内閣不信任案提出批判に潜む勘違い 「可決できなければ無意味」は正しいか

内閣不信任決議案の採決が行われた衆院本会議。奥右は菅首相=15日午後

 立憲民主党など野党4党が15日、菅義偉内閣に対する不信任決議案を提出し、決議案はこの日の衆院本会議で「粛々と否決」された。国会会期末における「当たり前の光景」だ。自民党の二階俊博幹事長が「年中行事」と評していたが、あながち間違っていない面もあるだろう。

 この「当たり前の光景」について、近ごろ常識では考えられない解釈がまかり通っている。「不信任決議案とは野党が衆院解散を求めて提出するもの」という考え方である。そして、その誤った解釈を基に「野党はコロナ禍の最中に、不信任案提出で政治空白を招くのか」という「批判」とやらが聞こえてくる。

 ちょっと看過できない。本気で勘違いしているのか、それとも曲解しているのか。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

大島衆院議長(左から3人目)に菅内閣不信任決議案を提出する立憲民主党の安住国対委員長(中央)ら=15日午前、国会

 内閣不信任決議案は、首相に衆院解散を求めるものではない。国会として「現内閣を信任しない」という意思を突きつける、つまり、内閣に総辞職を求めるものである。少し考えれば分かることだ。国会がわざわざ、自分たちが信任していない内閣に向かって「(衆院解散で)私たちをクビにしてください」と頼む義理などどこにもない。

 そして憲法69条は、不信任決議案が可決された場合の内閣が取るべき選択肢を、二つ定めている。内閣総辞職か、衆院解散である。本来なら、国会に不信任された内閣は総辞職するのが筋であろうと筆者は思うのだが、ともかく憲法には「われわれを不信任した国会の判断が正しいかどうか、国民に聞いてみよう」と、衆院を解散して総選挙で信を問う選択肢も用意されている。

 そのどちらを選ぶかは内閣の判断だ。確かに「野党による内閣不信任案の提出が衆院解散を誘発する」可能性はあるかもしれないが、最後に解散を政治判断するのは、あくまで内閣の長たる首相である。だからこそ、これまで長い間「解散は首相の専権事項」(筆者はこの解釈には異を唱えたいが、とりあえずここでは置く)と言われ続けてきたのではないか。

 もちろん「不信任案提出の段階で、採決前に解散する」ことにおいても、その全責任を首相が負う点は、全く同じである。可決もされていないのに解散するのだから、それは「首相が勝手にやったこと」以外の何物でもない。

 いかなる理由であろうとも、衆院解散・総選挙となった場合は、解散を判断した首相が全ての責任を負う。当たり前のことである。

 もし、政権与党の側に「解散は不信任案を提出した野党のせい」という人がいたら、それは自分たちが支持する首相に「政治判断を自ら行う能力がない」「解散の判断まで野党に丸投げ」と言っているに等しい。だったら、そんな首相は自分たちで不信任すべきなのではないか。与党の側から不信任案でも出すか、普通に退陣を要求すればいい。

 ついでに、これを言ってしまうと身もふたもないが、内閣不信任決議案というのは、一般的に「可決しない」のが当たり前だ。

 日本は議院内閣制をとっている。衆院で多数を占めた政党(グループ)が内閣を構成する。少数派である野党が不信任案を提出しても、普通は多数派の与党によって否決される。

1993年6月、宮沢内閣不信任案可決を受けて招集された臨時閣議に向かう宮沢喜一首相と閣僚ら=国会

 内閣不信任決議案が可決された直近の事例は、28年前の1993年6月、宮沢内閣に対する不信任案だ。この時は与党・自民党から造反(不信任案への賛成)の動きが出て、まさかの可決に至った。その後の衆院解散・総選挙の結果、自民党が38年ぶりに野党に転じ、非自民の細川政権が誕生した。

 この時の「大政局」の印象がいまだに強いせいか、「不信任案はかなりの確率で可決の可能性がある」といった大いなる勘違いが永田町の一部にあるのではないか、という気がしてならない。だから、不信任案が「粛々と否決」されると「政局を起こせなかった野党はだらしない」といった、ステレオタイプの野党批判が聞こえてくるのではないか。

 さて、不信任案否決時の野党批判には「どうせ否決される不信任案の提出など、ポーズだけで何の意味もない」というパターンもある。

 こちらは、不信任案が簡単に可決しないことを理解しているだけ、前者よりまだましかもしれない。だが、実はこうした批判こそ全く意味がない。提出の意味は「可決して政局を起こす」ことにあるのではないからだ。

 不信任案提出には二つの意味があると筆者は考えている。一つは、時の政権に対し、野党が何を問題視し、なぜ信任できないかを国民の前に明らかにして、次の総選挙における政権選択の判断材料にしてもらうこと。もう一つは、決議そのものや提案理由説明の「言葉」を議事録などに残し、後世の検証に耐えるようにしておくことである。

 歴史は時の権力の手でつむがれる。うっかりすれば、政権に都合の良いストーリーだけが後世に残ることになりかねない。だからこそ、国会の議事録の存在には大きな意味がある。時の政権に対し国民の間にどんな批判の声があったのか、どんな「ほかの選択肢」が提示されていたのか、議論の過程を記録に残すことは、とても重要である。

衆院本会議で内閣不信任決議案の趣旨説明をする立憲民主党の枝野代表。奥右は菅首相=15日午後

 そもそも「可決できないものは意味がない」のであれば、あらゆる野党提出の議員立法は意味がないことになりかねないし、政府提案の法案に反対することも意味のないことになってしまう。それは国会の否定であり、ひいては民主主義の否定である。こういうことを一部の国会議員やメディアの人間が平気で口にすることに、筆者はあぜんとしている。

 もし「可決できないものは意味がない」などと言う国会議員がいたら、その人は民主主義に向いていない、つまり国会議員の資格がないと断言してもいいのではないか。

 こんな「当たり前」が記事として成り立つのか不安だが、「当たり前ではない」言説が広く流布する風潮が耐えがたいので、あえて書かせていただいた。

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