いい天気だった。
10月の秋晴れ、からりと乾いて涼しい季節、体を動かすにはうってつけだ。
この前映画を観た。
『暴力脱獄』という刑務所を舞台にした映画で、ポール・ニューマン演じる主人公が囚人のボスとケンカしたり、ゆで卵を50個食べたりして囚人たちのヒーローになっていく。そして所長と看守をあざ笑うかのように何度も脱獄を企て、失敗する。
映画のなかで印象に残っているのは、主人公が脱獄の罰として看守に穴掘りを命じられるシーンだ。穴を掘ると別の看守に埋め直せと言われ、埋め終わるとまた看守に穴を掘り直せと繰り返し言われ、主人公はとうとう精神が参ってしまう。
穴を掘って埋めるだけ。何かを掘り出すわけでもないし、何かを埋めるわけでもない。
そんな意義を見い出せない作業を実際にやるとどうなるのか気になった。
だから今回は穴を掘って埋めることにする。
穴掘りにおあつらえ向きの広い場所があったので、ここに穴を掘る。
昔田んぼとして使っていたところで、祖父に聞いたら「なんぼでも掘ってええ」とのことだったので遠慮なく掘る。
穴を掘る
使用する道具はくわとスコップだ。
くわは土を掘って土砂をかき寄せ、スコップは土を掘って土砂を外にかき出す役割を担う。使い込まれた錆色がどことなく頼もしく思える。
作業時間は正午から日没までとする。終わりを決めないと際限なく作業を続けてしまうからだ。日没になったら穴を埋める。
最初にくわを地面に突き立てたとき、背筋から首の後ろにかけてじんと痺れるような気持ちよさを感じた。
自分が立っているのと同じ地面にくわがずぶりと食い込み、なめらかな塊がケーキを切り出すように簡単にえぐり取れる。
気持ちよさを感じるのは、私が普段こういった作業を生業にしていないからだろう。つかの間のレジャー、今はそんな受け止め方をしている。
太陽はまだ高く、自分の影が前に伸びる。
スコップを握るのはいつぶりだろうか。いや、今までスコップを使ったことがあるか?
なかった。死んだ飼い犬を庭に埋めるときに使ったかなと思ったけど埋めたのは父親だった。私は見ていただけ。まして地元を離れてスコップを使う機会なんてない。
だから私はこのとき初めてスコップを握ったことになる。そう記憶している。覚えていることだけ。
作業から数十分が経過した。思ったより土を掘るのは難しく、人を殺して埋めるのだって大変だろう(そのときは自首してください)。
くわを土に振り下ろして柔らかくし、スコップで土砂を外にすくい上げる。淡々と繰り返す、ベクトルの違う上下運動に体が疲れてきた。自分が加えた力を自分で揺り戻す、肉体への跳ね返りがある。
力を込めて柄を握るので、摩擦で手の皮が剥がれてきた。
血は出ない。透明な浸出液がにじみ出てきて手をベタつかせる。じんじんと続く疼痛が作業のあいだずっと続いて苛立つ。
ケガをしたところをかばうように柄を握ると安定せず、握りが甘いぶん手首への衝撃が強くなる。だから痛くとも精いっぱい力を込めて握るしかない。ずっとパソコンとスマホばっかり触ってるとこんなに手の皮がもろくなるのかという発見があった。
土にはだんだんと砂利が混じりはじめ、手応えが変わってくる。パフェだったら果物やクリームの下の層、ジュレやクランブルが入った真ん中あたりである。甘いものが食べたくなってくる。
途中休憩を挟みつつ、2時間ほど作業してこれくらいの深さだ。もっとペースを上げなければいけない。土の色を見てみると黒い層と茶色い層のレイヤーに分かれている。
祖父いわく昔このあたりは川だったそうで、もしかしたら水が出てくるかもしれないとのこと。水が出てきたらうれしい。
作業を続けていたら祖父が様子を見に来た。
本当に穴を掘っていたので驚いたそうだ。何か野菜でも育てるのかと思っていたらしい。何もせずこのあと埋め直す、と伝えたら怪訝な顔をしていた。
「何でこんなことしよるんか」
そりゃそうだろう。東京から久しぶりに帰ってきた孫が自分の田んぼに一生懸命意味のない穴を掘っているのだから。
私を駆り立てるのは純粋な好奇心だ。自分がどうなってしまうのか知りたいからだ。それが祖父の納得のいく理由にはならないのは分かっているが、最後までやりおおすことに価値がある。
「どうせ穴を掘るならこのドラム缶を埋めてくれたらよかったのに」
ドラム缶のなかにもみ殻とサツマイモを入れて、春先に植え付けるための種芋を保存するらしい。祖父の言うことはもっともだ。それがいいだろう。大事な作物が冬を越すために必要な作業だ。
「この穴に埋めたらいいんじゃないか」
断った。
祖父が明らかに不審がっていて、心配させて申し訳ない気持ちになった。この作業は自分のなかで完結させなければいけなくて、誰かの目的のために行うと趣旨を外してしまう。私はただ穴を掘って埋める、自分が起こした行動にきちんと始末をつけたかった。
誰にも必要とされない穴を一生懸命掘っている。
汗を吸ったTシャツが肌に貼り付きうっとうしい。こうして何かに必死に打ち込んだのは久しぶりだ。受刑者が穴を掘っているときだって、最初の1回くらいはこうして熱くなった瞬間があったのではないか。そう思う。
汗を流して苦労して我慢して、働いて対価(金銭・称賛)を得ることは本質的に世の中の役に立つものである。しかし汗をかいて労働然としている私はひとつも世の中や誰かの役には立っておらず、そのことがたまらなく気持ちよくなる。
私はいま、誰にも望まれない作業をして、ひとつも何かの役に立っていない!
祖父はそんな私をずっと怪訝そうに見つめていた。
アクエリアスを買ってもらって、飲んだ。
休憩を取ったら作業を進める。
作業から3時間ほど経過し、15時の空はやや薄暗くなりはじめた。
くわとスコップで掘り進め、穴を少しだけ大きくした。だんだんと土が柔らかくなりはじめて最初に比べてかなり掘りやすくなってくる。
水分を多く含んでいるためか、スコップが重い。変化があるのはうれしくなる。手のひらはさらに皮がはがれてぐずぐずになってきた。
60cmほど掘り進めた。60cmはだいたい赤ちゃんの身長らしい。
穴に影が落ちている。自分が作った高低差だ。高低差を生み出している。メジャーで横幅を計ったが数値を忘れてしまった。これくらい広い。
自分の腰下くらいまでの深さで、穴に半分入った状態で作業を続ける。
腰をかがめて穴を掘り、ふと前を見るとかき出した土くれが積み上がって山になっている。
きれぎれの空の青と、細やかな土砂の茶色のコントラストがとてもきれいで、これは下から地面を見上げないと手に入らない景色だった。
これは穴を横から見た断層である。きれいに2層に分かれている。上がビターチョコレートで、下がチョコレートムースだろうか。穴を掘っていると不思議と食べ物のことを考えてしまう。
刑務所では作業からの解放、そして食事なので、食べ物がこの上ない娯楽であったことは疑いようがない。きっと受刑者も作業中に食べ物のことを頭のどこかで考えていたはず。私も夜に何を食べるかを考えていた。
だいぶ深くまで掘った。明らかに土が重くなってくる。四方を壁に囲まれて身動きが取りづらい。穴から外に出るのにも難儀するようになってくる。
だからハシゴを下ろした。昇降はしやすくなったが、スケールがどんどん大きくなっている気がする。このハシゴも祖父に言ったら快く貸してくれた。何に使うのかはもう訊かれなかった。
私の身長は178cmだが、ほぼお腹ほどの高さまで掘り進んだ。このままうずくまって、上から土をかけられたら生き埋めになって出てこれないだろう。
かなり深く掘ったので、スコップで土を外にかき出せない。手頃なバケツに土を詰めて外に持って上がることにした。作業が一気に大変になった。
おまけに土からは水がにじんでくる。靴を汚してべちゃべちゃになった。
祖父が昔ここは川だったと言っていたが、その片鱗が見えてきた。土も青みがかった灰色に変わり、藻が腐ったようなドブ臭さが立ち込めてくる。このまま掘り進めると本当に水が湧いてきそうだ。
メジャーで計ってみた。130cm。
掘りはじめたときは赤ちゃんの背丈だった穴が、小学4年生ほどの高さに成長した。人間の背丈で考えるとなんだか感慨深いが、ここに人間は介在しない。穴があるだけ。
掘れば掘るほど水が湧いてきて、作業がかなり辛くなってきた。重い土砂をスコップで持ち上げ、バケツに入れて外に出す。それを何度も繰り返していると、自分はなんでこんなことをしているんだろうと思う。しなくてもいいのに。
慣れない作業の一挙手一投足を楽しもうとしている間はまだ気分もいいが、単調な作業に飽きて楽しむ余裕がなくなると途端に動きも鈍くなる。
悪環境で意義が感じられない作業をずっと続けると気を病んでしまう。穴を掘ることで身を持ってわかった。
穴から外に出て空を見上げたらとっくに日が沈んで暗くなりはじめていた。
作業終了だ。
これを朝まで暗闇の中でやると完全におかしくなってしまうだろう。
周りにはかき出した土が積み上がってすごい量になっていた。穴のなかにこれだけの土が詰まっていたとは。成果として判断できるので不思議な達成感があった。
今度はこの土を穴の中に戻していく。
穴を埋める
穴を掘るのに5時間ほどかかったが、埋めるのには10分もかからない。
掘り出した土くれが苦労の過程を埋めていく。自分が生み出した穴に始末をつけていく。きっとドラム缶だって埋められたはずだ。
手際よく儀式的にやる。スコップを滑らせて穴に土を落とすだけなのでとても楽だ。自分の足跡や腰掛けた跡、水たまりもすべて土のなかだ。
思い出を密葬している、そんな感傷にひたれるだけまだ余裕があった。
土をすべて元に戻し、深さは跡形もなくなった。
あとは土をならして平らにするだけだ。あっけない。ここから土を掘り返せと言われたら力が抜けて倒れ込んでしまうだろう。
すべて終わった。地面は完全にというわけにはいかないが、つつがなく元通りだ。
穴を掘った時間も、埋めた時間も、成果としてはゼロになった。何も変化がなく無為な行為だ。
だけど自分が誰の役にも立たず、何も生み出さなかったことは役割や意味を求められ続ける毎日のなかで不思議と心地がよいものだった。
穴を掘って埋める行為は他人にとってはひたすら無益で、それは自分にとってもそうなのだけれど、たしかにそこには熱狂があった。無為であったが、そのささやかな熱狂は日々をだらだらと過ごす私にとっていい刺激になった。
だけどこれっきりでいい。2回、3回と繰り返すと気を病んでしまうだろう。
帰り道に彼岸花がきれいに咲いていた。
私はきょう、穴を掘った、そして埋めた。