中国「NEEDY GIRL OVERDOSE」の熱狂的ブームと堕天使信仰
日本ではあまり知られていないゲームが、なぜ中国でここまで流行っているのか?
ゲーム「NEEDY GIRL OVERDOSE」のヒロイン超てんちゃんを「堕天使信仰」する中国の若者たち。このブームの陰には、努力が報われず、正解のない社会の姿が見えてきます。
この記事では、中国Z世代の投稿を紹介しながら、彼らがこのゲームに「自分」を見出す理由を読み解きます。*一部にゲームのネタバレを含みます
超てんちゃんとは
超てんちゃんは「超絶最かわてんしちゃん」の略称で、「NEEDY GIRL OVERDOSE」というゲームに出てくるキャラです。

どちらかというと日本ではあまり有名ではないゲームタイトルですが、このゲームは中国若者世代のあいだで爆発的にヒットしており、その背後に超てんちゃんに対する猛烈な中国Z世代の想いがあります。
流行はコスプレで分かる
以前の記事で書いたように、中国で街を歩くコスプレイヤーは当たり前の存在になっています。
そして、そのコスプレを見ることで流行を把握することができます。そのなかには「ハイキュー!!」や「フリーレン」など、日本でも有名な作品のコスプレも多いのですが、日本でもあまり知られていない作品を見ることがあります。その代表が「NEEDY GIRL OVERDOSE」の超てんちゃんです。

最初に見たときは偶然かと思ったのですが、実際、かなりの頻度で見続けた結果、人気は本物だと確信するようになりました。
いまや単なるコスプレだけでなく、グッズ販売の限定ショップやコラボカフェが登場しています。「NEEDY GIRL OVERDOSE」は、いまの中国の二次元コンテンツの流行を牽引している重要な一部となっています。

実際に、ゲーム「NEEDY GIRL OVERDOSE」の売り上げは50%以上を中国の販売が占めています。

日本の4倍強の本数を売り上げている理由は、単なる人口比だけではありません。社会的な背景に紐づいた多くのファンの存在です。
超てんちゃんのコスプレは単なるファッションの場合もありますが、コスプレイヤーの裏には、普通は数多くの熱狂的なファンが存在しています。そして、そのファンの投稿から人気の秘密を探ると、中国Z世代の本音が見えてきます。
なぜ中国Z世代は超てんちゃんに共感し、憧れ、なりたいと思うのか。
人気の理由をゲームの概要から一つ一つ掘り下げていきます。
ゲーム概要
本作では容姿端麗で性格が酷いおたくでメンヘラの女性あめちゃんと30日間共に過ごし、彼女の精神状態を管理しながら、彼女を最高の動画配信者にすることを目指す。2010年頃から無視されたくない、疎外感へのアンチテーゼといった意味のインターネットスラングとして用いられてきた承認欲求がモチーフに据えられている
この作品は、あめちゃんのパラメータを調整していく育成シミュレーションとなっており、裏アカウントが「あめちゃん」、表のアカウントが「超てんちゃん」になっています。ゲーム内の30日間を終えて彼女を100万フォロワーにすることが目的となります。

大ヒットした経緯
このゲームは発売当初から中国で大ブームとなりました。
もともと、このゲームの注目度は高く、ゲームプラットフォームであるSTEAMでプロモーションを行ったところ、中国のウィッシュリスト数が日本に次ぐ数でした。

そして「NEEDY GIRL OVERDOSE」が正式公開された翌日、中国のウィッシュリスト数は日本を上回って1位となり、1カ月後には日本の2倍以上の14万以上となりました。

また、主題歌「INTERNET OVERDOSE」はBiliBiliで公開されて急速に人気を博しました。この曲は単体で860万回の再生を獲得し、関連の動画は6,000万回以上の再生数となりました。
このゲームが人気となった理由は、ローカライズの巧みさ、中国Z世代のネットカルチャーへの親和性、中国向けマーケティングです。
実際にゲームの画面を見ると、かなり本格的な中国の若者言葉が多用されていて、言われないと日本製のゲームとは思えないくらい自然な雰囲気になっています。

おそらく、翻訳者が原意を把握した上で物語全体を中国語のネット用語に落とし込んでおり、現代の若者をゲームの描写に容易に引き込ませる設計になっています。

これが今の中国Z世代のネットカルチャーへの親和性とマッチし、多くの人をゲームの世界に誘い込みました。また、ウィッシュリスト数に着目した中国市場へのマーケティングも行われました。

表面的には、これが「仕掛け」として成功したと言われています。
しかしながら今の中国Z世代を虜にしているのは「キャラクター」と「ゲームシナリオ」です。
理想としてのキャラ:超てんちゃん
まず、共感できるキャラクターの理由としては、超てんちゃんの外見の魅力があります。その理由は、この投稿から知ることができます。

「NEEDY GIRL OVERDOSE」で面白いと感じたのは、作者は「超てんちゃんのような女の子は現実には存在しないし、あり得ない」と言っているけれど、現実の多くの女の子たちは、自分を超てんちゃんと重ね合わせて、彼女の姿に理想の自己像を見出しているところです。もちろん、誰もが「100万フォロワー」なんてあり得ないのは分かっているけど、それでも「自分はネットの天使なんだ」と夢想するのは、以前みんなが富江のようになりたがったのと似ています。「自分は万人を惑わす悪女」だと妄想するようなタイプの女の子たちです。超てんちゃんのようなキャラや、現実に何万人のフォロワーを持つプロ配信者の姿と重ねて、「自分もいつかネットの天使になれるんじゃないか」って思ってるんです。地味で目立たない、でも本当は魅力を秘めている普通の女の子が。この「短いけど出口のない思春期の混乱のなかでの焦燥と、自意識と自己憐憫がぶつかる衝動」、そして「長すぎる思春期の中で、自分の居場所を必死に探していること」、ここに私はすごく共感できるんです。
この文中にあるように、富江も中国では大きな人気を集めており、グッズ販売やコラボカフェが同様に展開されています。

この「超てんちゃん」の純粋な美しさに自分の理想を重ねているのが人気の一つです。
現実としてのキャラ:あめちゃん
ネタバレになるので詳しく書けませんが、あめちゃんがメンヘラになった理由は複合的なトラウマに満ちた背景を抱えています。
こうしたキャラクター設定は、単なる「病み可愛い」キャラを超え、超学歴社会を背景とした絶え間ないプレッシャーを学校・家庭で抑圧され続けている現代Z世代女性と非常に同調します。
「理想」 vs「現実」
これはファンが書いた文章で、「NEEDY GIRL OVERDOSE」のキャラが人気な理由が実体験として表現されています。

この文章は著者が当初、軽い気持ちで始めた「NEEDY GIRL OVERDOSE」が、思いがけず自分の内面に深く響いてしまった、という体験をつづったものです。
著者は徐々に「これは単なる投影ではなく、本当に自分に似ている」と感じ、自己とキャラクターの重なりについて語っています。
文章中で最も重要なポイントは、キャラクターの内外人格の分離という視点です。著者はこう語っています
あめちゃん(内面):自分を否定し、他人の承認を渇望している。達成目標として「100万人フォロワー」を掲げているのも、価値を数値化しないと自己肯定ができないから。
超てんちゃん(外面):明るくふるまい、世界に「美しさ」や「自分の好きなもの」を届けようとする。だが実は、その外面は自己防衛的な演技ではなく、真の思いを表現する形でもある。
この内外のギャップは、「家族といるときの自分」と「友人といるときの自分」が違うように、現代のZ世代が感じる社会的人格の分裂を的確に表しています。
そしてこの著者は最後に、「あめちゃんと超てんちゃん、どちらが好きか?」という問いを投げかけ、「どちらも好きだし、どちらも嫌い」と答えを出しています。
これは「自分自身に対する評価」のメタファーであり、次のような内的構造を示唆しています。
「好き」なのは「自分と似ているから、わかるから、共鳴できるから」
「嫌い」なのは「弱い自分を見たくない、現実を直視したくない、自分を否定してしまうから」
つまり、あめちゃんと超てんちゃんという存在は「愛せる自己」と「嫌悪する自己」を同時に象徴する鏡なのです。
地雷系ジャンルの確立
「NEEDY GIRL OVERDOSE」は最近の中国での流行語「地雷女(地雷系女子)」も生み出しています。実際、中国のインフルエンサー界隈では地雷系女子が急増しています。

中国では「地雷系女子」とは、外見は愛らしく、内面は傷つきやすく、承認欲求と孤独に苛まれた現代的キャラクターとされています。これも、あめちゃんと超てんちゃんの異種ということができるでしょう。
流行の理由:社会を浮き彫りにするゲームシナリオ
このゲームが流行っている理由は、日本における2000年代の「鬱ゲー」ブームに似ている部分もありますが、それだけとは言えません。このゲームの構造と中国Z世代の境遇があまりにも近く、共感を生み出しているのです。

この文章は「NEEDY GIRL OVERDOSE」をプレイした一人のファンが、自らのプレイ体験を通じて感じた羞恥・懺悔・怒り・無力感を連ねた長文です。
文章の冒頭で、筆者はこう自問します。「なぜ自分はこのゲームを始めたのか?本当は、超てんちゃんが可愛かったからだろう?」
ここで提示されるのは、「救いたい」という感情の中にある欺瞞=支配欲と観察欲です。しかし、この文章の著者は文章の中盤で、ゲームの構造そのものを激しく批判します。
「このゲームの真の残酷さは、たとえ真エンドに辿り着いても何も報われない点にある」
このゲーム構造が、現実世界の中国Z世代の生きづらさそのものに接続されていくのです。
・「勉強すれば将来は明るい」と言われても信じられない現実
・現実に拠り所がないからこそネットやゲームに逃げる
ここで浮かび上がるのは「現実=絶望」、「ゲーム=虚構」の両方に閉じ込められる自分という二重の閉塞感です。
文章の最後がZ世代の心の叫びを表しています。

あなたは最終的に「選択」とはプログラムの幻想にすぎないと分かる。あなたが自分の運命を選ぶことができないように、彼女の人生を選ぶことはできない。あなたは救世主だと思っているが、実はあなたは観衆だ。あなたは彼女の成長に付き添う人だと思っているが、実はあなたは彼女の堕落した瞳を見ている。あなたは努力すればするほど無力になる。これは彼女一人の悲劇ではなく、私たちの時代の悲劇である。彼女は鏡にすぎず、私たちの弱さ、偽り、欲望、麻痺を少しずつ映し出している。このゲームにはいわゆる「真の結末」はない。「100万人のフォロワー」は皮肉、「一緒に頑張る」という約束は嘘、「私たちには未来がある」は幻覚だ。ゲームはあなたに飴のような快楽を与えるのではない。飴を飲み込んだ後、あなたは彼女を壊して、あなたも彼女も救われていないことを気づくように強要するのだ
この心の叫びをZ世代の環境から解説します。
Z世代の心の叫びとは
・現実と虚構の「選択」の崩壊
中国Z世代は、生まれた時からインターネットと共に育っています。彼らの人生には、常に「おすすめ」「ランキング」「いいね」がついて回ります。そして、このゲームにおける「選択肢」は、実は何の意味も持たず、どれを選んでも破滅しかないという構造です。
あなたは最終的に「選択」とはプログラムの幻想にすぎないと分かる
これは、日々「選ばされている」だけの現実と重なります。「あなたは彼女を救えない。なぜなら、あなた自身も虚構だから」。このメッセージは若者にとって、痛烈すぎる自己暴露です。
・ 「努力すれば報われる」はもう信じられない
中国のZ世代にとって、社会はもはや「努力すれば報われる場所」ではありません。学歴エリートでも就職先がない、都市間格差、低賃金労働、そして「内卷(無意味な過当競争)」。ゲームの中で、ヒロインを最適ルートで導こうとするほど、かえって彼女は壊れていく。これは、「越努力、越無力(努力すればするほど無力)」という現実の縮図です。
・鏡の中の「私たち」
VTuber、配信、SNS。視聴者であり、評価者であり、加害者でもあるZ世代は、常に「他人を見つめる目」と「自分を演じる目」にさらされています。
彼女は鏡にすぎず、私たちの弱さ、偽り、欲望、麻痺を少しずつ映し出している。
プレイヤーは女の子を観察しているようで、実は自分たちの鏡にすぎなかった。これはZ世代にとって自分の存在を揺るがせる体験です。
・飴を飲み込んだ後の「苦味」がリアル
飴を飲み込んだ後、あなたは彼女を壊して、あなたも彼女も救われていないことを気づくように強要するのだ
中国Z世代は、甘やかされたあとに裏切られる展開に敏感です。これは、教育改革や職場でのパワハラ、格差拡大といった現実において、度々、希望からの失望を経験しているからです。
ゲームの構造そのものが「甘い」キャラと「苦い」現実のギャップで構成されていることも、彼らの「自分ごと」としての共鳴を呼びました。
・「選べない人生」としての地雷系ヒロイン
中国ネット社会での地雷系ヒロインは、可愛く、脆く、依存的でありながらも、自己認識を失っており、他者からの承認にしか価値を見出せません。これは、社会の中で「自己決定」を持たず、他人の目や「いいね」でしか自分を測れないZ世代そのものです。
最終的に「選択」とはプログラムの幻想にすぎない。あなたが自分の運命を選ぶことができないように、彼女の人生を選ぶことはできない
この認識は、社会構造への無力感と、自己の責任との狭間に揺れる若者たちにとって、極めてリアルな共感軸となっています。
・「彼女を救えない」ではなく、「自分を救えない」
このゲームが中国Z世代に与えた衝撃は、キャラクターへの愛や鬱展開だけでは語れません。それは、誰かを救おうとすることで自分の無力さを知るという、きわめて現代的な逆説の提示です。しかもこの構造は、彼らの現実にあまりに似ているのです。どれだけ選択しても、どれだけ努力しても、どこにも「真のエンディング」が無い現実を突きつけているのです。
重なり合わない社会の「堕天使信仰」
このように、超てんちゃんが現代少女に好かれる理由は正解のない社会における、その「堕天使」としての多義性にあります。彼女は可愛く、病みを抱え、社会に呪われ、そしてそれでも「配信者として愛される」存在です。
これは、現実では「普通」で「価値がない」とされがちな少女たちにとって、希望であり、慰め、逃避でもあります。
彼女たちは単純に超てんちゃんを、自分が望む理想の世界として求めているだけなのです。
中国ネット空間には超てんちゃんのファンアートや多くのメッセージがあります。


私が「NEEDY GIRL OVERDOSE」で一番好きなのは超てんちゃんを操作して外に出ることでした。乙女ロードがある池袋、歌舞伎町の繁華街がある新宿、流行の可愛い若者が集まる原宿、オタクの聖地である秋葉原、動物園、プール、映画館がある上野へ、古着店やライブハウスがある下北沢へ行きます。 私は東京ではなく、河北省の小さな県に住んでいます。東京に住むことができたら、八平米の部屋に住みたいと思います。 今日は春の光が輝き、母は私に外に出かけるように勧めましたが、スーパー以外に他の便利な場所は思いつきませんでした。
超てんちゃんは、現代の少女が自らを語るための仮面であり、共鳴と逃避を許すコンテンツです。理想と現実が重なり合わない社会が生んだ「信仰」を映す鏡です。
街を歩くコスプレイヤーから見えてくる「NEEDY GIRL OVERDOSE」のブームは、ただの「病みかわいい」の流行ではありません。そこには、現代の中国Z世代が抱える孤独、不安、そして選択できない現実への無力感が映し出されています。
そして「超てんちゃんになりたい」を現実でかなえてくれるコスプレは、虚構の中でしか語れない本音を、静かに、確実に語らせてくれる行動なのです。

私が感じた「堕天使信仰」とは、人間らしさを持ちながら完璧を目指す姿。無垢と傷、可愛さと痛み、理想と絶望を同時に背負ったキャラクターに、自分の姿を重ねる現代の信仰形態です。
承認欲求と自己否定を抱えるZ世代にとって、「堕ちた天使」は強くて弱く、美しくて壊れた「自分たち」の象徴なのだと思います。
※公開当初「超てんちゃん」の表記を「超天ちゃん」としていましたが修正しました。ご指摘くださった方、ありがとうございました。
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