2009年 05月 11日
「きれいごと」と「闘い」
時々、私はジャーナリズム関係の講演やシンポジウムを聞きに行く。先だっても都内の大学で、新聞労連の委員長さんも出席したシンポを聞きに出かけた。やはり、良いことを言っている。心底、そう思う。ただ、ここでも「しかし」である。
或いは、(とばっちりのような形になって申し訳ないが)、有名なガ島通信に最近、「草彅さん報道に見るマスメディアの病理」というエントリがあった。細かな部分には異論もあるが、だいたいにおいて、納得できる内容だった。まさに、日本の事件事故報道の病的症状は、末期と呼ぶに相応しいからだ。ただし、ここでも、「しかしなあ」と思うのである。
「世界」に連載中の神保太郎氏は、私の記憶では、連載初期、自分はメディア内部の人間であると明かしていたように思う。新聞労連の委員長氏は、現在、朝日新聞が出身母体である。ガ島通信を主宰する藤代裕之氏は以前、一緒に本を出したこともある。現在はgooのニュースデスクである。何が共通しているかと云えば、みんな、メディアの内側にいる、という点だ。
最近はメディア批判が止まない。実際、マスメディア、報道、ジャーナリズムの世界では、日々、異常な事柄が更進している。もはや異常を異常と感じないレベルにまで来たようにも思う。そんなとき、例えば、ここに記したような、お三方の意見はやはり、傾聴に値するし、こういう意見を随所で、もっと言い続けて欲しいと思う。
ただ、一方では、そのきれい事を自らの組織の中で、実際にどう実践しているのかと、問いたくなる。神保氏は、新聞社(または通信社など)に身を置きながら、「世界」に書いているようなことを、組織内で堂々と主張し、上司と闘っているのだろうか。新聞労連の委員長氏は、出身母体に戻ったとき、数々の正論をその通りに主張し、その通りに実現させるために、堂々と社内で上司と議論しているのだろうか。ガ島氏は、草なぎさんの事件を報じる各社のネットニュースを拾う際、「gooはこういうニュースをたくさん拾うべきではない。過熱してはいけない」と言い、沈静化に努めたのだろうか。職場の中で堂々、と。
日本で一番言論が不自由なのは、会社組織の内部において、である。そして、一番、モノを云うのが難しい場所は、会社組織の内部である。新聞社やテレビ局はかなり緩やかだとは思うが、それも比較級の問題でしかないように思う。過去、例えば、新聞労連は、何度も何度も、記者クラブ問題を取り上げてきた。そして、その是正を訴えてきた。しかし、その主張をリードしていたはずの新聞労連幹部は、組織に戻り、職場の中において、記者クラブの開放をどう主張、実践してきたのだろうか。堂々と、モノを言いつけたのだろうか。その主張を組織内部で貫こうとすれば、時には、すさまじいばかりのケンカも起きようが、それを恐れず、堂々と主張を続けただろうか。
一番難しいのは、足元、すなわち、日々の仕事の場で、堂々と意見を言い続けること、日々の自分の現場で闘うことなのだ、と思う。誤解を恐れずに云えば、例えば、労連委員長としてシンポジウムなどに出席し、そこで「あるべき姿」を語るのは容易い。内部の人が、匿名でメディア批判を行うのも容易い。
「言論の自由」は、対権力との関係において語られるが、しかし、言論の自由を実践する場所は、「対権力=メディア企業の外側」ではなく、メディア企業の内部にこそある。メディア企業内部の日常的場面にこそ存在するのだと思う。われわれが「権力のポチ」であるならば、それは、まず第一に、「会社の・組織のポチ」となって体現されているはずなのだ。
「権力と闘う」というのは、おぼれかけた役人個人や泥まみれになった企業を相手に、わあわあと声高に、カギカッコ付の「正義」を振りかざすことではない。そんな場面でいくら騒いでも、言論の自由は守れない。まずは、日々の職場である。最初の相手は、おそらくキャップやデスクだ。そこで闘え。そこで理想を貫け。キャップやデスクを説得し倒すことができずして、世の多くの読者を納得させる報道など、できるわけがないではないか。
by masayuki_100
| 2009-05-11 04:32
| 東京にて 2009