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新しい時空間に 華麗にテレポーテーションしました 新規エッセイは 新しいアドレスこちらをお訪ねください NY金魚2 = Second Layered Kingyo http://nyckingyo2.exblog.jp/ この新しいアドレスをブックマークに NY金魚 Sand Mandala Teleport to NYC A - by NY金魚 33 x 48 cm (13 x 19 inches) Computer Inkjet print out + Hand drawing (gold, silver & pearl ink) on Water color paper すてきな旅はつづいていますか そしてすてきな部分だけでなく 過酷な現代の大海を 果敢に泳ぎつづけているあなたのインナーの勇気に いつも感動し 敬愛しています 地球星という亜光速艇のなかで あなたが瞑想し 美しく 力強く ご自分自身を磨いているメッセージが インターネットを通じて この地球の裏側にまで まさに亜光速のスピードでとどいています 核と戦争のすべてを この世界からなくそうとしているあなたのインナーとの より深いコミットメントを求めて 一枚の絵を描きました この地球星に生きるすべて 在るすべては 宇宙からテレポーテーションしてきた というインスピレーションが ひとつのアートワークを完結させました 思えば この長い長い文章のコラージュ ブログ「NY金魚」のなかで あなたといっしょに歩んだ旅のなかから ごく自然に生まれてきた絵だと思っています ながめているだけでみんなに幸運が舞い込んでくる気がするのです 幸運だとイマジンできることから 世界の平和がはじまるのだと思います 亜光速艇で朝食を摂るあなたに 曼陀羅がテレポーテーションされた NYCの宙空から この絵をとどけます 愛をこめて 金魚 with LOVE #
by nyckingyo
| 2012-06-30 02:36
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by nyckingyo
| 2012-06-29 07:04
現首相による原発再稼動宣言は、カナダ出身のジャーナリスト、ナオミ・クラインのいう「ショック・ドクトリン」の典型例である。クラインは「ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く」で新自由主義とグローバリズムを痛烈に批判した。ケインズ主義に反対して徹底した自由市場主義を主張したシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という理論を、クラインは「ショック・ドクトリン」と呼び、現代の最も危険な思想としている。 その本の出版以前に起こった、チリのクーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争、アジアの津波被害、ハリケーン・カトリーナ。それら災害を巧妙に利用した惨事活用型の資本主義の台頭・勃興が、世界中に増殖している。そのように現在の新自由主義の基盤が築かれ、市場開放がよりスムースになされてきた、と指摘する。暴力的な衝撃で世の中を変えたこれらの事件の対処法自体が、国家権力と大企業が行なう国民レベルの「ショック療法」とみることができる。 ナオミがドクトリンの説明をしたとき、「1%の富裕層は『すまないが他に選択肢はない。今は危機なのだ』という。」と語っているが、今回の日本政府の言いわけには、そのような謝罪すらもない。堂々と、再稼動こそが国民の安全を考えてやっているノダ、という開き直りがある。福島原発事故による放射能禍こそが、日本国の最大の危機なのに、その汎地球的災害を無視して、自分たちの危機=原発存続にトチ狂っている。かってこれほどひどいショック・ドクトリンが、過去の歴史に存在しえたろうか。あえてあげるなら瀬戸内寂聴師が脱原発ハンスト・デモで比較されたように、数百万の兵士に死を強要した(実際にはもっと多数が死んだ)さきの大戦がある。 喪黒福造、ではなかった現首相は、妖怪たちにこう言え、と言われたただの人形だが、その人形が「福島を襲ったような地震、津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っています」と断言したものだから、国民の全員が、アレエ??人形にこんなこと言われちゃうのか、と唖然とした。「もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認をされています」いったいだれが確認などしたのだろうか? そんな話はどんな御用学者からさえも聴いていない。 「もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました。そのため、最新の知見に基づく30項目の対策を新たな規制機関の下での法制化を先取りして、期限を区切って実施するよう、電力会社に求めています。」??? 「こうした意味では、実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で安全規制を見直していくこととなります。」 あぁ、またこの人形も歴代の人形と同じ、支離滅裂に突っ走る暴走人形であった。怒りを通りこして唖然とTV画面を見つめていた。飛騨のからくり人形の可愛げなどまったくないので、たとえることもおこがましいが、醜悪な小さな人形が「再稼動」を自動的に「決定」し、カタカタと原発が動いてしまうのを見るのは、なんともたえがたい。 小学校時代の夏休みは、毎年若狭湾の高浜という海水浴場に臨海学舎に行った。現在は大飯原発のすぐとなりの高浜原発がある海岸。天橋立にも近く、本当に美しい海で遠泳している風景が、数十年後のいまでも夢にでてくる。あの風光明媚な海岸たちが、いまや原発銀座と呼ばれ、そのほとんどが過去に何らかの事故を起こしているそうだ。原発が停止していても放射能汚染があると思うのだが、旧友に聞くといまだに関西大都市圏からの多数の海水浴客で賑わっているという。 小出裕章氏や広瀬隆氏の言説で、ほとんどの方がご存知のことなので、いまさらぼくが言うまでもないのだが、偏西風の風上である若狭湾のどこかの原発に事故が起これば、関西全域だけでなく、首都圏を含めた列島のほとんどが放射能で汚染される。福島第一原発事故の唯一の幸運は、風にのった放射能のほとんどが、太平洋に流れ飛んだこと。もし列島の西側の原発なら、被害は数百、数千倍ともいう。この地理的条件を認識しながら、日本を司る者たちが、活断層のすぐ近くの原発再稼動などと騒ぐのは、到底正気の沙汰とは思えない。原発でつくったデンキでクーラーを動かし、アタマを冷やさねばならぬのは、かれらや利権に蠢く者だけではないのか! 再稼動断固反対を叫ばれている脱原発の多数の同志に最大のエールを贈る。どうか大飯原発を、一瞬たりとも稼動させないでほしい。それでせっかく日本に与えられた脱原発国への大きな意味が、まったく変わってしまうことになるから。 昨年10月、ズコッティー広場がまだ健在のときの「オキュパイ運動」の拠点に、一人の賢者が顕れ、マイクの設置できない広場で、人間マクロフォンによるスピーチを行なった。 そのときの様子は、昨年秋のOWSの記事にくわしいが、かの女の言葉をあえていま重複させ、日本の原発再稼動を考えてみる。演説のなか「原発」ということばは現れないが、それら「危機ドクトリン」がまったくおなじ設定で成り立っていることに全員が気づく。 これこそが人間が人間に語る「ことば」というものである。それは人間マイクロフォンの人びとの声となって、世界の津津浦浦までとどいた。そしてこれからこそ、われわれ全員がそのことばたちを反芻して、聴いたことのない人びとに語りかける番であると信じている。 YouTube 計3部 つづきは下段。日本語訳はBeneVerba氏、感謝。書きだし:NY金魚 「ウオール街を占拠せよ」の皆さん、こんにちは。 あなたを愛してます。I love you。 私は今、数百人のあなたたちに、「私を愛してます」と大声で返してくるように、とは言いませんでしたね。(それでもみんなの愛していますという声はナオミに返ってきている。)これは明らかに人間マイクロフォンのボーナス機能です。他の人たちからあなたへと言われたことを、またあなたから他の人たちへくりかえし言ってください、ずっと大きな声で。 きのう、労働者のデモで講演者のひとりがこう言いました。「われわれはお互いを見つけたのだ」と。この感想は、今ここで形成されている空間の美しさを、まさに捉えています。大きく開かれた空間の美しさを。同様に、どの空間も収容することができないほど、大きなアイディアを。よりよい世界を望むすべての人びとに、大きく開かれた空間を。それらの人びとがお互いを見つけるための。私たちは大きなうれしさに包まれています。 私が知っていることがひとつあるとすれば、1%の富裕層は、危機を愛しているということです。なぜなら危機の間、人びとがパニックに陥り、恐怖し絶望し、何をすればいいのか誰も見当もつかない、その時こそが、かれらが企業優先政策のほしい物リスト「Wish List」(=原発再稼動 *註:金魚)を押し通す、理想的な時期なのです。さもなければ押し通せない企業優先政策のリストです。かれらは教育を民営化する、社会保障を狙い撃ちにする。そしてかれらは、わずかばかりの公共サービスを大幅に削減する。私たちのなかで最も脆い環境に置かれている人びとの役に立つものをです。そして「すまないが他に選択肢はない。今は危機なのだ」というのです。この経済危機の最中、これが世界中で起こっていることなのです。1%の富裕層は、残りの99%である私たちにかれらの法律を押しつけるのです。かれらの危機に乗じてです。 幸いにも、この戦略を防ぐたったひとつのものがあります。それはとても大きなものです。それは99%です。残りの99%がマディソンからマドリッドまで通りに繰り出し、「ノー、私たちはお前たちの危機に金を払うつもりはない」と言うことです。 そのスローガンは、2008年にイタリアではじまりました。それはギリシャとフランス、アイルランドへと飛び火していき、遂に故郷、危機が始まった場所へとたどり着きました。(写真左:ドイツでのデモ風景) 「彼らはなぜ抗議しているんだ?」。テレビでは当惑した識者たちが訊ねています。 その一方で世界の残りはこう訊ねているのです。「なんでそんなに時間がかかったんだ?」。「いつになったら現れるのかと思っていたよ」。そして何よりこう言っているのです。「ようこそ」と。 Read More つづきを読む #
by nyckingyo
| 2012-06-14 06:39
| 炉心溶融した資本主義
火星年代記 1999年1月* ロケットの夏 ひとときはオハイオ州の冬だった。ドアは閉ざされ窓には錠がおり、窓ガラスは霜に曇り、どの屋根もつららに縁どられ、斜面でスキーをする子供たちや、毛布にくるまって大きな黒い熊のように凍った街を行き来する主婦たち。 それから、暖かさの大波が田舎町を横切った。熱い空気の大津波。まるで誰かがパン焼き窯の戸をあけっぱなしにしたようだった。別荘と灌木の茂みと子供たちの間で、熱気が脈を打った。つららは落ち、こなごなに砕け、溶けはじめた。ドアが勢いよくひらいた。窓が勢いよく押し上げられた。子供たちはウールの服をぬいだ。主婦たちは熊の仮装をぬぎすてた。雪が説け、去年の夏の古い緑の芝生があらわになった。 ロケットの夏。そのことばが、風通しのよくなった家に住む人々の口から口へ伝わった。ロケットの夏。あたたかい砂漠の空気が、窓ガラスの霜の模様を変化させ、芸術作品を消した。スキーや橇が俄に無用のものとなった。冷たい空から町に降りつづいた雪は、地面に触れる前に、熱い雨に変質した。 1999年2月 イラ その水晶の柱の家は、火星の空虚な海のほとりにあり、毎朝K夫人は、水晶の壁に実る果実をたべ、磁力砂で家の掃除をする。その様がよく見えた。磁力砂は埃をすっかり吸い取り、熱風に乗って吹き散ってしまうのである。午後になると、化石の海はあたたまり、ひっそりと静止し、庭の葡萄酒の木はかたくなに突っ立ち、遠くの小さな火星人の骨の町は閉ざされ、だれ一人戸外に出ようとする者はない。そんなときK氏は自分の部屋にとじこもり、金属製の本をひらいて、まるでハープでも弾くように、浮き出た象形文字を片手で撫でるのだった。指に撫でられると、本のなかから声が、優しい古代の声が語りはじめた。まだ海が赤い流れとなって岸をめぐり、古代の人々が無数の金属製の昆虫や電気蜘蛛をたずさえて戦いに出掛けた頃の物語を。(「火星年代記」冒頭部・レイ・ブラッドベリ 小笠原豊樹訳 ハヤカワ文庫) *1997年、ブラッドベリによる改訂版では「ロケットの夏」の年代が「2030年1月」になり、すべての年号が31年繰り上げられている。さて、あと18年で人類は火星の土を踏めるのだろうか。いずれにせよ、金魚の手元の古いハヤカワ文庫版は、1999年に人類の探査ロケットが火星についたという「年代記」の歴史的事実を変えようとしない。 K氏が手にした火星の古代の本は、優しい声で古代語を語りかける、宝石のように美しい「金属製」だったが、ブラッドベリ自身は今様の地球製金属とプラスティックスの本を極端に嫌った。2009年のNY タイムズのインタビューでは、eリーダーたちのことを「石油を燃やした匂いがする」とけなしていた。インターネットのことも「よくても、邪魔ものの部類」だと評していた。 翌年には「デジタル書籍化のオファーを受けたが『失せやがれ、Yahoo!もインターネットも地獄へ落ちてしまえ』と言ってやったよ。」という暴言を吐いている。 華氏451度になっても燃えないような本など作るな、というわけである。理想的にはブック・ピープルのようにそれぞれがお気に入りの一冊を木陰で暗記して、聴きたい人びとに語りつげばいい。 焚書坑儒にはもちろん反対だったろうが、それに抵抗する人びとを描いた「華氏451度」は、すべての反体制運動に参加する人びとにロマンの香りを与える役目の方が圧倒的に強い。 最晩年の昨年暮れには、時勢に負けて「華氏451度」のデジタル化を許諾したようだが、ぼく自身はそれらの電子書籍にはまったく興味がない。変色したペーパーバックと、ぼろぼろになったハヤカワ文庫版のみが、ブラッドベリの言葉であると信じている。i-padはツイッター更新のためときどき持ち歩いているが、地下鉄のなかであんなプラスチックと金属でできたものを出し、読書した気になっている人の気がしれない。 「火星年代記」は、短編小説の文体ではあるが、ほとんど詩集といっても過言ではない。良質の詩の魂による短編の集成だが、そのなかの一編を読むことで得られる、このこころの安定感はいったいなんだろう。臨済禅の瞑想を重ねた時間のあとのように、精神が落ちついてくる。その行き着いた場所は、あるいは実際の火星がある場所よりもはるか彼方の宇宙空間かもしれない。その時空を現代SF風に修正し、何千光年離れた恒星を舞台にした方が夢が広がると考えるのは早計である。そこが隣人の住む火星であり、かっての火星人の古代文明が(地球とはまったくちがうかたちで)具体的にイマジンできる場所=隣の惑星であることに、いっそうこころが安定するわけだ。 そこは、文明が地球とはちがうかたちで動いた星。あるいはかっては「核」も「原発」もあったのかもしれないが、少なくともこの「年代記」には書かれていない。そういうおかしな匂いのするものは淘汰され、純粋に結晶化した火星人の文明が残っている。 かってコロンブスの部下たちが、この大陸に押し寄せ、ネイティヴ・アメリカンの文明を滅ぼしたように、地球からの数次の探査隊が火星を荒らしまくる。荒らすという意識は地球人側には毛頭なく、あまりにもかけ離れた異人種同士のディスコミュニケーションとして描かれる。しかしアメリカ人であるブラッドベリには、自らの民族がこの大陸で犯してきた残虐性に、深く傷ついているそぶりがありありと顕れている。以前の記事にも書いたが、火星人がネイティヴ・アメリカン、地球からの移民が侵略してきたヨーロッパ人というたとえを、初読のときに直感的に理解した。火星人は、地球人がもってきた水疱瘡菌で絶滅してしまうのだが、絶滅したあとの方がより深く火星人の「年代記」はつづく。実は火星人の魂たちはそこに存在しつづけているという、珠玉のファンタジー。 こうしていても、更にさまざまなメタファーが頭の中に溢れて、もうひとつのサブジェクトにくっつけたい衝動に駆られる。このブログにもブラッドベリをネタにしてずいぶん書いてしまったが、かれの魂とはひとつの矛先=Spiritual Poetry(詩的魂)につきる。ゆえにかれの小説たちは、脱原発運動の啓蒙書にもなれば、オキュパイ運動のバイブルにも、簡単になってしまうのだ。 いまこの時点でもう一度「火星年代記」か「華氏451度」のメタファーを使ってエッセイを書こうとすれば、日本があの大地震などより根底的に大揺れするほどの政治の大悪業「原発再稼動」のことをいくらでも書くことができる。「霊・ブラッドベリ」のご加護のもと、再挑戦してみようか。 「SFはすばらしい威力をもったハンマーだ。ぼくは、もし必要ある場合には、人を一人にしておけないおせっかいな連中の頭をコツンとやり、向う脛をかっぱらうために使おうと思っている。」これは初期の「火星年代記」のまえがきに出てくるかれの言葉だが、後年のブラッドベリは、こうも言っていた。 「SFは一冊(華氏451度)しか書いたことがない。他はすべてファンタジーだ。ファンタジーとはありえないことで、SFは現実になる可能性がある。」 それでも、そのありえない物語であるかれのファンタジーが、これからもこの現実世界をはげしく変革しつづけることを信じているのは、ぼくひとりではあるまい。 NY金魚=ブラッドベリ・ポートフォリオ ブラッドベリの物語に触発されて書いたこのブログのエッセイが、結構な数になりました。 各エッセイに飛ぶには、下線のついた緑文字のタイトルをクリックしてください。 華氏451度(1) ワイドTV劇場型政治・メディア論(2009年7月) 華氏451度(2) メディア論=マイケル・ジャクソン(2009年7月) 火星年代記 孤独 ネイティヴ・アメリカン(2009年7月) 短編・太陽の黄金の林檎 核・原発(2011年5月) 短編・発電所 原発・デンキ(2011年8月) 短編・何かが道をやってくる 民主代表選(2010年9月) この記事を書いてから2ヵ月後のことし8月、火星探査車キュリオシティが火星に着陸した。かつて川が流れていたことを示す有力な証拠を発見。NASAは8月22日のブラッドベリの誕生日に、キュリオシティの着陸地点を、今年亡くなったブラッドベリにちなみ「ブラッドベリ・ランディング」と名づけたと発表した。 #
by nyckingyo
| 2012-06-10 11:58
| 物語を遠くからつむぐ&あやなす
闇箱のなか、集合無意識は開花するよりつづく とある小さな国に、ゾーン Zone と呼ばれるひどく荒れた広大な土地があった。 宇宙空間から隕石が落下したのか? それとも宇宙人の来訪のしるしなのか? そこで何が起ったのかわからない。そこには発電所があったのだ、という噂が一番大きなものだったが、なぜそれが発電を停めたのかはだれも知らない。そこへはかって軍隊も派遣されたことがあるが、兵士はだれひとり帰って来なかったという。やがてゾーンには鉄条網が張られ、警備隊が侵入する者を拒んでいた。 そのゾーンの中心には、そこにたどり着いた人間の望みをなんでもかなえる「部屋」があるという言い伝えがあった。ゆえに禁を犯してそのゾーンの中心に侵入しようとする者たちはあとを絶たなかった。 ソ連の鬼才・タルコフスキーがチェルノブイリ原発事故の6年もまえの1979年、その預言の書のように創った映画「ストーカー」について、あえてこの時期に書く必然を感じた。(ストーカー Stalker は厳密には「狩猟管理人」あるいは「密猟案内人」と訳されるべきだが、映画のイメージから、より明快な熟語である「密猟者」と意訳してみた。)もともとこの草稿は、3-11よりずいぶん以前の2010年元旦にスタートした、シリーズ・エッセイ「ソラリスの海に泳ぐイカ」の一部として書きはじめたものだ。津波による福島の原発事故が起こったとき、いままで、タルコフスキー映画のなかでこの「発電所跡」の映画と、核戦争の恐怖をテーマにした遺作「サクリファイス」だけについてなぜか何も書いていないことに、妙な符合を感じてしまった。 福島の住民が避難をはじめて2ヵ月あまりの時点で、原発に近い街から順にゴースト・タウンとなって行く風景を見て、ネットの中で社会学者のひとりが、このタルコフスキーの映画のなかのゾーンのうす気味悪さと「そっくりである」と言及したことを、ありありと憶えている。 この映画「ストーカー」のあとのチェルノブイリ事故、そしてその四半世紀あとに起きた福島第一原発事故という時制の流れが、なぜか頭の中であいまいになり、三つのストーリーが渾然一体となって「ゾーン」という言葉だけが重くのしかかる。三つはお互いにそっくりであるゆえに、それらのイメージがアタマの中で撹拌されるのだ。これは現代の日本人ならば誰でもがかかるであろう分裂のきざしである。ゾーンとなりはてたふるさとから引きちぎられた人びとの哀しみは想いに余る。また同じエリア=ゾーンに残った者にも、より大きな不安が襲う、という矛盾がある。それは自然の所作ではなく「特定できる人間」たちの仕業なのだが、今後その加害者たち(モモが時間の国で逢ったマイスター・ホラが語るように、かれら=灰色の男たちはもともと人間などではない、と確信しているのだが)が罰せられることはないだろう。それどころか、その加害者たちとその仲間は、自分たちの起こした一大地球汚染を、さらに拡げる動きに終始しているように思えてならない。いまだに線など引けない福島の広大な「ゾーン」と、そこに住んでいた人びとの心の中に広がるネガティヴ・ゾーンに限りない相似形を想像する。 この映画の公開6年後に、当時のソ連邦・チェルノブイリ原発が大惨事を引き起こしたあと、この映画で語られたことはもはや預言でもSF映画でもなくなり、「ゾーン」という言葉は具体的な地域名とkm²という面積単位で呼ばれるようになった。つい最近2012年5月にウクライナ政府は、 原発周辺半径30km圏の1000km²(東京23区のおよそ1.6倍)を永遠に立ち入り制限地区にしたという。事故後25年にして「ゾーン」の面積はやっと明快な数値となった。だがその形状はまだ不安定で、将来ゾーンが除染され、縮小される可能性は限りなく遠い。 ドキュメンタリー映画「チェルノブイリ・ハート」では、四半世紀後の現在、隣国ベラルーシで生まれて来る子どもの85%以上が未知の心臓疾患や放射線障害を持つ、とマリアン・デレオ監督は訴えている。正視に耐えないほどの院内の子どもたちの惨状はいったいいつまで続くのだろう。マンハッタンで日本語字幕版が紹介されたとき、われわれ日本人/日系人のあまりの狼狽ぶりに、監督マリアンが「福島の状況はベラルーシとはちがう、日本人はもっときちんとできる。」と慰めるような言葉を吐かれたことが、かえって大惨事の印象を深めることとなった。その後の日本国の対応を見れば、かの女の予測は見事に裏切られている。 もう少し踏み込めば、事故後一年余の福島のゾーンとは、マリアンの言葉とはうらはらに、優柔不断な国の態度を反映して、いまだに現実感が希薄なSFの世界をさまよっている感がある。放射能禍の正確な情報も、除染の方法もわからない市民の叫びを無視しつづけ「大したことはない」と言いつづける政府。チェルノブイリに比べて、極端な人口密集地域という条件が、混乱を最大限に増幅している。太平洋を越えて、その列島の現状を観つめ、誠になさけない限りである。あるいは瀬戸内寂聴師が原発再稼動阻止のハンスト・デモのさなかに叫ばれたように、あるいはあの父母たちの世代の醜悪な大戦争よりも恥ずかしい、国家というもののふるまいではないだろうか。原発事故は戦争よりもひどいという言説は後述する。 5月はじめに訪NYCされた小出裕章氏は、日本国と電力会社が、事故の責任をまったく取らないばかりか、放射能汚染を拡大する方向に舵を切っている現状を強く弾劾され、世界に向けて発信された。小出氏も「今回の福島原発事故はまさに戦争である」と言いつづけられている。 タルコフスキーの映画「ストーカー」の冒頭シーン。ゾーンに出発するため、歯を磨いている密猟者(ストーカー)に対して、その妻は語りはじめる。それはスクリーンのこちら側の、われわれ観客に直接向けられた呼びかけのようにも聴こえる。そのわれわれ観客とは、この映画ができてから三十年後の人類であり、すでにふたつかみっつの原発事故を経験したあとの世代である。タルコフスキーがこの映画を撮った時点では、単なる可能性の問題であった原発事故を捉えて、われわれの世代の全員を告発するような台詞が飛び出す。 ストーカーの妻はいう、「どうして私の時計を取り上げたの? どこに行くのって訊いているのよ! あんたの言葉を信じてきたわ。子どもたちのことを考えたことがあるの? あんたは私を年寄り女にしただけ! 私を破壊しただけだわ!」 *以下、映画の台詞書き出しは、英語字幕版からの翻訳なので、日本語字幕版と相違があるかもしれません。金魚 そして密猟者(ストーカー)と呼ばれるかれは、妻が引きとめるのもきかず、またゾーンヘと出発する。待ちあわせのバーには二人の客がいた。「現代社会は法則づくめで退屈だ。ゾーンには、なにかインスピレーションを取り戻すものがあるんじゃないか」という作家。この映画が「チェルノブイリ以前」に撮られたことをくり返し思い出せば、作家の発言は原発事故以前のわれわれの意識と酷似しているともいえる。核兵器という人類最大の危険兵器が「常態の戦争」では使用できない、相手を脅すための「隠し球」となったとき、その隠し球に転用できる新しい「インスピレーション」を懸命にさぐり、その結果が「原子力平和利用」という名のもとに世界中に林立する陳腐な「人類の自爆装置」となった。 もうひとりは寡黙な物理学者の大学教授。かれがゾーンに行こうと思い立ったのは、作家よりもさらに複雑な事情があるように見受けられる。三人はゾーンの境界地帯にいる警備兵の銃火をかいくぐり、軌道車に乗ってゾーンへ侵入する。ゾーンはかっての文明の根幹・発電所跡のようなのだが、いまでは深い緑と汚泥に包まれた廃嘘である。そしてそこには、この土地の秘密を暴くべく派遣された軍隊の戦車の残骸や、人間の骸が雨露にさらされて転がっていた。それでも三人の乗ったトロッコがゾーンに近づくと、タルコフスキーが頻繁に使う手法—モノクロの画面が一瞬にフルカラーに転じ、画面は溢れんばかりの緑におおわれる。「とうとうホームにたどり着いた!」と密猟者。作家は「なんと静かなんだ、ここは世界一静かな場所だ。君は君自身を観ることができる。なんと美しいんだ、ここにいるのはひとつの魂だけではない」と感激さえしている風情である。 Read More つづきを読む #
by nyckingyo
| 2012-06-05 08:24
| ソラリスの海に泳ぐイカ
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