしても海外に頼らざるを得ない。結果として思いどおりに技術が進化しないといったことが生まれやすい。当初予定していた半導体では、計画どおりの性能が出せないという事態に陥った。

 今の世代のプロセス技術でいくのか、1世代先のプロセス技術を採用するのか。そして、1世代先のプロセス技術を使えば、本当に大丈夫なのかという議論を何度も重ねた。ここが開発においては、一番苦労したポイントだった」とする。

 その壁を打破したのが富士通の技術者たちの努力だった。

 「富士通の技術者が、徹底した技術検討を行なった綿密なデータを提示し、新たなプロセス技術の採用によって、この壁を乗り越えられることを示した。時期は多少遅れることになるが、ターゲットとした電力性能、規模、コストなどの厳しい目標に対しても目標を達成できることがわかった。ここには、富士通とTSMCの緊密な関係も貢献している。最終的には、次の世代の新たなプロセス技術を採用することに決めた」(石川プロジェクトリーダー)。

 富士通は、TSMCとの連携を強化し、CPUの設計、開発の進展と、新たなプロセス技術の確立を並行させ、計画に遅れが出ないようにプロジェクトを進めていった。

 「富士通と一緒にプロジェクトを推進してきて感じたのは、あらゆる点でマージンを持たせていること。CPUの設計においても、海外メーカーは、回路を詰め込んだギリギリの設計をすることが多いが、富士通は確実な設計をしており、多少なにかの問題が起こっても、そのマージンによって、カバーする。開発面だけなく、調達や製造、搬入といったサプライチェーンの問題も、富士通が用意したマージンでカバーでき、計画がうまくいったと思っている」(石川プロジェクトリーダー)。

 こうしたところにも、日本によるスパコン開発だからこそ実現できた突破力が感じられる。

 また、富岳では、京にはなかったAIやクラウドへの対応といった点でも変更を加えている。これも苦労とした点だったようだ。

 「検討段階では、AIがいまのような大きな流れにはなっていなかった。また、Society 5.0という考え方もなかった。だが、今後はAIが重要になると考え、AIに適用できるように機能を追加した。いま思えば、このあたりの決断や作業がたいへんだった」と石川プロジェクトリーダーは語る。

 富岳では、AI分野で使用される半精度演算や、8bi幅整数演算を効率的に実行できるようにしたほか、PyTorchやTensorFlowなどの高速実装をDNNL for A64FXやEigenなどをベースにした「富岳AI」開発。

 また、富岳の上に、AIフレームワークを作り上げ、富岳を中心とした世界トップクラスのAI学習、推論、利活用の計算機環境基盤も構築される。

 一方、クラウドについても、富岳の使い勝手を高める上では避けては通れないポイントだった。

 「富岳の産業利用が促進できるように、アーテキクチャー全体を構成し、そこにクラウドの活用を盛り込んだ。京は、クラウド利用はあまり考えていなかったが、富岳では7社のクラウド事業者と連携し、クラウドのインターフェイスを利用して産業界からも利用できるようになっている。

 クラウドでアプリケーション開発を行ない、大きなリソースが必要になったときには、富岳に移って利用できる。いま8社目のクラウド事業者と検討を行なっているところである。これによって、産業界が利用しやすいスーパーコンピュータを実現できる」(松岡センター長)という。

新型コロナウイルスのサプライチェーン直撃が富岳の開発に影響

 じつは新型コロナウイルスの感染拡大も、富岳にとっては危機の1つだった。

 富岳は、石川県かほく市の富士通ITプロダクツにおいて、2019年3月からCPUモジュールの生産が開始され、その後本体の生産を開始。2019年12月から出荷が開始された。

 だが、その後、新型コロナウイルスの感染拡大によって、サプライチェーンに課題が生まれそうな事態に陥ったのだ。

 「一時は、部品調達や、本体の出荷が途切れるかもしれないと考えた」と、富士通の新庄理事は語る。

 じつは、京の生産も富士通ITプロダクツで行ない、2010年9月末から出荷。2011年3月の東日本大震災によって、一部のサプライヤーが被災し、出荷が1カ月程度途切れたことがあった。

 「なんとか出荷をつなぎたいと考え、経路を含めたサプライチェーンの見直しや、サプライヤーとの作業分担の見直しによる納期のリカバリ、製造や組み立て順序の見直しにより、欠品の影響を最小限にし、代替品の国内製造なども検討した」という。

 こうした取り組みの結果、「途中で止まりそうになったが、なんとかつなぐことができた」という。

 また、本体の設置や調整に関しては、リモート作業を大前提として、現地作業を最低限にしたほか、作業者の居室やトイレを分離したり、動線も分けたりしてリスクを低減。作業者の検温記録や手指の消毒、マスク装着などのルールを徹底したという。

 さらに、作業者は2班以上に分け、バックアップを可能とする体制を敷き、消毒などの範囲や手順も、事前にシミュレーションしてから実施したという。

 こうした取り組みの結果、「感染なし、遅延なしで、計画どおりの製造、搬入が完了した」(富士通の新庄理事)という。

 そして、今回の4部門の世界トップとなったベンチマークの測定においても、理研および富士通のベンチマークプログラム最適化チームと、富士通の事業部、SE、CE部隊、理研施設オペレーションチームが、リモートによる緊密な連携によって、実施できる環境を構築したという。

新型コロナウイルス研究のために1年前倒しで稼働

 富岳の共用利用は、2021年度から開始される予定だが、すでに一部での利用が開始されている。それが新型コロナウイルスへの対策だ。まさに、1年前倒しして運用を開始した格好とも言える。

 理研は、文部科学省と連携して、本体の設置がすべて完了していない2020年4月から、新型コロナウイルスの対策に貢献する研究開発に対して、富岳の整備に支障がない範囲で、優先して計算資源を供出。同時に技術サポートも行なっている。

 まずは、全体の6分の1の計算リソースを使って、先行的に利用できるようにし、その後、リソースが増やせるところは増やして、アプリケーションなどを利用できるようにしているという。

 ここでは、創薬支援やウイルス解析などに利用する「医学的側面からの研究」と、電車内や室内、レストラン内での飛沫拡散のシミュレーションに使用するなど、感染拡大防止のための「社会的側面からの研究」に取り組んでいる。

 具体的には、分子動力学計算により、約2千種類の既存医薬品から新型コロナウイルスのたんぱく質に高い親和性を示す治療薬を探索、同定したり、新型コロナウイルス表面のたんぱく質の動的構造予測やフラグメント分子軌道計算といった利用のほか、室内での新型コロナウイルスの特性を考慮した飛沫の飛散シミュレーションにより、感染リスク低減につなげたり、今後生じる経済活動への影響を評価し、収束シナリオとその実現方法を探るとともに、ウイルスの変異などにより、感染、発病の経過が変化した場合に起こる事象への対応を立案するといったことにも活用されている。

 松岡センター長は、「富岳は、科学面での貢献のみならず、人々が安全、安心、快適に生活を送ることができるSociety 5.0の実現に役立てるために開発が行なわれており、新型コロナウイルスへの対応は、富岳の利用目的とマッチするものとなる。

 多くの国民が、その結果を享受できるものを実現することが富岳の狙いであり、その成果を、はじめて国民に届けることができる。新たな材料や、医薬品を富岳によって提供したい」と前置きし、「京に対して100倍の性能向上を果たしたことで、数週間かかった成果を数時間で導き出せたという例もある。ここにも、さまざまなアプリケーションを利用できるという富岳の特徴が発揮されている。

 大切なのは、こうした機会を損失しないで利用すること。待つことなく、機敏に利用し、それが国民の利便性につながることが大切である。新型コロナウイルス感染防止に向けて、今後も活用を増やしていきたい」とする。

 富岳では、成果創出プログラムという早期利用ユーザーに対する仕組みを用意しているが、現時点では、新型コロナウイルス対策を最優先度に位置づけ、これらのユーザーの利用を控えてもらっているという。

 「新型コロナウイルスに関して、さまざまな案件で、シミュレーションの利用の提案や相談がある。そこに対して、計算資源を最優先で割り当てているが、シミュレーションは科学であり、科学者や技術者、外部のデータも必要である。人的リソースやデータも同時に整備していかなくてはならない」としている。

富岳本来の性能を発揮させるためのチューニングはこれから
その次世代スパコンも視野に

 4部門で世界一となった富岳だが、先に触れたように、まだ100%の性能を発揮したわけではない。

 2位に2.99倍の差をつけた「Graph500」では、まだ約6割の計算リソースしか利用していない。

 石川プロジェクトリーダーは、「まだやらなくてはならないことがある。富士山で言えば、8合目にたどり着いたところ。ソフトウェアが一部完成していないところもあり、チューニングも必要。すべてのCPUを動かして、安定して稼働させたり、フル能力を稼働させたテストも行なわなくてはならない。月単位、週単位で能力を確認していくことになる。これから半年をかけて、システムのチューニングを行ない、同時に安定化を確保していく」と語る。

 プロジェクトチームにとっては、これからも重要な取り組みが残っているというわけだ。

 では、富岳の次のスパコンはどうなるのだろうか。

 まだ具体的な計画や予算措置が行なわれていない現段階では、富岳が社会課題の解決に、いかに貢献するかといった成果を生み出すことが、次につなげる上では、まずは重要なことになるだろう。

 松岡センター長は、「テクノロジがマーケットで成功し、広く普及し、さまざまな局面で利用され、富岳のテクノロジが普及することが前提になる」としながら、「国費を使って作り上げるスーパーコンピュータは、単にマシンを作るということだけで捉えられるのではなく、日本が、IT技術で世界と勝負していくことが大切であると認められることが、次世代につながると考えている」とする。

 また、商業的な成功も必要だ。

 産業利用が約100社にとどまった京は、商業的には成功したとは言えなかった。幅広いアプリケーションに対応した富岳では、この点でも成功させなくてはならない。

 富士通が、富岳の技術を活用して、超大規模システム向けスーパーコンピュータ「PRIMEHPC FX1000」や、スタンダード技術をベースとした「PRIMEHPC FX700」を商品化(PRIMEHPCシリーズの製品ページ)。Hewlett Packard(Cray)とのパートナーシップにより、富岳に搭載しているA64FXを同社に販売したことも、商業的利用の成功を後押しすることになる。

 一方で、技術進歩の面での課題解決も必要だ。

 「半導体の進化が難しくなっており、これ以上、線幅を小さくすると原子レベルになってしまう。富岳は京の100倍の性能向上を実現したが、富岳の次のマシンで同レベルの性能向上が得られるのかどうかが、技術面における最大のチャレンジである。さまざまな手を使って、これを達成しようと研究開発を進めているのが現状である」(松岡センター長)とする。

 そして、次世代においても、あらゆる領域での課題解決に向けたものになるという富岳からの基本姿勢は変えないようだ。この姿勢の理解も次世代の実現には必要だ。

 「京や富岳は、国民に律すること、産業に律すること、科学に律することを目指してきた。こうした考え方を踏襲し、国民に幸福をもたらしたり、危機を救ったりするためにも、次世代マシンの開発は、やらなくてはならないことだと思っている。

 量子コンピュータのように狭い範囲にしか適用できないものではなく、広いコンピューティング、新しいコンピューティングに影響を与えるものでなくてはならない。そういう理解を得て、国民のサポートを取りつけていくことが大切である」と松岡センター長は語る。

 4冠によって裏づけられた高い性能だけにフォーカスするのではなく、富岳によって、どんな成果が日本の国民にもたらされたのかということに注視し、その成果を理解していくことが必要だ。

 技術の進化には継続が不可欠である。次世代につなげるためには、富岳の成果に期待するとともに、それを正しく評価していくことが国民に求められると言えまいか。