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【局中法度】『新選組』から脱走した隊士の運命やいかに

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『新選組』には『局中法度(きょくちゅうはっと)』という鉄の掟があり、その中には「局ヲ脱スルヲ許サズ」というものがありました。
新選組から脱走すると死罪という恐ろしい掟を破ってまで脱走した隊士はその後どうなったのでしょうか?

局中法度

一.士道ニ背キマジキ事
一.局ヲ脱スルヲ許サズ
一.勝手ニ金策イタスベカラズ
一.勝手ニ訴訟取リ扱ウベカラズ
一.私ノ闘争ヲ許サズ

右条々相背キ候者 切腹申シツクベク候也

現代語訳するとこんな感じでしょうか。

一.戦いの最中に逃げたりせず武士らしく振舞え。
一.新選組を脱退する事は許さない。
一.副業禁止。借金禁止。
一.部隊に内緒で裁判沙汰を起こさない。裁判沙汰に首をつっこむな。
一.プライベートでのケンカをしてはいけない。

一つでも上記規則をやぶったら切腹。

恐ろしい鉄則にも関わらず、「局ヲ脱スルヲ許サズ」を破る隊士がでてきます。

総長・山南敬助にも容赦なく

『新選組』で近藤勇、土方歳三に次いでナンバー3の総長・山南敬助(やまなみけいすけ)。
彼は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらまします。
※脱走理由は近藤との対立、うつ病など諸説色々あり、今もよくわかっていません。
すぐに沖田総司が後を追い、その日のうちに捕まり壬生の屯所に連れ戻されてまもなく切腹。

当時、幹部たちは隊の統制をはかるために『局中法度』の違反者を盛んに粛清していました。
そんな恐怖感が蔓延していた中での山南敬助の切腹。
これに恐れをなした古参の隊士がいました。

酒井兵庫

会計方を担当していた古参の隊士である酒井兵庫(ひょうご)は、死体埋葬(会計方の仕事)をしているうちに怖くなり姿を消します。
多くの機密を握っている会計方に逃げられてはいけない、という事で必死に捜索し、摂津住吉の潜伏先を突き止めます。
沖田総司を筆頭に数人の隊士が隠れ家を襲撃、酒井をめった斬りにしました。
刀傷は思ったほど深くなかったのですが、治療中にあまりの傷の多さに気づきショック死してしまいます。

田中寅蔵

剣撃師範を担当していた田中寅蔵(とらぞう)は尊王攘夷の思想をもっていました。
尊王とは「天皇を敬う」という意味で、当時の日本人のほとんどがもっていた基本思想でした。
近藤や土方をはじめとした新選組隊士は尊王は尊王でも尊王佐幕でした。
つまり、「天皇から委任を受けた幕府が政治を執り行い、日本と天皇を守る」思想だったのです。
田中は「幕府は外国に対して弱腰なので、天皇中心の政権に変えて日本を侵略してくる外国を追い払う」という尊王攘夷思想を信奉していたので、『新選組』が尊王攘夷志士を弾圧していることに耐えられず、ついに脱走します。
しかし、翌日に潜伏先から連れ出され切腹させられました。

柴田彦三郎

柴田彦三郎(ひこざぶろう)は、「勝手ニ金策イタスベカラズ」の掟を破り、発覚してしまいます。
このまま隊に残っていてもいずれ切腹しないといけないので、「どうせなら」と脱走します。
しかし、潜伏先の出石藩であっけなく捕まり、出石から壬生までの約100kmを歩かされ、屯所で見せしめとして大勢の前で切腹させられました。

 

佐久間象山の息子は逃げ切った

幕末の志士に大きな影響を与えた信州松代の洋学者佐久間象山(しょうざん)。
彼の私塾には、吉田松陰、河井継之助、坂本龍馬、勝海舟、橋本佐内、加藤弘之(東京大学初代総長)などの門下生がいました。

ある時、象山は坂本龍馬に女を紹介しろ、と要求します。

佐久間象山
僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような大きな尻の女を紹介してほしい。

結局は、勝海舟の妹・順と結婚します。

父の仇討ちのために新選組へ

象山と妾との間に息子の恪次郎(かくじろう)が誕生します。
恪次郎は17歳の時に象山と京都へ行きますが、象山は暗殺されてしまいます。
父の葬儀を済ませて故郷に帰ろうとするが、象山の門下生の山本覚馬(かくま)は「このまま帰れば世間の笑い者になるぞ。新選組に入って父の仇をとれ」と恪次郎に強く勧めました。
※山本覚馬の実妹は新島八重(にいじまやえ)です。

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断る勇気もなく、とりあえず『新選組』に入隊することに。
この時、母の姓をとって三浦啓之助(けいのすけ)に変名。
高名な佐久間象山の息子という事で『新選組』では客分扱いとなりますが、この厚遇がいけなかったのか傲慢になり粗暴を働くようになります。
次第に他の隊士から嫌われ、本人も居づらくなったのか入隊してから3年後に脱走します。
「局ヲ脱スルヲ許サズ」を破ったのだから追手を差し向けると思いきや、恪次郎に対しては追手を差し向けませんでした。
さすがの近藤勇も佐久間象山の息子を死罪にするには気が引けたのでしょう。
このまま去ってくれればいい、と思っていたに違いありません。

恪次郎はその後、佐久間象山の息子という事を利用し、西郷隆盛を頼って官軍に身を投じ『戊辰戦争』に参加、福沢諭吉を頼って慶應義塾に入学、司法省に出仕するも泥酔して車夫とトラブルを起こし、止めに入った警察官を殴り免職。

その後、松山県裁判所判事となり、1877年(明治10年)2月26日、うなぎのかば焼きを食べて食中毒となり頓死。享年29。

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