坑道の壁に身を寄せて、直角に近い曲がり角の向こうを窺うと、確かに何かが擦れ合うような高く乾いた音が、絶え間なく響いてくる。強弱や高低にムラのあるその音は一定のリズムではなく、生き物が起こしている音のように思えた。
『間違いないわ。この先に何かいる。でも、何がいるのかがはっきりしないの。各種センサーも軒並み不調なのよ。この変な音も、なんとかマイクで拾ってるだけで、解析までは至らない。一体どうしちゃったのかしら、アタシ』
「ソニアは疲れているのだ。無理をせずに私に任せろ。もう一度、奥の気配を探ってみる。先程も言ったが、私は目を瞑ると、ある程度は気配で辺りの様子が分かる。今ならば、相手がどのような魔物かぐらいは分かるはずだ」
ソニアに気遣う様子を見せながら、マーサは暗闇のなかで再び目を瞑る。だが、魔鏡の中で緑に染まる凜々しい表情は、一瞬後に険しいものとなり、その目は大きく開かれた。
「これは……、かなりまずい状況かも知れん」
「まずいって、何が?」
「角の向こうにいるのは、確かに魔物だ。それも、尋常ではない魔力を纏っているようだ」
『尋常でない魔力って、一体何なんですか? そもそも自分には、魔素や魔力が感知できないから分かりようがありませんが』
だが、マーサは何も答えないまま僕の腕を掴み、その場から二十歩ほど後ろへ僕を引き戻した。
「ちょっと、マーサ! だから何が――」
「あれは私が今まで見てきた中で、一番魔力が高い魔物だ。それも桁違いにな」
「桁違いに魔力が高い?」
「ああ。我らイフィーは、闇怨地帯でよく魔物を狩る。成人の儀式では、その中でも最悪級の魔物を相手にする。だから私も、これまでに多くの恐ろしい魔物を見てきた。だがな、向こうにいる魔物は桁違いだ。これほどの魔物が存在することに、正直驚きを禁じ得ない」
「そんな――」
「むろん、魔力の高さが、個体としての強さの全てではない。魔力が高くとも狩りやすい魔物もいれば、低いように見えて油断のならない魔物もいる。だが、初めて見る魔物を判断するには、やはり魔力を参考にせざるを得ない。そして、その観点から見ると、すぐそこにいる魔物は、異常なほどに強い魔物だと考えて良いだろう」
マーサの言葉は、僕を絶望の淵に追い詰める。そんなにも恐ろしい魔物がいるというのか? この角のすぐ向こうに。そんな魔物がいるのなら、ポグラン達が無事でいるわけがないじゃないか。マーセルの魔法障壁が消えたのは、魔物によって彼の身に何かあったからなのではないのか。
「ソニア――」
『さっき、要救助者をサーチしてみたけど、今のところ、アンタと中佐以外に生きている人間はどこにも見つからないわ』
「――」
『あくまでも今のところよ。きっと大丈夫! 今のアタシは調子が悪いから! ハートビートセンサーも妙な数値を示しているし、単にアンタの知り合いを見逃しているだけよ。どこかで身を隠しているはずだって』
ソニアは僕に気を使った物言いをする。そして、僕もそうであって欲しいと願う。しかしそれは、ソニアの体調不良を意味する。彼女の不調は、この先の魔物との戦闘で不利に働くだろう。いや。それよりも、僕の大切な相棒の調子が悪いという心配事が、僕の心を侵していく。
そんな僕の思いを無視するかのように、曲がり角の向こうからは、ひしひしと魔物の気配が伝わってくる。おそらく魔物にも、僕達がここにいることは伝わっていることだろう。しかし、相手に動きは全く感じられない。
「ソニア、どうすればいいと思う?」
『正直、アタシは強い魔力と言われてもピンとこないわ。でも、中佐の話を聞く限り、このまま一時撤退するのが得策だと思う。不確定要素が多すぎるもの。襲ってくる様子のない今なら尚更よ。そして安全を確保してから、あらためて対策を練ればいい。勝利が確実じゃない戦いは、するべきじゃないわ』
「…………」
さすがに今回は、ソニアの言うことに反論できなかった。ポグラン達を見捨てることなんてできないのは当然だ。だが、マーサでさえ懸念を抱くこの状況においては、一旦、先ほどの魔法障壁の痕跡が残っていた辺りまで戻って、作戦を練り直すのがいいかもしれない。場合によっては宿に戻って、アイテムトランクから全ての戦闘資材を持ってくるのもありだろう。まあ、よく考えると、もとから作戦らしい作戦など無かった。僕の頭にあったのは、ただ突撃して魔物を倒すことだけだったのだから。
「わかった。敵の魔力が相当だということが判明しただけでも良しとして、とりあえずは少し戻って攻略方法を検討しよう。でもその前に、敵の情報を仕入れておくべきだと思う。さすがに顔を覗かせて直接見るのは危なそうだから、銃の魔道具を使いたいんだけど、どう思う? ソニア」
『そうね。対策を立てるにしても情報は多い方がいいわ。アンタが言うように、小銃の光学装置だけで、こっそり様子を窺えば、何かいい手が見つかるかも知れないわね。やるじゃない、ノエル。さすが、アタシの指導の賜物ね』
ソニアの褒め言葉を受けながら、僕は再び曲がり角に近づく。何故かマーサもすぐ後ろに付いてくる。そんなに僕が心配なのだろうか。それとも暗闇に一人でいることが怖いのだろうか。まあ、いずれにしても、側に仲間がいるということは、とても心強かった。
再び、曲がり角の岩肌に左半身を押しつけて息を潜ませる。そして、ゆっくり右手を押し出して角の向こうに銃を差し入れ、その先に続く坑道奥へ銃口を向けると、小銃に備わる「光学装置」という魔道具を通して得られた光景を映すウィンドウが、目前に浮かんだ。
しかし、そのウィンドウには、地面の一部が緑色に浮かぶ以外に何も映っていない。まるで、そこに巨大な空間が開けているかのように、黒い闇がほとんどを占めていた。その闇をじっと見つめると、何者かがそこに潜んでいるようにも思えるが、はっきりと見ることは出来ない。しかし、何かを擦るような不気味な音は、途切れることなく、黒い空間から伝わってくる。比較的規則的な周期で聞こえるそれは、なんだか寝息に思えた。
「ところで、少し気になることがあるのだが」
『気になること? 一体なんですか』
「生還したグベルマ剣士から聞いた話によると、最初に魔物に襲われたのは、先頭を進んでいた者だったらしい。そして、その者の持っていた松明が消えたことから、辺りは闇に包まれ、魔物の姿を視認できなかったという。結果として、暗望魔法を使える者以外は戦いようがなかったそうだ」
『当然ではないですか。先頭を歩いていたから、真っ先に襲われた。そしてその人は、松明ごと跳ね飛ばされたんですよね。松明が消えちゃったら、暗視装置を持たない冒険者なんて、戦いようがないじゃありませんか』
「妙だとは思わないか? 火の点いた松明が、弾き飛ばされたくらいで、そんなにも簡単に消えるだろうか。坑道に入るまでは、落ちた松明が溜まった湧き水にでも浸かって火が消えたのかと思っていたのだが、ここに至るまでの様子を見ても、そんな水溜まりは無かったように思う。岩肌には僅かな水が滴ってはいるが、あの程度の水で炎が消えるわけがない」
『そう言われてみれば、確かに不可解ですね。いくら原始的な松明だとは言え、岩壁に叩きつけられたぐらいで消えるわけがないだろうし……。あ、そう言えば、ここまでの工事区間に落ちていた松明は、いずれも折れるか押し潰されているかしていましたね。てっきり、松明を武器に用いたのかと思っていましたが、もしかしたら――』
「察しがついたようだな。そうだ。魔物が火を踏み消した。私はそう考えている」
ソニアとマーサがひそひそと交わす会話が気にかかるが、今はそんなことはどうでもいい。早く魔物の正体を見極めねば。
「暗くて何も見えない。これじゃ、対策の立てようもないよ。もうちょっと明るくならないかな? ソニア」
『確かにこの暗さじゃ、何も分からないわね。この先の空間が思った以上に広いことと、魔物までの距離が少しあることで、光学装置の赤外線量じゃ不足みたい。そうね。フラッシュライトを「IR」に切り替えて点灯してみて。これなら強力な赤外線を投射できるわ』
ソニアはそう言うと、操作方法を教えてくれた。「IRライト」を使えば、角の向こうの様子がよく見えるらしい。おそらく魔物の様子も分かるはずだ。ソニアには情報収集のためだと言ったが、敵の姿が明らかになりさえすれば、すぐに安全装置を解除して、銃弾を叩き込んでやる。そうすれば、すぐに片がつくはずだ。いくら魔物であっても生物である以上、小銃弾で倒せないわけがない。マーサの様子とソニアの言葉を受けて一時撤退を決めた僕の心に、再び闘志が湧いてきた。何が撤退だ! この僕が、奴を仕留めてやる!
岩壁の向こうに差し入れていた小銃を、銃口の向きを変えないまま少しだけ引き戻し、銃身の左脇に備わるライトユニットに目を向ける。さて、ソニアはフラッシュライトの切り替えダイヤルを回せと言うが、どれがダイヤルってやつだ?
「あの魔物は、暗望魔法のような何らかの方法で、闇でも目が利くのかもしれん。そう考えると納得がいく。まずは松明の炎を消して人間の目を潰す。そして各個撃破する。それが、あの魔物の戦い方なのだろう」
『そんな魔法なんか使わなくても、夜目が利く生物は多く存在しますよ。コウモリは超音波を使いますし、蛇はピット器官を使って獲物が放つ赤外線を――。って、まさか!? ノエルッ、ちょっと待って! IRは――』
ようやく探し出したダイヤルを回して「IR」に切り替えた僕は、フラッシュライトの点灯スイッチを押した。
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tm
1,000pt 200pt 2021年4月16日 15時48分
暗い坑道でのジリジリした緊張が伝わってきました。物語での赤外線の使い方も上手い。ファンタジーなのですがパニック映画を見ているような臨場感があります。 いよいよ次回は……
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tm
2021年4月16日 15時48分
乃木重獏久
2021年4月17日 13時10分
いつも応援下さいまして、ありがとうございます。緊張感が伝わったようで、正直ホッとしております。赤外線カメラで撮影されたPOVパニックホラーをイメージしながら書いたので、いただいたお言葉がとても嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします。
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乃木重獏久
2021年4月17日 13時10分
うさみしん
1,000pt 100pt 2023年11月6日 0時31分
またもや坑道に潜った気にされ申した。この緊迫感、たまらんとです押忍。しかし状況は厳しいまま。拙者ならフラッシュバンを投げ込んで起爆後に掃射であります。しかし遭難者?の人らの無事とか位置がわからんのは厳しいです押忍。あとD&Dか何かでエルフがインフラビジョンを持ってるのを思い出し申
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うさみしん
2023年11月6日 0時31分
乃木重獏久
2023年11月6日 23時49分
いつも応援下さいまして、ありがとうございます。ノエルはM84も所持していますが、ソニアは使用を指示しなかったようです。たしかに、D&Dのエルフはインフラビジョンが使えましたね。この世界では良く似たものとして暗望魔法がありますが、カリーニャに使えるのかは今のところ不明です。
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乃木重獏久
2023年11月6日 23時49分
羽山一明
1,000pt 100pt 2022年1月27日 8時40分
なるほど。これで、怪我人を背負って逃げおおせることのできた理由と繋がりますね。情報を得るためとはいえ、異形を相手取るときには、人間の常識は棄てなければなりませんね。出現理由はなお奇怪ですが、海底の奥底に封じられていたところを、採掘にて呼び起こしてしまった、というベタな想像を。
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羽山一明
2022年1月27日 8時40分
乃木重獏久
2022年1月28日 0時11分
いつも応援下さいまして、ありがとうございます! さて、どうやらノエルはやらかしてしまったようですが、果たして敵の正体は何なのか……。この先もお楽しみいただけましたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
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乃木重獏久
2022年1月28日 0時11分
長月 鳥
500pt 50pt 2021年4月20日 22時27分
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長月 鳥
2021年4月20日 22時27分
乃木重獏久
2021年4月21日 23時23分
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乃木重獏久
2021年4月21日 23時23分
特攻君
50pt 10pt 2022年5月10日 16時16分
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特攻君
2022年5月10日 16時16分
乃木重獏久
2022年5月10日 22時32分
いつも応援下さいまして、ありがとうございます! 楽しんでいただけたようで、嬉しいです。引き続きお楽しみいただけましたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
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乃木重獏久
2022年5月10日 22時32分
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