■水野みか子:ピアノと電子音響のための《醒める河で》 [2005/10/15] ●Windows Mediaストリーミング ●Real Player ストリーミング (16分41秒)
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J・S・バッハの時代、「クラヴィーア」という言葉は、チェンバロ、パイプオルガン、クラヴィコードなどの複数の鍵盤楽器群を総括的に表していました。同じ「クラヴィーア用」の作品でも、ある時はオルガンで、ある時はチェンバロで演奏されていたわけです。
ここでひとつ奇妙なことがあります。パイプオルガンをフォルティッシモで演奏(オルガノ・プレーノ)すると、現代のピアノに比べても鍵盤のタッチは相当重くなりますが、当時家庭でオルガン練習用の楽器とされたクラヴィコードはキーが極めて軽く、その感触もまったく異なっていました。いわばチャイコフスキーの協奏曲を、小さなおもちゃのピアノでさらっていたようなものです。
そんなので練習になったんでしょうか? あるいは、同じ譜面を弾くのに楽器によっていちいち弾き方や指使いを変えていたのでしょうか?
バッハの弟子筋が伝える歴史的鍵盤奏法――別称「バッハ・タッチ」――では、重い鍵盤でも軽い鍵盤でも、打鍵の方法は原理的に違いはありません。文献をよく読んでみると、どうやらバッハは早くも1720年代には、いわゆる近代的重力奏法を行っていたらしいのです(注)。
大バッハが幼い息子たちに鍵盤奏法の手ほどきをした際、最初の2か月は「ドレドレドー」しか弾かせなかった――しかも、いったん「ドレドレドー」を修得すれば、どんな難しい曲にも進むことができた――、と聞くとまるで眉唾ですが、確かにこの方法を用いると、奏者の腕や鍵盤の重さ、あるいは各指の「筋肉」の強弱に起因するタッチの不揃い(=指の「非」独立性)を、最小限に食い止められるように思います。以下、そのダイジェスト版をご紹介いたします。
* * * * * * * * * *
古今の大指揮者や大演奏家の動きを見ていると、いかにもラクそうに、体をリラックスして音を紡ぎ出しています。たとえ顔ではしかめっ面をしていても、その緊張は腕や指先には影響していないようです。彼らにとって指揮すること、歌うこと、楽器を弾くことは、呼吸することや歩くことのように、自然な体の調整運動の一環に過ぎないのでしょう。
してみると私たちも、「ピアノを弾く」という作業を過度に特別視せずに、日常生活の中で慣れ親しんでいる動きをできるだけナチュラルに打鍵行為へあてはめてゆく、というのもひとつのやり方かもしれません。ピアノを弾くための特別な筋肉なるものは存在しない。必要な筋肉は、既に私たちの手の中に備えられている。あとはどうやってそれに意識を通し、使いこなしていくかだけだ――との観点から、「歩く」ならびに「つかむ」という動きをキーワードに、この「バッハ・タッチ」を説明してみます。
* * * * * * * * * *
私たちは通常、「歩く」という動作には不自由していません。しかし生まれたばかりの頃は、もちろん歩くことはできませんでした。赤ん坊は最初、足首が定まらないけれども、あるとき筋肉に意識を通し、バランスを取って立ち上がり、前方へ歩き出すことを覚えます。
歩くとき、足先に伝えられた体全体の重みは、右足・左足へとなめらかかつ均等に交替してゆきます。またその際、「前へ向かう」という動きのために、いわば足先で地面を「引っ張って」(=柔らかく蹴って)いる状態なので、膝・脛の位置が不必要にピョコピョコと上がったりはしません。
ここで例えば、1音の幅が1メートル、奥行きが5メートルくらいの巨大な木製の鍵盤があるとしましょう。その表面に左足を静かに置き、少しずつ体重をかけてゆくと、鍵盤はシーソーのようにゆっくり下へ沈んでいき、最後はストンと底に足がつくでしょう。そのまま今度は、右足を隣の鍵盤の表面に静かに置いて、徐々に体重を移してゆきます。このとき、足の裏には常にこの巨大な鍵盤の重みが感じられるはずです。そして、この鍵盤の重さに応じて、足にかける体重をうまく調節していたに違いありません。
この幅1メートルの巨大な鍵盤を1センチに縮小し、足を手の指で置き換えれば、それはおおよそ「鍵盤の底まで届く深々としたタッチ」と呼ばれるものであり、また左足から右足へ徐々に体重を移していくモーションこそ、レガート・テクニックの基本といえます。
* * * * * * * * * *
「つかむ」という動作も、我々の日常生活では親しいものです。1メートル前方を飛んでいる蚊を、片手をサッとのばして瞬時に「つかむ」とき、我々の意識は手の甲の内側に集中しているので、肩・肘・手首に不必要な力が入ることはありません。(その点で、「にぎりしめる」とは少し感覚が違います。)効率よく蚊をとらえるためには狙いをさだめて、指は最小限に動かしたほうがよいでしょう。「つかむ」モーションを行う限りにおいては、いわゆる強い指(1・2・3)と弱い指(4・5)の差はほとんどありません。手をのばしてサッと蚊をつかみとる動きを、できるだけスローモーションで行ってみてください。肩・肘・手首の状態はリラックスしたままです。リモコンのスイッチを押すとロケット・パンチが飛んでいって、向こうのほうで蚊をつぶす、という感じです。手の甲だけが「仕事」をしています。
* * * * * * * * * *
この「歩く」と「つかむ」というモーションを念頭に、「バッハ・タッチ」による「ドレドレドー」練習法に入ります。フィットネスクラブなどで、ルームランナー(電動ウォーカー、トレッドミル)というトレーニングマシンを見かけますね。その「動く歩道」が、ピアノの「ド」と「レ」の鍵盤上でゆっくりと奥から手前に稼動中であり、そこを両手の人差し指(=左足と右足)でテクテクとウォーキングしている、とイメージしてみてください。
●指先から肩まではおおよそひとかたまりで、この両手人差し指による導入エクササイズの場合では肘だけが能動的に動く。ルームランナーに乗っかっている最中なので、左足(=左手人差し指)のあとに右足(=右手人差し指)をステップする際に、いつしか左足は体の後ろの位置(=鍵盤の端から手の内側)に流れてゆく。そしてその回転運動を保ったまま、ふたたびステップ(=打鍵)を行う。
●左足(=左手人差し指)と右足(=右手人差し指)が同時に地面を踏むことはなく、なめらかに交替してゆく。手全体はまるくして、おおよそ卵を持った形にする。卵の楕円球のふちを指が包んでいるので、親指の関節は外側に反れるのではなく、弧を描いている。手首は高すぎず低すぎず、横から見て腕・手の甲・指の付け根はほぼ一直線になる。
●肩・肘・手首はすべてリラックスしているので、左足・右足(=両手人差し指)の先端には体(=腕)の自然な重みが乗っかっている(=「上虚下実」)。このとき足先(=指先)の形がグニャッとくずれない程度に、神経に「意識」は通っている。
●両手の人差し指で「ドレドレドー」が上手く弾けるようになったら、その動きを右手の人差し指と中指で真似てみる。支点は肩から指の付け根に移り、また指の長さもそれぞれ異なってくるので、多少の調整が必要となる。ドレドレドーがやりにくければ、指を替えながらの同音連打(「ドドドドドー」)でもよい。
●以上の練習で、肩の力が抜けにくい場合は、最初は椅子に座らず、ピアノの横に立って行う。鍵盤を見ると力が入ってしまう場合は、天井を見ながらでもよい。あるいは椅子に座って、手首を最高に高くした「うらめしやあ」のポーズで、鍵盤をコチョコチョと指先でくすぐってみる、など。
●人差し指(=足)は下へ降りてゆく前に、一度持ち上げられ、その後の落下のための準備がされてなければならない。「落下」モーションを意識しすぎると、かえってどこかに力が入りがちである。重要なのはその「準備」運動であり(ジェットコースターと同様)、いったん準備さえしてしまったらあとは何も考えず、勝手に手が落ちてゆくにまかせるべきである。が、今あえてこの「準備」から「落下」の動きを、超スローモーションで観察してみる。ほど良い高さにスタンバイしてから、「あなたの指は(少しずつ)重くな~る~」とじわじわ自己催眠をかける。自分の指を「重い」と感じられたなら、それは力がヌケた証拠だ。指先が鍵盤に触れる際は、旅客機の着陸をイメージすると良い。ヘリコプターのように真上から真下へ降下するのではなく、向こう側からこちら側へ、斜めに鍵盤表面へ滑り込んでくる。一連の動きは止まることなく、しかし着地の瞬間には「あっ、いま地面に着いた!」ということが存分に意識される。
●両手の人差し指でエクササイズする時は、指先や肘の移動距離は大きくても構わない。人差し指と中指で「ドレドレドー」を弾く場合は、腰(=手の甲)は上下させず、腿(=指のつけ根)も上へはあがらず(~すなわち「ハイ・フィンガー」ではない)、はたから見ると、膝から下だけ(=指先だけ)がモショモショと動いている感じである。上半身(=手の甲から肘・腕)は不動だが、硬直はしていない。お箸を使うときの人差し指と中指のように指先に意識は集中していても、肩からの重みがその動きに参加していないわけではない。
* * * * * * * * * *
ドレドレドーはしょせんドレドレドーなので、やっぱり簡単、と思われるかもしれません。しかし、これが人差し指と中指ではなく、中指と薬指、あるいは薬指と小指だったらどうでしょうか?
チェンバロやクラヴィコードなどの古楽器では、しばしば装飾的トリルは3―2―3―2ではなく、4―3―4―3で行われます。(例えば「ミ↓ド」という音の動きが装飾された「ファミファミ・レド」という音型では、最もシンプルかつ美しい指使いは「4―3―4―3、2―1」なわけです。)
大バッハが「ドレドレドー」の基本トレーニングの次に息子達に与えたに違いない《インヴェンション》第1番の冒頭動機、ドレミファレミド・ソードーシードー・レの「シ」の装飾音「ドシドシ~」は、チェンバロでは通常4―3―4―3の指使いを使用します。第7小節第4拍も同様です。
この4―3―4―3によるトリルを、不用意に手の形を崩さず、ラクにすらっと美しい音で弾くことは、よほど各指の独立ができているピアノ上級者でも、なかなか簡単とはいえないでしょう。しかし、この指使いを頻用していないチェンバロ奏者はいませんし、当時の教則本でも強く勧められています。
ピアノのほうがチェンバロより鍵盤が重いとは言え、本質的に問題は同じです。薬指の付け根が脱力していて、肩からの重みが鍵盤の底へとなめらかに落下してゆけるのなら、難曲とされるショパンの作品10―1や2、あるいは作品25―6なども、相当弾きやすくなるのではないでしょうか。 なお私見では、作品10―1の各拍についているアクセント記号の「意味」は、指を寝かせずに立てて奏すること――すなわち、鍵盤に対する手首の角度が柔軟に変化し、人差し指と親指が伸縮自在であり(=親指を突っ張ったままにしない)、あたかも右手の各指が「5本の足」で競歩をしてゆくような動きを暗示しているのだと思います。
* * * * * * * * * *
人差し指と中指、中指と薬指、そしてその他のあらゆる2本の指の組み合わせでドレドレドーを訓練してゆくと、最終的には「10本の人差し指」で鍵盤を演奏している状態となるはずです。そしてこれこそが、バッハ・タッチの究極の姿といえます。両手の人差し指からトレーニングを始めるのは、各々の離鍵(アフタータッチ)を完全にコントロールできるからにほかなりません。両手の人差し指だとフワフワと柔らかく離鍵できていたものが、片手の2本指だとどうしても非独立的になり、互いの指の動きに影響されがちです。
「両手の人差し指」で楽にウォーキングできるようでしたら、「両手の親指」や「両手の小指」(オクターヴのドとドなどで)でも試してみてください。およそ手のトラブルというものは、ほとんどが不必要にリキんだ親指や小指から発生するものではないでしょうか。「ド」と「レ」の鍵盤のあたりに温泉があって、小指(=足)がゆっくりお湯につかってゆく。「あー、あったまる~」あるいは「あ~気持いい~」と言いながら、そのセリフを日本語で言うときのリラックスした体の状態を思い出してください(ウフフと笑ってみるも良し)。リラックスしたからといって、タコのようにぐにゃぐにゃになってはいけません。手の中にエネルギーの火球があって、それに乗っかっているイメージです。鍵盤に触れるやいなや小指が突っ張ってしまうのなら、とりあえず鍵盤の上に「置きに行く」ところから始めましょう。
指の第1関節がどうしてもヘッ込んでしまう場合は、指先で鍵盤を手前に小さくクッと引っ張る動きを付け加えてみると、形が崩れにくくなります。この指先で小さく引っ張る動きは、肩からの重みを支えるのに役立つだけではなく、カンタービレな音色にも直結します。指の形を整えるための一プロセスとして、硬めのプラスチック絆創膏で第1関節を固定してみるのもよいでしょう。
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チェンバロやオルガンなどの歴史的鍵盤楽器で、離鍵(アフタータッチ)のコントロールに猛烈にこだわるのには、音楽表現上の理由があります。ふたつの音のすきまは、ピアノではたかだかオーヴァーレガート>レガート>ノン・レガート>ポルタート>スタッカート>スタッカーティッシモくらいの区別しか付けませんが、チェンバロ演奏では「レガート>ノン・レガート>ポルタート」の間で、その数倍は繊細な弾き分けを要求されます。
これは、ピアノのようにあからさまな音量差とダンパーペダルによる効果をチェンバロが持たないからです。ふたつの音のすきまが同じであったとしても、ふんわり柔らかく離鍵するか、あるいはサクッと素早く次の音に移るかで、チェンバロやオルガンの「音色」はガラリと変わってきます。
ピアノによるバッハ演奏というと、ベタベタのレガートかグールドのようなポツポツのスタッカートか、あるいはダンパーペダルを踏むか踏まないか、といった二項対立で捉えられがちですが、現今の古楽(ピリオド)奏法では、もっとグラデーション豊かな打鍵/離鍵による表現法が確立されています。これを活用しない手はありません。
現代のオーケストラの弦楽セクションに向かって古楽を少しかじった指揮者が、「バロック・オケみたいに、ノン・ヴィブラートで行きまへん?」と頼んでみても、当惑されるだけです。なぜなら、バロック・ヴァイオリン演奏ではメッサ・ディ・ヴォーチェ(なかぶくらみ)をはじめとする極めて多彩なボーイングのテクニックによって十全な音楽表現を行っているからであり、表層的なノン・ヴィブラートという現象だけを模倣するのはナンセンスだからです。チェンバロやオルガンでは逆に、音量差による表現をメインにすることなく、微細なアーティキュレーションとアゴーギクの差異によるあの手この手が用いられます。
* * * * * * * * * *
なおチェンバロの発音原理は、弦をハンマーで鐘のように叩くピアノとは異なり、弦を鳥の羽でピーンとはじく、というものです。はじく直前に、前もって弦をたわませておく(スタンバイ)しておくことが、よい音色の基本条件となります。「弾く前に既にその音を準備」というのは、ピアノ奏法でもしばしば叫ばれていますが、それが露骨に音色に直結する、という点ではチェンバロの比ではありません。
一方クラヴィコードでは、マイナスドライバーの先のようなもので弦を直接突き上げて音を出します。適切な初速でストンと打鍵しないと弦がうまく振動してくれずピシッというノイズになりがちであり、また行き着いた鍵盤の底でもただちに不動保持を保たなければ音程・音量が揺れ動いてしまう、という演奏至難な楽器です。
最も適切な打鍵の初速度と、そののちの鍵盤の底での不動保持、というのは、現代ピアノ奏法でもよく問題になる点ですが、クラヴィコードではこれらができていないと音さえ出ないわけです。羽毛のように軽い鍵盤であるのに、安定して演奏しようとすると最も強靭な筋肉が必要とされる、というのは興味深い点です。そんな難儀な楽器でも、いったん習熟すれば非常に繊細なニュアンスを表現でき、バッハが最も愛した楽器がクラヴィコードであった、という逸話も頷けます。
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先だって御紹介致しました、《ムジカノーヴァ》1月号寄稿原稿を以下に転載致します。問い合わせてみると、転載「解禁」時期というのは特に無いらしく、同社月刊誌連載で既に今月初旬(!)にウェブ上に公式アップロードされていたものもありました。当方は一応仁義は切って、同誌2月号の発売(20日)を待つことにした次第です。なお「アフタータッチ(離鍵)」という言葉は、ここでは鍵盤を離す時の「離し方」やそのタイミングを指しています。
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J・S・バッハの時代、「クラヴィーア」という言葉は、チェンバロ、パイプオルガン、クラヴィコードなどの複数の鍵盤楽器群を総括的に表していました。同じ「クラヴィーア用」の作品でも、ある時はオルガンで、ある時はチェンバロで演奏されていたわけです。
ここでひとつ奇妙なことがあります。パイプオルガンをフォルティッシモで演奏(オルガノ・プレーノ)すると、現代のピアノに比べても鍵盤のタッチは相当重くなりますが、当時家庭でオルガン練習用の楽器とされたクラヴィコードはキーが極めて軽く、その感触もまったく異なっていました。いわばチャイコフスキーの協奏曲を、小さなおもちゃのピアノでさらっていたようなものです。
そんなので練習になったんでしょうか? あるいは、同じ譜面を弾くのに楽器によっていちいち弾き方や指使いを変えていたのでしょうか?
バッハの弟子筋が伝える歴史的鍵盤奏法――別称「バッハ・タッチ」――では、重い鍵盤でも軽い鍵盤でも、打鍵の方法は原理的に違いはありません。文献をよく読んでみると、どうやらバッハは早くも1720年代には、いわゆる近代的重力奏法を行っていたらしいのです(注)。
大バッハが幼い息子たちに鍵盤奏法の手ほどきをした際、最初の2か月は「ドレドレドー」しか弾かせなかった――しかも、いったん「ドレドレドー」を修得すれば、どんな難しい曲にも進むことができた――、と聞くとまるで眉唾ですが、確かにこの方法を用いると、奏者の腕や鍵盤の重さ、あるいは各指の「筋肉」の強弱に起因するタッチの不揃い(=指の「非」独立性)を、最小限に食い止められるように思います。以下、そのダイジェスト版をご紹介いたします。
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古今の大指揮者や大演奏家の動きを見ていると、いかにもラクそうに、体をリラックスして音を紡ぎ出しています。たとえ顔ではしかめっ面をしていても、その緊張は腕や指先には影響していないようです。彼らにとって指揮すること、歌うこと、楽器を弾くことは、呼吸することや歩くことのように、自然な体の調整運動の一環に過ぎないのでしょう。
してみると私たちも、「ピアノを弾く」という作業を過度に特別視せずに、日常生活の中で慣れ親しんでいる動きをできるだけナチュラルに打鍵行為へあてはめてゆく、というのもひとつのやり方かもしれません。ピアノを弾くための特別な筋肉なるものは存在しない。必要な筋肉は、既に私たちの手の中に備えられている。あとはどうやってそれに意識を通し、使いこなしていくかだけだ――との観点から、「歩く」ならびに「つかむ」という動きをキーワードに、この「バッハ・タッチ」を説明してみます。
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私たちは通常、「歩く」という動作には不自由していません。しかし生まれたばかりの頃は、もちろん歩くことはできませんでした。赤ん坊は最初、足首が定まらないけれども、あるとき筋肉に意識を通し、バランスを取って立ち上がり、前方へ歩き出すことを覚えます。
歩くとき、足先に伝えられた体全体の重みは、右足・左足へとなめらかかつ均等に交替してゆきます。またその際、「前へ向かう」という動きのために、いわば足先で地面を「引っ張って」(=柔らかく蹴って)いる状態なので、膝・脛の位置が不必要にピョコピョコと上がったりはしません。
ここで例えば、1音の幅が1メートル、奥行きが5メートルくらいの巨大な木製の鍵盤があるとしましょう。その表面に左足を静かに置き、少しずつ体重をかけてゆくと、鍵盤はシーソーのようにゆっくり下へ沈んでいき、最後はストンと底に足がつくでしょう。そのまま今度は、右足を隣の鍵盤の表面に静かに置いて、徐々に体重を移してゆきます。このとき、足の裏には常にこの巨大な鍵盤の重みが感じられるはずです。そして、この鍵盤の重さに応じて、足にかける体重をうまく調節していたに違いありません。
この幅1メートルの巨大な鍵盤を1センチに縮小し、足を手の指で置き換えれば、それはおおよそ「鍵盤の底まで届く深々としたタッチ」と呼ばれるものであり、また左足から右足へ徐々に体重を移していくモーションこそ、レガート・テクニックの基本といえます。
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「つかむ」という動作も、我々の日常生活では親しいものです。1メートル前方を飛んでいる蚊を、片手をサッとのばして瞬時に「つかむ」とき、我々の意識は手の甲の内側に集中しているので、肩・肘・手首に不必要な力が入ることはありません。(その点で、「にぎりしめる」とは少し感覚が違います。)効率よく蚊をとらえるためには狙いをさだめて、指は最小限に動かしたほうがよいでしょう。「つかむ」モーションを行う限りにおいては、いわゆる強い指(1・2・3)と弱い指(4・5)の差はほとんどありません。手をのばしてサッと蚊をつかみとる動きを、できるだけスローモーションで行ってみてください。肩・肘・手首の状態はリラックスしたままです。リモコンのスイッチを押すとロケット・パンチが飛んでいって、向こうのほうで蚊をつぶす、という感じです。手の甲だけが「仕事」をしています。
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この「歩く」と「つかむ」というモーションを念頭に、「バッハ・タッチ」による「ドレドレドー」練習法に入ります。フィットネスクラブなどで、ルームランナー(電動ウォーカー、トレッドミル)というトレーニングマシンを見かけますね。その「動く歩道」が、ピアノの「ド」と「レ」の鍵盤上でゆっくりと奥から手前に稼動中であり、そこを両手の人差し指(=左足と右足)でテクテクとウォーキングしている、とイメージしてみてください。
●指先から肩まではおおよそひとかたまりで、この両手人差し指による導入エクササイズの場合では肘だけが能動的に動く。ルームランナーに乗っかっている最中なので、左足(=左手人差し指)のあとに右足(=右手人差し指)をステップする際に、いつしか左足は体の後ろの位置(=鍵盤の端から手の内側)に流れてゆく。そしてその回転運動を保ったまま、ふたたびステップ(=打鍵)を行う。
●左足(=左手人差し指)と右足(=右手人差し指)が同時に地面を踏むことはなく、なめらかに交替してゆく。手全体はまるくして、おおよそ卵を持った形にする。卵の楕円球のふちを指が包んでいるので、親指の関節は外側に反れるのではなく、弧を描いている。手首は高すぎず低すぎず、横から見て腕・手の甲・指の付け根はほぼ一直線になる。
●肩・肘・手首はすべてリラックスしているので、左足・右足(=両手人差し指)の先端には体(=腕)の自然な重みが乗っかっている(=「上虚下実」)。このとき足先(=指先)の形がグニャッとくずれない程度に、神経に「意識」は通っている。
●両手の人差し指で「ドレドレドー」が上手く弾けるようになったら、その動きを右手の人差し指と中指で真似てみる。支点は肩から指の付け根に移り、また指の長さもそれぞれ異なってくるので、多少の調整が必要となる。ドレドレドーがやりにくければ、指を替えながらの同音連打(「ドドドドドー」)でもよい。
●以上の練習で、肩の力が抜けにくい場合は、最初は椅子に座らず、ピアノの横に立って行う。鍵盤を見ると力が入ってしまう場合は、天井を見ながらでもよい。あるいは椅子に座って、手首を最高に高くした「うらめしやあ」のポーズで、鍵盤をコチョコチョと指先でくすぐってみる、など。
●人差し指(=足)は下へ降りてゆく前に、一度持ち上げられ、その後の落下のための準備がされてなければならない。「落下」モーションを意識しすぎると、かえってどこかに力が入りがちである。重要なのはその「準備」運動であり(ジェットコースターと同様)、いったん準備さえしてしまったらあとは何も考えず、勝手に手が落ちてゆくにまかせるべきである。が、今あえてこの「準備」から「落下」の動きを、超スローモーションで観察してみる。ほど良い高さにスタンバイしてから、「あなたの指は(少しずつ)重くな~る~」とじわじわ自己催眠をかける。自分の指を「重い」と感じられたなら、それは力がヌケた証拠だ。指先が鍵盤に触れる際は、旅客機の着陸をイメージすると良い。ヘリコプターのように真上から真下へ降下するのではなく、向こう側からこちら側へ、斜めに鍵盤表面へ滑り込んでくる。一連の動きは止まることなく、しかし着地の瞬間には「あっ、いま地面に着いた!」ということが存分に意識される。
●両手の人差し指でエクササイズする時は、指先や肘の移動距離は大きくても構わない。人差し指と中指で「ドレドレドー」を弾く場合は、腰(=手の甲)は上下させず、腿(=指のつけ根)も上へはあがらず(~すなわち「ハイ・フィンガー」ではない)、はたから見ると、膝から下だけ(=指先だけ)がモショモショと動いている感じである。上半身(=手の甲から肘・腕)は不動だが、硬直はしていない。お箸を使うときの人差し指と中指のように指先に意識は集中していても、肩からの重みがその動きに参加していないわけではない。
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ドレドレドーはしょせんドレドレドーなので、やっぱり簡単、と思われるかもしれません。しかし、これが人差し指と中指ではなく、中指と薬指、あるいは薬指と小指だったらどうでしょうか?
チェンバロやクラヴィコードなどの古楽器では、しばしば装飾的トリルは3―2―3―2ではなく、4―3―4―3で行われます。(例えば「ミ↓ド」という音の動きが装飾された「ファミファミ・レド」という音型では、最もシンプルかつ美しい指使いは「4―3―4―3、2―1」なわけです。)
大バッハが「ドレドレドー」の基本トレーニングの次に息子達に与えたに違いない《インヴェンション》第1番の冒頭動機、ドレミファレミド・ソードーシードー・レの「シ」の装飾音「ドシドシ~」は、チェンバロでは通常4―3―4―3の指使いを使用します。第7小節第4拍も同様です。
この4―3―4―3によるトリルを、不用意に手の形を崩さず、ラクにすらっと美しい音で弾くことは、よほど各指の独立ができているピアノ上級者でも、なかなか簡単とはいえないでしょう。しかし、この指使いを頻用していないチェンバロ奏者はいませんし、当時の教則本でも強く勧められています。
ピアノのほうがチェンバロより鍵盤が重いとは言え、本質的に問題は同じです。薬指の付け根が脱力していて、肩からの重みが鍵盤の底へとなめらかに落下してゆけるのなら、難曲とされるショパンの作品10―1や2、あるいは作品25―6なども、相当弾きやすくなるのではないでしょうか。 なお私見では、作品10―1の各拍についているアクセント記号の「意味」は、指を寝かせずに立てて奏すること――すなわち、鍵盤に対する手首の角度が柔軟に変化し、人差し指と親指が伸縮自在であり(=親指を突っ張ったままにしない)、あたかも右手の各指が「5本の足」で競歩をしてゆくような動きを暗示しているのだと思います。
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人差し指と中指、中指と薬指、そしてその他のあらゆる2本の指の組み合わせでドレドレドーを訓練してゆくと、最終的には「10本の人差し指」で鍵盤を演奏している状態となるはずです。そしてこれこそが、バッハ・タッチの究極の姿といえます。両手の人差し指からトレーニングを始めるのは、各々の離鍵(アフタータッチ)を完全にコントロールできるからにほかなりません。両手の人差し指だとフワフワと柔らかく離鍵できていたものが、片手の2本指だとどうしても非独立的になり、互いの指の動きに影響されがちです。
「両手の人差し指」で楽にウォーキングできるようでしたら、「両手の親指」や「両手の小指」(オクターヴのドとドなどで)でも試してみてください。およそ手のトラブルというものは、ほとんどが不必要にリキんだ親指や小指から発生するものではないでしょうか。「ド」と「レ」の鍵盤のあたりに温泉があって、小指(=足)がゆっくりお湯につかってゆく。「あー、あったまる~」あるいは「あ~気持いい~」と言いながら、そのセリフを日本語で言うときのリラックスした体の状態を思い出してください(ウフフと笑ってみるも良し)。リラックスしたからといって、タコのようにぐにゃぐにゃになってはいけません。手の中にエネルギーの火球があって、それに乗っかっているイメージです。鍵盤に触れるやいなや小指が突っ張ってしまうのなら、とりあえず鍵盤の上に「置きに行く」ところから始めましょう。
指の第1関節がどうしてもヘッ込んでしまう場合は、指先で鍵盤を手前に小さくクッと引っ張る動きを付け加えてみると、形が崩れにくくなります。この指先で小さく引っ張る動きは、肩からの重みを支えるのに役立つだけではなく、カンタービレな音色にも直結します。指の形を整えるための一プロセスとして、硬めのプラスチック絆創膏で第1関節を固定してみるのもよいでしょう。
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チェンバロやオルガンなどの歴史的鍵盤楽器で、離鍵(アフタータッチ)のコントロールに猛烈にこだわるのには、音楽表現上の理由があります。ふたつの音のすきまは、ピアノではたかだかオーヴァーレガート>レガート>ノン・レガート>ポルタート>スタッカート>スタッカーティッシモくらいの区別しか付けませんが、チェンバロ演奏では「レガート>ノン・レガート>ポルタート」の間で、その数倍は繊細な弾き分けを要求されます。
これは、ピアノのようにあからさまな音量差とダンパーペダルによる効果をチェンバロが持たないからです。ふたつの音のすきまが同じであったとしても、ふんわり柔らかく離鍵するか、あるいはサクッと素早く次の音に移るかで、チェンバロやオルガンの「音色」はガラリと変わってきます。
ピアノによるバッハ演奏というと、ベタベタのレガートかグールドのようなポツポツのスタッカートか、あるいはダンパーペダルを踏むか踏まないか、といった二項対立で捉えられがちですが、現今の古楽(ピリオド)奏法では、もっとグラデーション豊かな打鍵/離鍵による表現法が確立されています。これを活用しない手はありません。
現代のオーケストラの弦楽セクションに向かって古楽を少しかじった指揮者が、「バロック・オケみたいに、ノン・ヴィブラートで行きまへん?」と頼んでみても、当惑されるだけです。なぜなら、バロック・ヴァイオリン演奏ではメッサ・ディ・ヴォーチェ(なかぶくらみ)をはじめとする極めて多彩なボーイングのテクニックによって十全な音楽表現を行っているからであり、表層的なノン・ヴィブラートという現象だけを模倣するのはナンセンスだからです。チェンバロやオルガンでは逆に、音量差による表現をメインにすることなく、微細なアーティキュレーションとアゴーギクの差異によるあの手この手が用いられます。
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なおチェンバロの発音原理は、弦をハンマーで鐘のように叩くピアノとは異なり、弦を鳥の羽でピーンとはじく、というものです。はじく直前に、前もって弦をたわませておく(スタンバイ)しておくことが、よい音色の基本条件となります。「弾く前に既にその音を準備」というのは、ピアノ奏法でもしばしば叫ばれていますが、それが露骨に音色に直結する、という点ではチェンバロの比ではありません。
一方クラヴィコードでは、マイナスドライバーの先のようなもので弦を直接突き上げて音を出します。適切な初速でストンと打鍵しないと弦がうまく振動してくれずピシッというノイズになりがちであり、また行き着いた鍵盤の底でもただちに不動保持を保たなければ音程・音量が揺れ動いてしまう、という演奏至難な楽器です。
最も適切な打鍵の初速度と、そののちの鍵盤の底での不動保持、というのは、現代ピアノ奏法でもよく問題になる点ですが、クラヴィコードではこれらができていないと音さえ出ないわけです。羽毛のように軽い鍵盤であるのに、安定して演奏しようとすると最も強靭な筋肉が必要とされる、というのは興味深い点です。そんな難儀な楽器でも、いったん習熟すれば非常に繊細なニュアンスを表現でき、バッハが最も愛した楽器がクラヴィコードであった、という逸話も頷けます。
(注)大バッハの長男・次男が回顧した教授法を、伝記作家フォルケルを通じてその弟子グリーペンケルルがまとめたもの。ショパン以前の「古い」奏法では「指だけ」で弾いていた、という説をよく見かけますが、少なくともクラヴィコードやチェンバロ、ことに近年良い状態で再製造されたヒストリカル・モデルの楽器で音色やタッチをコントロールしようとする際、肩からの自然な腕の重みを活用しないことはほぼ考えられません。