向井秀徳

あの人に聞くデビューの話 第6回 後編 [バックナンバー]

向井秀徳が振り返る上京~メジャーデビュー

終わりなき日常の街・渋谷から始まった東京生活

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音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、向井秀徳をゲストに迎えてお届けする。向井が結成したNUMBER GIRLは1997年に福岡のインディーレーベルより1stアルバム「SCHOOL GIRL BYE BYE」をリリース。当時、東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で新人発掘を手がけていた加茂啓太郎氏がその作品を手にしたことでバンドの運命は大きく動き始める。

取材・文 / 松永良平 撮影 / 沼田学

刺し殺すような気持ちで臨んだ東京初ライブ

──97年の秋、渋谷のHMVでNUMBER GIRLのCD「SCHOOL GIRL BYE BYE」を手にした加茂啓太郎さんからコンタクトがあったんですよね。

97年の暮れでしたね。東芝EMIの人がライブを観たいと言ってるとAutomatic Kiss Recordsの羽生(和仁)さんから連絡が来たんです。そこで私は非常に構えましたよ。メジャーレーベルの人間がやって来るということに対して。ある意味、敵対心さえ持ってその日を迎えたわけです。そしたら加茂啓太郎じゃなくて、彼の部下である吉田昌弘というディレクターがやってきたんです。それでライブが終わったあとに吉田さんと長時間、話をしてですね。勝手な先入観で偉そうな業界人っぽい人をイメージしてたんだけど、吉田さんは気のいい兄ちゃんみたいな人だったんですね。だから話しやすかった。2人で缶ビールを山ほど会場で飲みました。

──敵対心があっさり消えた(笑)。

吉田さんとは変に身構えることなく話すことができたんです。しかも、そのときはデビューに向けての勧誘話じゃなかった。今日ライブを観てすごくよかったから、東京でライブをやってみませんか?という誘いを受けたんです。当時の我々は活動範囲がすごく狭い状況だったし、それを広げる方法を知らなかったわけです。吉田さんは仕事柄、下北沢であるとか東京のライブハウスにつながりがあるし、いろんなサポートができると思うと言ってくれて。そこで私は「よし!」と奮い立ったよね。「なるほど、下北沢か」って。下北沢がどんなところかもわからなかったんだけど。

──福岡でバンドをやり続ける、ではない新しい選択肢がそこで生まれたわけですね。

やっぱり状況的に福岡だけでは頭打ちというかですね、そういうことを思い始めてましたから。CDもリリースしたし、いろんなところに行ってみたいなと。そういうタイミングでお話がありまして、ライブをしに行くことになるんだな、東京に。

福岡時代のNUMBER GIRL(1997年撮影)。(提供:ユニバーサル ミュージック)

福岡時代のNUMBER GIRL(1997年撮影)。(提供:ユニバーサル ミュージック)

──そして、年が明けて東京へ。

初めて東京にライブで行った日のことは、はっきりと覚えてますよ。会場は下北沢SHELTERだった(1998年3月12日)。ライブの内容はまったく覚えてないけど、その1日はすごく覚えてる。アヒト・イナザワの実家のワゴン車に乗って我々は東京に向かった。NUMBER GIRLの4人、そしてバンド友達の2人が運転とかいろいろでサポートしてくれて。計6人で向かったわけだけど、むちゃくちゃ時間がかかったんですよ。サービスエリアでよく休憩するから15、16時間くらいかかった(笑)。

──遠路はるばる陸路で行ったんですね。

東名高速に入って東京が近づいてくるにつれて、私の顔が険しくなっていったと、あとになってほかの人たちに聞いたんです。東京に立ち向かっていたんですよね。東京という街の存在に対して負けてなるものかと勝手に思い込んでいた。敵対心。そう、敵対心なんです。必要のない敵対心で挑むわけ。東京という街は「警察24時」というテレビ番組を観る限り犯罪都市であり、東京の人はみんな心が殺伐としてるみたいなイメージを持ってるわけ。東京の人たちに俺らのバンドの音をぶつけるということは、本当に「刺し殺す」みたいな気持ちに近い。それで顔が険しくなっていくわけですね。

向井秀徳

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──そこまで思い詰めましたか。

東京の街に入ったら今度は、陸橋を右折するために側道に入らなきゃいけないとか、そういうシステムは福岡にはないから戸惑ったね。「曲がるところ通り過ぎた!」って(笑)。アヒト・イナザワが運転して、私が助手席でゼンリンの地図を見ながらナビゲートするわけだ。下北沢は一方通行ばっかりで、「世田谷迷宮」って呼んでるんですけど、まったくSHELTERにたどり着かないわけですよ。「本当にあるんか?」っていうぐらい。SHELTERに着いたときには夢の中にいるみたいな感じでね。で、初めてのライブをやるんですけども、その内容は覚えてない。必死でやったんでね。つまり誰も我々のことを知らない。誰も知らないところにほっぽり出されたような気持ち。それで、こっちは「上等だ!」って盛り上がるわけだ。「刺し殺してやる!」みたいな感じで(笑)。

──そこからやがてあの口上「福岡市博多区からやって参りました」が生まれてゆくと考えると、なんとなく自然ですね。

私はまさに福岡市博多区に住んでおりましたのでね。ほかのメンバーは城南区とかに住んでいた。私は博多区に住んでたから「博多区からやってまいりました」ということになるわけ。自己紹介ですね。

──刺し違えるために名乗りをするという。

仁義を切るというかね。SHELTERっていうライブハウスがまた福岡にない感じだった。東京にはこういう場所がいっぱいあるんだと思いましたよ。ライブのあとに打ち上げをするのは全国共通だと思うんですけど、我々の場合はライブのあとは絶対に親不孝通りの「ふとっぱら」っていう居酒屋の2階に繰り出すっていうパターンだった。

──97年に出会った夜に行ったのも、ふとっぱらだったかもしれない。

ははは。ビール瓶をぶち割って「なんか? きさん?」っていう声が聞こえてくるようなね、ふとっぱらはそういう雰囲気の店なんです。東京のライブハウスは、終演後に会場で打ち上げをするっていうのをそのとき知ってですね。ドリンクもあるし軽いフードもあったりして、これは楽しいなと。対バンの人たちと話したりしてさ。全然ジャンルが違うような人たちでも打ち上げで飲んだりしたら、いろんな話をすることになるんですよ。楽しかったですね。

向井秀徳

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メンバー全員仕事を辞めて東京へ

──そこにいよいよ加茂さんが来て?

もちろん来てます。SHELTERで1回目にやったときは、会社関係の人がかなり観に来たね。実際に観ないと判断できないっていうのがあったんやろうし。加茂啓太郎に会ったのはSHELTERでライブをやった前の日なんですよ。そのときは何日か東京に滞在したんです。いきなり下北沢に行ったわけじゃなく、まず前日に当時は赤坂にあった東芝EMIに行ってリハーサルをした。5階にあった自社スタジオを使ってリハーサルしていいよと。そこで加茂啓太郎に会いました。楽器を車から下ろしてセッティングしてるときでしたね。第一印象は、うさんくせえなって。そのとき言われたひと言目が忘れられない。「黒夢みたいな歌い方はやめたほうがいいよ」って。

──え? そんな感じ?

正直ズレとるなと思った。「とにかくボーカルのレベルが低い。聴こえない」。そういうダメ出し。会った瞬間ですよ。こっちはもうただでさえピリピリしてるから「何言っとるんだ、お前?」って。それがファーストコンタクト。福岡で加茂啓太郎とファーストコンタクトしてたら東芝EMIでリリースしてないかもしれない。それくらい印象が悪かった。でも、あとから聞くと加茂さんの中では言いたいことが山ほどあったみたいやね。会ったときには、すでにNUMBER GIRLのファンになっていて、言いたいことがいっぱいありすぎて、ついつい、そういうキツい言葉が出てきたみたいで(笑)。

──思いが強すぎて告白するときに失敗するパターンみたいな(笑)。でも結局、すんなりと東芝EMIでデビューすることが決まります。

SHELTERでライブをやったあと、東芝EMIからNUMBER GIRLをデビューさせたいと正式に誘いがあったわけですよ。そして、活動助成金みたいなやつをくれることになったんです。そんな大きな金額じゃないんやけど、そこでウヒョー!となって、みんなバイトや仕事を辞めることになった。当時、ギターの田渕ひさ子はまだ正社員でしたからね。そこで私がメンバー1人1人と個人面談したんだね。またしても親不孝通りのふとっぱらで。

──このバンドに専念するか?って。

意思確認というかね。いずれ東京に移住してバンド活動してデビューする気はあるか? そして今までのように仕事しながらじゃなくて、音楽だけを集中してやることになるから大変なことが待っているよ。その覚悟はあるか?ということを確認したと思うんよね。そしたら全員が「それやらなきゃ、なんばすっとや」って答えてくれた。「里見八犬伝」みたいだ!と思ったね、私は(笑)。とにかく、やろうやろうと盛り上がったわけですよ。そこからデビューの準備に取り掛かるわけよね。片道15時間かけて車で東京に行っては2週間くらい滞在するということを繰り返しました。我々が住んだのは高田馬場のウィークリーマンション。田渕ひさ子は東京に女性の友達がいてそこに停泊していた。男3人はタコ部屋よね(笑)。

──いわば合宿みたいな日々の始まりですね。

滞在中はEMIが毎日ライブをブッキングしてくれてるもんやから、いろんなところに行った。あれも刺激的だったね。それまで毎日ライブをやることも経験してないからさ。「いっぱしのバンドマンやないか!」って、みんなで話したよね。最初のSHELTERのときから加茂さんや吉田さんがいろんな人に声をかけてくれて。「VIVA YOUNG!」の倉山(直樹)さんとか、あとはスマイリー原島さん、古閑さん(裕 / KOGA RECORDS)とか。まあ古閑さんは呼ばれてなくても、いつもSHELTERにいるんだけど(笑)。みんな個性的なんですよ、これがまた。総じて楽しいなと思ったわけですよ。いろんな人がいるんだなと思ってですね。

──しかし、徐々にツアーの範囲を広げていったとかではなかったんですね。博多の「チェルシーQ」から、いきなり東京で、連日のライブという展開。

当時はライブのたびに手応えを感じていましたね。こっちのことは誰も知らないんだけど、やればやるほどわかりやすいくらい反応があるんですね。「ただじゃ返さんぞ!」って気持ちで毎回やっていたから、それが届いたんでしょうね。最初期の東京ライブですよね。EMIも手応えを感じたんでしょう。我々は完全に移住することになる。1998年の9月ですよね。

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終わりなき日常の街・渋谷から生まれた「透明少女」

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“大変なことが待っているよ。その覚悟はあるか?ということを確認したと思うんよね。そしたら全員が「それやらなきゃ、なんばすっとや」って答えてくれた。「里見八犬伝」みたいだ!と思ったね、私は(笑)” / “向井秀徳が振り返る上京~メジャーデビュー | あの人に聞くデ…” https://t.co/7ZtAODI5m5

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