誰も読めない謎の古文書!『ヴォイニッチ写本』研究の最前線を慶應義塾大学で聞いてきた。
そこには、どこの国のものでもない言語がびっしりと書き記されている。文字に添えられた植物のイラストもまた、現実の世界には存在しないものばかり。
放射性炭素年代測定によると、15世紀に書かれた文書であるらしい。だが、発見から100年以上が経った今も、何が書かれているのかは不明のまま。世界の大いなる謎として語り継がれ、オカルト的な関心を集め続けてきた奇書。
それが「ヴォイニッチ写本」である。
これまで何度も「解読に成功した!」という報告がなされてきた。しかし、しばらくすると「あの研究結果は間違っている!」「今度こそ解読した!」などという報告が別のところから流れてくる。情報が錯綜し、一向に真相のつかみどころのない謎多き文書である。
しかしなんと、そんなヴォイニッチ写本に関する最先端の研究を行う人物が、慶應義塾大学にいるらしい。今回お話を伺うのは、安形麻理教授。いったい、真の解読はどこまで進んでいるのか。2019年現在の到達点を聞いてきた。
撮影/金本凜太朗
取材・文/飯田光平(Value books)
デザイン/桜庭侑紀
- 出典:Yale University Library Beinecke Rare Book and Manuscript Library, MS408
- わ! ヴォイニッチ写本がある! 実物…ですか?
- 安形 これは、「ファクシミリ版」と呼ばれる、実際のヴォイニッチ写本に忠実に似せてつくった写真複製本(※)なんです。こういうのを専門にしてつくっている会社が海外にあるんですよ。そこから購入しました。
- これ、穴があいていたり、ページの端が切れていたりしますよね。もしかしてこれは…?
- 安形 そうです。本物の状態を、そっくりそのまま再現してるんです。
- こんなものがあるんですね。ちなみにお値段は…?
- 安形 だいたい、100万円ちょっとかな…(笑)。
- あ、なんだか素手で触るのが怖くなってきました…。
- そもそも、安形さんはどうしてヴォイニッチ写本を研究対象に選んだんですか?
- 安形 もともとオカルトサイトなどでは大人気だったんですが、あるとき「この本に書かれていることはデタラメだ」という趣旨の論文(※)が発表されたんです。それもあって“ヴォイニッチブーム”が加熱し、私も興味を引かれて。私の最初の研究発表は、2006年で、もう13年前になりますね。実は、私の夫(安形輝)も研究者で、ふたりの共同研究としてヴォイニッチ写本に取り組んでいます。
- ご夫婦での共同研究なんですね。
- 安形 ふたりとも「図書館・情報学」という分野を専攻していまして。といっても、研究のアプローチとしては正反対なんですけどね。
- 正反対?
- 安形 私は「図書館・情報学」の中でも、古い本を対象とした研究を行う「書誌学」という分野が専門。夫であり共同研究者の安形輝は「情報検索」という分野に携わっていて、プログラミングなどを使用してデータを見ていく人です。本をモノとして分析していく書誌学のアプローチと、AI(人工知能)も用いながらデータとして分析していく情報検索のアプローチ、いわば新旧の合わせ技でヴォイニッチ写本の解読に取り組んでいるんです。
- おふたりの得意分野が違って、それぞれの研究で挟み込むように謎に迫っているんですね。ヴォイニッチ写本の研究は、主に図書館・情報学の中で進められているのでしょうか?
- 安形 いえ、そういうことでもないですね。発見された当初はさまざまな文系の学者たちが謎の解明に取り組んでみたんです。ただ、誰も歯が立たなかった(笑)。
そして次第に、アカデミックな世界というよりも、暗号解読の分野で注目されるようになっていきました。1978年には、アメリカの国家安全保障局がヴォイニッチ写本の研究をまとめた報告書を出版しています。暗号は軍事技術と紐付いてきますからね。
こうして、ヴォイニッチ写本は学問的な研究対象ではあったんですが、人文学というよりも、そうした暗号解読の世界で主に取り扱われてきました。
2004年にはヴォイニッチ写本を所蔵するイェール大学が写本の写真をデジタルデータとして公開し、誰でも使えるようになりました。その前からマイクロフィルムを使った研究もおこなわれていて、全文テキストデータを作って公開した研究者たちもいます。そのおかげで、80年代から散発的にアカデミックな研究も報告されるようになってきたんです。
また、アカデミックな世界だけでなく、一般の方々による解読への挑戦も種々あります。ただ、どれも一貫した解読方法は発見できていない、というのが現状です。「10個の単語が解読できた!」「2行だけ解読できた!」という報告がよくあるんですが、その解読方法では他の部分は読めないままだったりして。解読の報告は、そうした不完全なものがほとんどなんです。 - 「こうすれば全部読める」という解読は達成されていない、ということですね。解読できていない言語、というのはヴォイニッチ写本のほかにもあるんですか?
- 安形 未解読の言語はけっこうたくさんあります。たとえば、クレタ島(ギリシャ)で発見された「ファイストスの円盤」という遺物には、いわゆる“絵文字”が記されていますが、これもまだ解読できていません。
珍しいところだと、誰が書いたかまでわかっている未解読文字なんていうのもあります。イタリアの芸術家ルイジ・セラフィーニが記した『コデックス・セラフィニアヌス』という本。76年から78年の間に、彼が自分の考えた文字と空想のイラストで構成した本で、百科事典ほどの分量があり、まだ解読されていません。 - なるほど、“未解読”ということ自体は、それほど珍しいことではないんですね。そんな中、どうしてヴォイニッチ写本は特別な注目を集めているんでしょうか?
- 安形 一番の理由は、読めそうで読めないところだと思います。ヴォイニッチ写本って、パッと見は中世によくあった写本なんです。登場する文字は一見アルファベットや数字に似ているし、挿絵の植物や天文のシンボルなども、いかにも錬金術に関係しているかのように見える。
この「わかりそう」な感じと、「でも、わからない」という絶妙な塩梅が、100年以上にわたって多くの人を引きつけているのではないでしょうか。 - もうちょっとで解読できそうな気がする…という感覚になってしまうんですね。では、肝心の解読はどこまで進んでいるんですか?
- 安形 正直まだまだこれからという段階ですね。ただ、全力で研究を行う価値がある対象だという、研究の大前提となる証明はできたと考えています。
- といいますと?
- 安形 解読を進める前に、ヴォイニッチ写本がランダムに書かれたデタラメでないかどうかを検証する必要があったんです。本の中で使われている言語にきちんとしたルールがあるのか。それともないのか。デタラメに書かれたものではない、というのが研究者たちの共通見解でしたが、じつはそれが立証されていなかったんです。
- 逆にどうしてデタラメではないという共通見解が成立していたのでしょうか?
- 安形 その点については「言葉の使われやすさ」がキーになります。言語によって使われる単語の数は違いますが、どの言語でも「よく使われる言葉」と「あまり使われない言葉」が絶対に出てくるんです。
ふだんの会話でもそうですよね。日常会話では、[ヴォイニッチ]よりも当然、[私は]という言葉のほうがよく出てくる。もっと言えば、[私]よりも[は]のほうがさまざまな場面で登場しますよね。[僕は]や[あなたは]などの形で。
こんなふうに、言語は非常に多く使われる少数の言葉と、それほど使われないたくさんの言葉で構成されているんです。
「デタラメではない」と多くの人が考えたのは、ヴォイニッチ写本の言語を調べてみると、まさに同じ構造が見て取れたからです。ランダムに書かれたものならば、単語の使われ方だってバラバラのはずですが、そうではないんですよね。 - なるほど。だから、ヴォイニッチ写本の内容は少なくとも言語としての性質を持っていると。
- 安形 しかし、04年にゴードン・ラグというイギリスの研究者が「言語としてのいろいろな特徴を保ったままデタラメな文章はつくれる。ヴォイニッチ写本はやっぱりデタラメなものだ」という研究内容を発表したんです(笑)
- ええ! いま納得したばかりなのに!(笑)
- 安形 ラグの主張は、16世紀に発案された暗号作成の道具を使えば、似たような文章は簡単につくれる、というものでした。実際、プログラマーと協力して機械的にランダムな文字列を生成し、ヴォイニッチ写本ふうの文章をつくることに成功しています。いわば、偽の写本を書いたという感じですね。
- ということは、やっぱりヴォイニッチ写本に書かれているのもきちんとした言語ではない可能性が高い…?
- 安形 いいえ。まさに、ラグの研究に対する反証を提示したのが私たちの研究なんです。
- おお!
- 安形 先ほど、日常会話では[ヴォイニッチ]よりも[私は]という言葉のほうがよく使われる、とお話ししましたよね。でも、今回の取材では[ヴォイニッチ]という言葉は何度も出てくるわけです。
そういう意味では、[ヴォイニッチ]は特定性の高い限定的な言葉、と言うことができます。特定の会話の中で多く出てくる言葉、ということですね。
こんなふうに、ある文脈の中での言葉の特徴を考えていくことを、情報検索の分野では「語の重み付け」と呼びます。私たちは、その重み付けを考慮しながら、「クラスタリング」という手法でヴォイニッチ写本の解読に取り掛かりました。 - クラスタリング…。少し詳しくお願いします。
- 安形 ざっくりと言ってしまえば、「似ているものをひとつのグループにまとめる」という方法です。
テキスト、色、形、なんでもいいのですが、ある対象とある対象がどれくらい似ているかを計算し、その類似度が高いものをひとつのクラスターと呼ばれる単位にまとめ、クラスター同士を比較する手法です。
…と言っても、よくわからないですよね(笑)。 - ええ、正直(笑)。
- 安形 実際に行った作業をお伝えしながら、具体的に説明していきますね。
まず、私たちはクラスタリングの対象として言葉を選びました。ヴォイニッチ写本に書かれている謎の言語です。
それを、1ページずつひとつのテキストデータに置き換えて、ページごとの近さ、類似度を計算していくんです。
1ページと2ページ、1ページと3ページ、1ページと4ページ…、というふうに個々に比較していく。最終ページまで比べ終わったら、今後は2ページと3ページ、2ページと4ページ、2ページと5ページ…という順番で、すべてのページを比較していきます。 - その結果、何がわかってくるんですか?
- 安形 まずは、近いページ同士の内容は似ている、ということがわかりました。4ページと5ページは似たようなことが書かれているけれど、4ページと40ページを比べるとそうではない、といった感じで。
もうひとつ、ヴォイニッチ写本をいくつかの章に分け、その中身を比べていきました。挿絵があるので、それを基に大まかなテーマごとに内容を区切ることができるのですが、そうすると前から順番に「植物」「天文」「生物」「十二宮図」「薬草」「レシピ」の6つの章に分けられます。 - 安形 私たちはページをひとつのかたまりにした「章」と、ひとつひとつのページとを比べていきました。そうすると、「植物の章の中にあるページ」は、ほかのどの章よりも「植物の章」と似ている。同じように、「天文の章の中にあるページ」は、ほかのどの章よりも「天文の章」と似ている。挿絵ばかりでデータが少なかった「十二宮図」を除けば、どの章でも同じことが言えたんです。
- なんだか、とっても当たり前のことに聞こえます。
- 安形 そう、その「当たり前」というのが重要なんです。ふだん手にする普通の本を思い起こしてみてください。隣り合うページの内容は近しいし、ひとつの章の中には似たことが書かれたページが集まっているはず。
つまり裏を返せば、ヴォイニッチ写本は世の中にあるたくさんの本と同じような構造を持っている、ということです。
先ほど、ラグが“偽のヴォイニッチ写本”をつくることに成功した、と言いましたよね。私たちは本物の写本と、ラグの偽物と、中世に書かれた別の錬金術の本についてクラスタリングを行ってみたんです。つまり、
・ヴォイニッチ写本
・偽のヴォイニッチ写本
・錬金術について書かれた中世の写本
この3つについて、それぞれのページの類似度を調べてみたわけです。 - おお! つながってきた!
- 安形 すると、ヴォイニッチ写本と中世に書かれた写本の近接ページ間の類似性という特徴はとても似ていたのですが、プログラムでつくられた“偽のヴォイニッチ写本”にだけは、その特徴は見られなかったんです。
一見ヴォイニッチ写本ふうの言葉をつくれるラグの暗号作成方法でも、ページ同士のつながりまでは再現できなかった。ここからも、ヴォイニッチ写本はただデタラメに書かれているわけではなく、文章の構造としても、世の中にある普通の本とかなり近いことが見えてきたわけです。 - 普通だ、というのも大きな発見なわけですね。
- 安形 はい。私たちの研究は、「この本の解読に努力することには、意味がある」ことを、まずは示したといえるかも知れませんね。
だって、未解読な文章とはいっても、それが精巧につくられたデタラメであったら、どれだけ時間をかけても答えは見つからないわけですから(笑)。
私たちは、何かきちんとした手がかりがあればいつか解読可能だろうと考えています。 - 解読の手前だけれど、貴重な1歩目は踏み出したというわけですね。そうなると、次に待っているのはいよいよ解読作業ですが、内容についてわかっていることはあるのでしょうか?
- 安形 そうですね、ひとつには、ヴォイニッチ写本に書かれているのは暗号ではない、という結論を私たちは持っています。
- 暗号ではない?
- 安形 暗号というのは、すでに存在している言語に手を加えて、別の言葉に置き換える方法ですよね。もし簡単な暗号であれば、ヴォイニッチ写本はすでに解読されているはずです。あるいは、ナチス・ドイツが使っていた暗号機「エニグマ」のように、単純にある文字と文字を入れ替えるのではなく複雑に組み替えていく方法だと、言葉がぐちゃぐちゃに混ざってしまい、クラスタリングで見えるようなまとまりは現れない。
ですから、ヴォイニッチ写本は既存の言語を下敷きにした暗号ではなくて、誰も知らない何らかの言語で書かれていると考えることができるんです。
エスペラント語という人工的につくられた言葉がありますが、同様にオリジナルの言語をつくる試みは古くからあります。ヴォイニッチ写本はその初期の例なんじゃないか、というのが私たちの見解ですね。有名な暗号解読者ウィリアム・F・フリードマンが出した結論と同じということになります。 - なるほど。誰も知らない謎の言語で書かれた書物…。果たして、これを読めるのはいつ頃になるのでしょうか…?
- 安形 うーん、なんとも言えませんね(笑)。ただ、じつは近年“ヴォイニッチブーム”が再燃していて、研究が加速している感じはありますよ。
- そうなんですか?
- 安形 ええ。近頃、ビックデータやディープラーニングの研究が流行っていますよね。その流れで、こうした本の研究分野でも、いわゆる人文学のように内容をじっくり読み込むのではなく、中のテキストをデータとして機械的に扱う手法が増えてきたんです。
ヴォイニッチ写本はデータがすべてweb上で公開されていますから、研究のための素材が手に入りやすい。なので、こうした最新の技術が解読のきっかけになるんじゃないか、とも期待されています。 - なるほど、100年経っても誰も解読には至らないものの、まだ希望は残されているんですね!
- 安形 そうなんです。とはいっても、データがこの本1冊しかありませんから、このデータ量では解読できないだろうと言う研究者もいます(笑)。
ただ、じつは昨年、ヴォイニッチ写本と同じように未解読であった『ローホンク写本』と呼ばれる写本の解読に成功したとの発表が暗号専門誌に掲載されました。内容は慎重に判断されないといけませんが、解読の整合性はありそうだと見られています。
こうした事例も参考にしながら、私たちも前提の証明で終わらず、さらに研究を進めていきたいと思っています。 - 安形 あ、そうそう、余談になりますが今日は持ってきた本が2冊あって。ヴォイニッチブームの一端を感じられるかもしれません。
- これは児童書…ですか?
- 安形 はい、『怪盗クイーンと魔界の陰陽師』という本で、小学生の息子の私物です(笑)。ある日、私がヴォイニッチ写本のシンポジウムの準備をしていると、息子が「僕この本(ヴォイニッチ写本)を知ってるよ」と言い出したんです。理由を聞いてみると「読んだ本に出てきた」と。
- 「錬金術の大いなる秘法が記されているというヴォイニッチ文書…」なんてふうに書かれていますね。
- 安形 あらすじに出てくるぐらい、この物語の重要なアイテムとして登場するんです。
- へー! 子どもの読む本にまで登場しているんですね。
- 安形 それと、もう1冊。
- これは、写真集、ですか?
- 安形 そうです。ただ、中を開いてみると…。
- わっ! 小さい!
- 安形 これは、先ほども言った所蔵元のイェール大学が公開している写真データを、そのまま印刷しただけのものなんです。しかも、元はとても高精細な画像なのに、なぜかこんなに小さく印刷して!
導入部分もなければ、解説もない。本当に、ただ写真を印刷しただけの本なんですが、6000円ぐらいする代物でした。しかも、著者名には「Hands P. Kraus」とありますよね。 - ええ。誰ですか?
- 安形 ヴォイニッチ写本は発見者のヴォイニッチの死後、何人かの手に渡って、最終的に古書店主の「Hans P. Kraus」によってイェール大学に寄贈されました。
- ん? 名前が微妙に…
- 安形 そう、もともとは「Hans」なんですが、この本の著者名はなぜかそれに1文字足して「Hands」という名前で発行されているんです。もう、実にいい加減で意味がわからない(笑)
- 細部までふざけた本ですね(笑)。
- 安形 本当に! ただ、こういったうさんくさい本が出るところが、“ヴォイニッチらしい”ですよね。
1976年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学文学部教授。専門は図書館・情報学、書誌学。グーテンベルク聖書を中心とする初期印刷本の書誌学的研究など。
ヴォイニッチ写本は100万円で買える
(慶應義塾図書館所蔵 120Y@1104@1)
アメリカの諜報機関も注目した暗号システム?
解読することには、100%意味がある
「文書クラスタリングによる未解読文書の解読可能性の判定:ヴォイニッチ写本の事例」
『Library and Information Science』(2009年, no.61, p.1-23)
ヴォイニッチ写本に書かれているのは、暗号ではない。
ヴォイニッチブーム…?
●ヴォイニッチ写本の全容は、イェール大学のウェブサイトで閲覧可能。
Cipher Manuscript - Beinecke Digital Collections.
●概説書を日本語で読むこともできる。
ゲリー・ケネディ、ロブ・チャーチル著、松田和也訳『ヴォイニッチ写本の謎』(青土社)
「読書の達人」特集、次回は『ヴィンランド・サガ』作者の幸村誠さんにインタビュー! 新刊を年間100冊以上確実に読んでいるという人気漫画家が、どんなふうに読書時間を確保しているのか聞いてきた。