韓国軍や情報機関の‘抗命’、非常戒厳「迅速解除」に寄与か…浮かび上がる民主化の歴史
今朝配信した記事でも伝えたように、6日、韓国政界は非常戒厳を敢行した尹錫悦大統領の「その後」をめぐり目まぐるしく動いた。辞任か、それとも弾劾か、はたまた改憲を前提とした謝罪か、予断を許さない状況が続いた。
だが夜になり、ようやく状況が落ち着いてきた。前倒しもあるかと噂された尹大統領の弾劾訴追案の票決については、本記事を書いている6日21時の段階では、野党が従来予定していた時間から2時間前倒しの7日17時になる予定だ。
一方で、非常戒厳を再構成する動きが各所で行われている。特に6日午後になって、当時の戒厳軍の動きが一気に明らかになった。特に非常戒厳が早期に解除された背景に軍の目に見えないはたらきがあったことは特筆に値する。
●戒厳軍指揮官の一人「抗命した」
今日午前、共に民主党の金炳周(キム・ビョンジュ、62、元陸軍大将)議員は、戒厳軍を派遣した陸軍特殊戦司令部を訪問し、司令官の郭種根(クァク・ジョングン、6日午後から職務停止)中将に戒厳当時の状況について聞いた。30分を超えるこの面談は生中継され話題を呼んだ。
郭司令官はこの場で、いくつもの重要な証言を行った。
例えば、当時の任務は金龍顕(キム・ヨンヒョン、当時。5日に辞任)国防部長官から保安が確保された電話で受け取ったこと、主な三つの任務として、(1)国会議事堂の施設を確保し人員を統制、(2)中央選挙管理委員会の施設を確保し外郭を警戒すること、(3)そして世論調査会社『コッ(花の意)』の施設確保と警戒だった。
この三つの目的は重要な意味を持つのだが、本稿では触れない。ここではまず一つ目の国会での出来事を見ていく。
3日深夜の段階で真っ先に国会に進入した戒厳軍は同司令部所属の部隊だった。しかし人がいないと思って進入したものの、国会議員の補佐陣や国会職員など多くの人々が密集し、国会議事堂への戒厳軍の進入を阻んでいた。
理由は、国会での戒厳解除要求案可決だけが「非常戒厳」を終わらせる手段であったためだ。国会がどう「戦場」となっていたかは、以前の記事を参考願いたい。
【参考記事】「死ぬ覚悟で来た」…尹錫悦大統領の‘非常戒厳宣布’に抗った韓国市民、背景に民主主義の歴史(Yahoo!ニュースリンク)
この際、郭司令官は強制的に国会に入るのではなく別の方法を取るように伝えた。これにより、戒厳軍は窓ガラスを割って国会議事堂に入ることになる。
同司令官はさらに、「絶対に個人の人員(兵士)に実弾を与えるな」、「国民の安全が最優先で絶対に被害が発生しないよう作戦に重点を置くこと」という二点を口頭で指示したという。
「兵士だけでなく、民間人たちに絶対に被害が生まれてはならない」という理由からだった。
これは戒厳軍の指揮官の中に、自制がはたらいていたことを裏付けする証言として意味を持つ。同司令官は当時をこう振り返っている。
「(議事堂に入り中の人々を引きずり出せという指示が)これは違法な事項であり、法的に責任を持つべき問題が生まれる。そのため、与えられた命令への抗命になると分かっていたが(部隊に)その任務をさせなかった。(議事堂内に)入るなと指示した」。
ざっくり言い換えれば「無理をするな」「法を犯すな」と指示したと受け止められる。なぜ違法になるかというと、戒厳を規定する憲法や戒厳法に、政治活動を禁止する項目がないからだ。
しかし3日23時に施行された戒厳司令部布告令の第一項には「国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる」とあった。これが「違法な戒厳令」と判断できる内容の一つであるのだが、その点を理解していたものと見られる。
このインタビューで金議員に「特殊戦司令部を関与させるべきではなかった」と叱咤された郭司令官は、国会に派遣され民間人を相手にしたことで強いストレスを受ける『707特殊任務団』に対しひと言を求められた際、こう答えた。
「国民にもう一度申し訳ないとお話しし、特に作戦に投入された特戦隊員たちにとても申し訳ない思いを持っている」。
・現地に投入された部隊員の証言
他方6日、保守系日刊紙の『朝鮮日報』は『707特殊任務団』所属の部隊員として、3日深夜、国会に降り立った兵士A氏へのインタビューを掲載した。
A氏は3日夕方の時点で所属する部隊に「北韓(北朝鮮)に関する状況がとても深刻だ」、「今すぐ出動する可能性があるため銃器を準備せよ」という指示があったと明かしている。
しかしヘリに乗る直前に目的地が国会であることを聞かされる。だが命令は無かったという。国会に降り立ちしばらく経って「国会議員をすべて引っ張り出せ」という指示を受け、「仕方なく」窓ガラスを割り議事堂に入っていったというのだ。
だが隊員たちはゆっくりと動いたという。自らを「最高クラスの特殊部隊」と称したA氏(同部隊は実際に金正恩氏を殺害する訓練を受けるとされ「斬首部隊」とも呼ばれる)は「北韓の金正恩やビン・ラディンのようなテロリストを暗殺する部隊なのに、私たちを利用して国会を荒らすと考え士気が下がった」と明かしている。
また、「決心だけすれば10分から15分で整理すること(国会の制圧)ができただろう」とし、「わざと走らず歩いていた」と朝鮮日報に明かしている。
このように、司令官は司令官なりの、特殊部隊は特殊部隊員なりの理由で、国会を守る人々に手加減を加えた。
当時、現場にいた人々は「恐ろしかった」と口を揃えるが、もし本気でかかってきたら国会での解除要求案可決はなかったかもしれない。
●国家情報院
次は韓国最大の情報機関・国家情報院(以下、国情院)で起きた「抗命」だ。
国情院の洪壮源(ホン・ジャンウォン、60)第一次長は6日、国会を訪れ、慎聖範(シン・ソンボム、61)国会情報委員会委員長と面会した。
この席で洪氏は驚くべき事実を明らかにした。ここからは、情報委員会の幹事である金炳基(キム・ビョンギ、63)議員が記者団に明かしたものを引用する。
3日深夜、非常戒厳を宣布した直後の尹大統領が洪氏に電話をかけてきて「この機会にすべて引っ捕らえて片付けろ。国情院にも対共捜査権(※)をやるのでまずは防諜司令部を支援しろ。資金なら資金、人員なら人員、無条件で支援しろ」と指示を下したというのだ。
(※)対共捜査権:主に北朝鮮とつながるスパイ(間諜)や韓国社会を揺さぶる工作を取り締まるための捜査。国情院がその前身の国家安全企画部の時からこの捜査権を濫用し、幾多の冤罪を作ってきたことから24年になってついに取り上げられ、捜査権は警察へと移った。
防諜司令部というのは今回の非常戒厳下で尹氏や金龍顕国防長官の手足となって動いた組織だ。6日、与党・国民の力の韓東勲(ハン・ドンフン、50)代表が同司令部が韓氏を含む主要政治家の逮捕に動いていたことを明かしている。
実際に洪氏も非常戒厳のさなか、防諜司令部の呂寅兄(ヨ・イニョン、55)司令官と通話した際に逮捕対象者リストを聞かされた。この通話は3日の23時6分頃に行われた。
リストには禹元植(ウ・ウォンシク、67)国会議長、与党の韓東勲代表、共に民主党の李在明(イ・ジェミョン、60)代表、曺国(チョ・グク、59)祖国革新党代表といった主要政治家の他に、尹政権を厳しく批判するユーチューバーや市民団体の代表、さらには元大法院長(最高裁判庁長官)や最高裁判事が含まれていた。
そして呂司令官はこの際に「先輩、助けてください。逮捕するための部隊が出ているが(対象者の)所在の把握ができません。検挙支援を要請します」と述べたとされる。「検挙し次第、防諜司令部に拘禁し調査する予定である」とも呂司令官は語ったという。
これを聞いた洪氏は「狂った奴だ(原文ママ)」と思い、「話にならない」と考えたと明かしている。なお、呂司令官は洪第一次長の陸軍士官学校の5年後輩である。
その後、国家情報院では趙太庸(チョ・テヨン、68)院長を含む会議が開かれ、どうするのかを議論したが結論が出ないまま終わったという。趙院長は「明日話そう」と対話を避ける態度だったという。
結果として、洪第一次長は大統領の指示を「一切何も履行しないまま」戒厳は解除となり、帰宅したという。明らかな「抗命」がここにあった。
『聯合ニュース』によると、洪氏は5日午後4時、趙院長から大統領による同氏の即時更迭の意志を受け、辞表を書いたが、今日午前、離任式が終わった直後に趙院長が辞表を差し戻したという。
洪氏はこれについて「大統領室では『第一次長のせいで1次非常戒厳が失敗した』と大統領が激怒して更迭を命じたという話を複数の出処から聞いた」と明かしている。
●「抗命」をどう解釈するか
長々と見てきたように、軍と情報機関という国の二大機関の一部で、尹錫悦大統領や上官の命令に背いた状況が明らかになった。
これからより詳細な内容が整理されていくと思われるが、筆者はこれらの話に触れながら、やはり1980年の『光州5.18民主化運動』のことを思い出していた。
同年5月18日から27日まで続いた民主化運動は、27日早朝の戒厳軍による全南道庁への突入で幕を閉じる。その前日の晩、市民軍のスポークスマンを務めていた尹祥源(ユン・サンウォン、29)は外国人記者を前にこう述べている。
「いいですか。韓国の民主化に影響を与え、民主主義を引き寄せられるのならば、私は私の人生を進んで放棄するでしょう。自身の信念のため、命を喜んで放棄できる光州市民たちがここにいる」。
尹祥源氏はさらに「私たちが今日負けるとしても、永遠に負けはしないだろう」と述べた。当時、全南道庁には200人余りが残っていた。翌朝の戒厳軍の突入により、尹祥源氏をはじめ16人(実際はさらに多いとされる)が殺された。
一連の光州民主化運動は、光州市民が最後まで降伏を選ばず、「真の民主政府樹立を要求する」ために完全武装の戒厳軍を相手に戦ったことで、以後の韓国市民に勇気を与えた。
それと共に、戒厳令下の光州を孤立させ見殺しにしてしまったという「借り」が市民に共有され、87年6月の民主化を成し遂げる原動力になったとされる。「光州のことを考えると、催涙弾程度ではひるまなくなった」という証言もある。
同時に、この時の記憶は韓国軍の中でも痛みのあるものとして残った。こんなエピソードがある。
民主化運動が最大の高まりを見せていた87年6月当時、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領は全国に広まるデモに対し軍隊を投入することを計画したが、これに軍内から大きな反発の声が上がったことがあった。
全大統領はあくまで「脅し」のためだったとしたが、空輸旅団(空挺部隊)が所属する特殊戦司令官だった閔丙敦(ミン・ビョンドン)将軍は実際に軍が投入される場合、大統領官邸の制圧を考えていたとされる。
光州での過剰な鎮圧は軍の中でも負担になっていたということが、よく分かる逸話だ。
なお、これらの内容を含む『光州5.18民主化運動』については、筆者が過去に『イミダス』に寄稿した三部作の記事をご参照いただきたい。(外部記事リンク)
今日6日、3日の非常戒厳当時に戒厳軍として国会に動員された陸軍特殊戦司令部の第一空輸(空挺)旅団指揮官、イ・サンヒョン准将は『聯合ニュース』との通話で「結果として私たちが政治の道具として使われたことになり、惨憺たる思いだ」と述べた。
当時、この部隊は実弾や空砲も所持せず「政治的中立性を失わないよう」努力したという。
印象的だったのはイ准将のこの言葉だ。『聯合ニュース』のものを引用する。
「今日が私が就任し丸1年になる日で、昨年の今ごろ、映画『ソウルの春』が封切られた。わが将兵たちが『12.12』の部隊であったという映画を観た市民達から後ろ指を指され、(将兵たちに)自らを恥とする思いがあることを知った。1年間、その汚名をそそぐために、国民の軍として愛されるために努力をたくさんしてきたのに...」
同紙は「(イ准将は)それ以上言葉をつむげなかった」と記事を結んでいる。軍の中で様々な思いがあったことが分かる一幕だ。『12.12』とは79年12月12日に保安司令官の全斗煥がクーデターを起こし成功した出来事を指す。映画の背景だ。
整理しよう。
尹錫悦大統領と、尹氏の高校の一年先輩の金龍顕国防長官が組んだことで非常戒厳そのものを防ぐことはできなかった。
だがそれがわずか150分(解除要求案の可決まで。完全解除までは6時間)で潰えた背景には、軍や情報機関の「国民を守る判断」が存在したことは明らかだ。
その土台に韓国社会が民主主義を獲得する中で流れた市民の血の「記憶」や「記録」があるのではないか。それが軍内でも脈々と受け継がれてきたと考えるのは言い過ぎだろうか。
私が韓国人だからと韓国をことさらに美化する訳ではない。国家の秩序を考える場合、抗命を簡単に考える訳にもいかないだろう。だが今回の「抗命」には、今の韓国を形作ってきた民主化の歴史が息づいているように思えた。その歴史に自身の名を‘汚名として’刻むことはできない。
国防部は6日午後、「万一、(尹大統領から再び)戒厳発令に関する要求があったとしても、国防部と合同参謀本部はこれを絶対に受け入れない」と表明した。