日系カナダ人の歴史
初期の歴史
明治時代になると日本の社会は次第に自由になり、若い人たちは外国に出かけるようになった。日本人で初めてカナダに定住した記録のある人は1877年の永野萬蔵(ながのまんぞう)である。永野以前にも日本の漁師でブリティッシュ・コロンビア州の西海岸に遭難して流れ着いた人がいたという記録がある。
その後、日本からの移民の波があり、特に若い日本人男性がカナダにおしよせた。ある者は冒険を求め、ある者は富を、またある者は制約の多い日本の家制度を逃れてカナダに来た。そして1901年までには5,000人余りの日本人がカナダで暮らしていた。
カナダに住む独身日本人男性は写真と手紙を交換して日本から花嫁を呼び寄せた。これらの「写真花嫁」は1908年からカナダに来るようになり、その数が一番多かった1913年には300人から400人に達した。カナダ政府は1885年にはすでに人頭税を導入して中国からの移民を制限しようとした。しかしこのような制限は当時の日本からの移民には適用されなかった。1905年から1907年にかけてカナダに日本から来る年間の移民数が最大になった。1907年までにカナダに住む日本人の数は18,000人に達した。
日本移民の大多数は農民または漁民であったが、商人もいた。日本移民のごく一部だけが教育程度が高い上流階級からであった。日本移民は選挙権を持てないために選挙に参加出来ず、また専門職や公務員になれなかった。
1900年にカナダ市民権を獲得したトメキチ・ホンマは選挙人名簿に登録しようとしたが拒否されたので裁判所に上訴した。日系カナダ人は専門職に就けなかったために林業、鉱業、漁業、商業に職を求めた。白人社会でアジア系移民排斥の気運が高まり1907年9月7日、大勢の怒り狂った白人の暴徒がバンクーバーのチャイナタウンをデモして商店のガラスを破り、店内に侵入して住人を怖がらせた。次に暴徒は日本人街のあったパウエル・ストリートにおしよせた。暴徒が来るのを知っていたパウエル・ストリートの日本人は暴徒と戦い、押し返したけれども、商店やビジネスは大きな被害を被った。このようなアジア系移民に対する白人カナダ人の敵意は初期の日本移民が受けた人種差別が激しくなったもので、日本移民はその後、長らくこのような経験をしなければならなかった。ブリティッシュ・コロンビア州にアジア系移民が定住するのを妨げるために連邦政府は非白人に対する人種差別な法律を幾つも作った。その一つが1908年に日本政府と結んだ協定で、これにより日本からの男子成人の移民は一年400人に制限された。女性および子供の移民制限はなかった。
1931年、第一次世界大戦に志願兵として参戦した日系カナダ人に選挙権が与えられた。日系カナダ人で参政権を得たのはこの人達だけである。
カナダ連邦政府は1941年12月8日に開戦した太平洋戦争を「日本人問題」を除去する良い機会と捉え、1942年1月8日、戦時特別法を発令して日系カナダ人から市民としての権利を剥奪し、連邦政府に無制限の権力をあたえた。また戦時特別法による連邦政府の政策に市民は裁判で争うことが出来なかった。日系カナダ人は敵性外国人と分類され「日本人を祖先に持つ人」と一括された。
幾つもの内閣条例が連邦議会で承認され、日系カナダ人の権利は次から次へと剥奪された。パールハーバー攻撃の六ヶ月前に18歳以上の日系カナダ人は指紋をとられ連邦警察に名前を登録された。日系カナダ人はすべて1949年までに身分証明証を所持することが義務付けられた。
第二次世界大戦の経験 ― 日系カナダ人の強制収容と分散
1942年2月7日に連邦政府は内閣条例第365号を発令してブリティッシュ・コロンビア州本土の西海岸から100マイル以内を「保護地区」と定めた。ブリティッシュ・コロンビア州公安委員会と連邦政府の機関にこの保護地区から日本人を祖先に持つ人をすべて排除する権限を与えた。ブリティッシュ・コロンビア州西部海岸地域の日系カナダ人はバンクーバーのヘイスティング・パークの家畜展示場に収容された。
日系カナダ人家族はばらばらにされ、男性は道路建設現場、オンタリオ州の捕虜収容所に送られた。男性で家族と一緒に残り、マニトバ州またはアルバータ州の砂糖大根農場に行ったものもいる。農場では、骨の折れる労働をして僅かな収入を得、粗末な住居で生活して、極寒の冬を過ごさねばならなかった。
強制収容所はブリティッシュ・コロンビア州の内陸部に作られた。収容所は急造の粗末な建物、テント、もと鉱山町のゴーストタウン、廃屋などで、数家族が一つ屋根の下で過酷な生活を強いられた。
あとに残された日系カナダ人の財産はトラストとして保持されるべきものだったが、1943年1月19日に連邦議会を通過した内閣条例第469号は、連邦政府が財産の持ち主の承諾なしに売却する権限を与えた。1945年12月12日に行われた連邦警察の忠誠心調査は、ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人をすべて排除することを保証した。日系カナダ人への最後通告は、ロッキー山脈の東への移動か、日本への追放である。この移動制限は、その後、四年も続き、1949年4月1日まで日系カナダ人は西海岸に戻ることを許されなかった。同じく、日系カナダ人が連邦政府の選挙権を得るのも1948年6月、ブリティッシュ・コロンビア州の選挙権を得るのも、1949年3月31日になってからであった。
再生 ― 日本人カナダ移民100年記念と補償問題
1977年にカナダの日系人社会は日本人カナダ移民100年祭を祝う。カナダ各地で記念行事が行われ、日系カナダ人社会が第二次世界大戦中の経験を含む自分たちの歴史に向き合うようになる。
全カナダ日系市民協会は、日系社会の福利を代弁するため1947年に設立された。1980年に、全カナダ日系人協会と名称を変更し、戦時補償運動をコミュニティ・プロジェクトとした。勇気と決意をもって、リーダーたちは忍耐強く、無数の障害を克服していった。
1988年9月22日に戦時補償問題の合意書が全カナダ日系人協会会長アート・ミキと連邦政府首相ブライアン・マルルーニとの間で締結された。首相は日系カナダ人が連邦政府によって被った不正義を認めた。首相は日本人の被った不正義を道徳的にまた法律的に正当化することは出来ないと述べた。そしてカナダ人すべてが、日系カナダ人が被った強制収容、財産の没収、参政権の剥奪という歴史的な事実に向き合い、このよう出来事を二度と容認しないよう、或いは、繰り返さないようにと述べた。(連邦議会下院議事録、1988年9月、19499ページ)
補償問題合意書
カナダ人は国民として人種及び民族的起源を問うことなく万人の平等と正義を保障する社会を創造することを明言する。
第二次世界大戦中及び戦後、その大多数がカナダ市民であった、日本人を先祖とするカナダ人は、カナダ政府が日系人社会に対して行った前例なき行為によって損害を被った。当時軍事的に必要だと考えられていたとしても、第二次世界大戦中の日系カナダ人の強制移動と収容、そして戦後の強制送還と追放は不当なものであった。
振り返ってみると、選挙権剥奪、抑留、個人及びコミュニティの財産の没収と売却、追放、強制送還、行動の自由の制限と戦後まで続いた政府の政策は人種的差別思想に影響されたものであった。収容された日系カナダ人は、その財産を清算させられ、売却収益は自分たち自身を収容するための経費に当てられたのである。
これらの不正義を認知することは、過去に行われた越権行為が非難されるべきものであり、カナダにおける正義と平等の原則が改めて確認されるべきものであることを全カナダ人に告知する。
それ故に全カナダ人を代表してカナダ政府はここに次のことを行うものとする。
1)第二次世界大戦中及び戦後の日系カナダ人の取り扱いは不当なものであり、今日理解されているように、人間としての権利を侵害するものであったことを認める。
2)政府に許されている最大の権限をもって、同様の事態が再び起こらないように務めることを誓う。
3)多大の圧迫と苦難にもかかわらず、カナダへの献身的姿勢と忠誠を保持し、国の発展に多大な貢献をした日系カナダ人の不屈の精神と決意を大いなる尊敬の念をもって称賛する。
カナダ首相 ブライアン・マルルーニ
注:この全カナダ日系人協会とカナダ連邦政府との補償問題解決の合意書の日本語訳は次の書物を参考とした。ロイ・ミキとカサンドラ・コバヤシ共著、佐々木敬二監修解説、下村雄紀、和泉真澄訳、「正された歴史 日系カナダ人への謝罪と補償」(つむぎ出版、京都市、1995年)
今日の日系カナダ人
補償問題の合意には象徴的な個人補償(それぞれの日系カナダ人の被った被害の金銭的な全額補償ではない)と日系カナダ人社会再生基金が含まれている。これから10年間にカナダ各地で文化センターが建設され、日系カナダ人補償問題基金によって支援されたさまざまなプロジェクトが遂行される。
各地の日系人社会の活性化にも関わらず、強制分散政策により、日系カナダ人の異民族間結婚の比率が高くなり、カナダにおける日系人コミュニティの成長に影響を与えた。補償問題の合意にはカナダ人種関係財団の設立も含まれていた。補償問題の合意に至るまでの活動により、日系カナダ人は自分たちの経験を語る勇気と自分たちの文化遺産にたいする誇りを取り戻した。
ビデオ―ブリティッシュ・コロンビア大学の学生
日系カナダ人年表、1833年から2000まで
1833年
記録に残る最初の日本の難破船がカナダ太平洋沿岸のクイーン・シャーロット島に(後のブリティッシュ・コロンビア州の島)流れ着き、生存者二名がハドソンンズ・ベイ会社に保護されてイギリスに連れて行かれた。それから何十年間の間、日本の難破船が何回もカナダ西海岸に流れ着く。船乗りの何人かは日本に帰れたが、鎖国政策をとる徳川幕府に罪に問われたかもしれない。またブリティッシュ・コロンビア州沿岸の原住民との生活を選んで定住した船乗りの話もある。
1873年
二人のカナダ人宣教師が日本に行った。宣教師は幾つかの学校を日本で作り、日本の教育制度の近代化に貢献した。
到着
1877年
永野萬藏(ながの まんぞう)がブリティッシュ・コロンビア州ニュー・ウェストミンスターに到着して定住する。日本人移民の第一号である。
1887年
和歌山県三尾村の漁師工野儀兵衛(くの ぎへい)はカナダに来てからまた和歌山に戻り、自分の村の人と一緒にカナダに来てフレーザー河河口のスティーブストンに落ち着く。第二次世界大戦までにスティーブストンはカナダで二番目に多くの日系カナダ人の住む町になった。三尾村、通称アメリカ村は日本人のカナダ移民の最大の供給地となった。
正式には日本人のカナダへの移民は横浜とカナダとの間の蒸気船定期航路の開始と共に始まった。
最初の日本人女性のカナダ移民は、バンクーバーのパウエル・ストリートで店を始めオウヤ・ヤスジと一緒に暮らし始めたシシドウ・ヨウである。
1889年
オウヤ夫妻に最初の日系カナダ人二世のカツジが生まれる。
バンクーバーに日本帝国領事館が設置される。
1893年
タナベ・ヨウイチがバンクーバーの中国人の仕立屋で徒弟をし、その後カナダで初めての日系カナダ人の仕立屋を開業する。
白人とカナダ先住民の漁師がストライキをして、日系カナダ人漁師の漁撈ライセンスの数を減らすことを要求する。
1895年
ブリティッシュ・コロンビア州政府がアジア系カナダ人の参政権(投票権)を停止する。
1896年
鏑木五郎が日本メソジスト派教会で日本人牧師の第一号となる。日本語の週間ニューズレター、「バンクーバー週報」を発行する。
1897年
本間留吉を会長とする日本人漁師団体がブリティッシュ・コロンビア州スティーブストンに設立される。
1898年
近村徳太郎と加藤ツキチがパウエル・ストリート230番地の不動産を買う。これが日本人移民がパウエル・ストリートに不動産を持った最初である。
1900年
バンクーバーで宿泊施設を経営するカナダに帰化した本間留吉が選挙人名簿に名前を記載するように申請するが、選挙管理人に拒否される。これを契機にブリティッシュ・コロンビア州の判事が越権行為をして、アジア系カナダ人は全て選挙権が無い、と宣言する。しかしこれは1902年に英国枢密院で破棄される。
1904年
横浜から来た庭師の岸田伊三郎がビクトリア市に日本庭園を設計する。この庭園はすぐに評判を呼び、本間は日本風の石庭の設計を依頼される。この石庭の設計は後に、世界的に有名なビクトリア市のブッチャート庭園で採用される。
1905年
カナダで初めての仏教会がバンクーバー市パウエル・ストリート街の石川ホテル内に作られる。
1906年
7月 カナダで最初の日本語学校、バンクーバー共立日本国民学校がアレクサンダー・ストリート439番地に設立される。校舎は木造であったが、すぐ隣にレンガの校舎が増設される。1920年に名前をバンクーバー日本語学校に変える。
バンクーバーのロード・ストラスコーナ公立学校に日系カナダ人の生徒が初めて入学して白人の生徒と一緒に勉強する。
イナマス熊太郎が日系カナダ人として初めて南アルバータに住む。
1906年から1908年にかけて9,000人余りの日本人がカナダに移民する。
1907年
9月9日 白人至上主義の暴徒がバンクーバー市の日本人街と中国人街を襲撃して多大な被害を及ぼす。この暴動の直後にバンクーバーのアジア系労働者はジェネラル・ストライキを敢行する。
1908年
日本とカナダの間に林-レミュー紳士協定が結ばれ、以後日本からのカナダ移民は一年に男子移民400名と家事手伝い、それに日本に帰国していた日系カナダ人とその家族のみに限られる。
写真結婚で日系カナダ人男子が日本から花嫁をカナダに呼び寄せることが多くなる。
1909年
日系カナダ人商工人名録によるとパウエル・ストリートに568の店舗があった。
1910年
3月5日 ロッキー山脈の難所ロジャーズ・パスで雪崩が起こり62名が生き埋めになって死亡した。このなかに32名の日本人一世がいた。カナダ日系人の歴史で最大の事故である。犠牲者の遺族は一家族220ドルの慰霊金をもらった。
野球は日系カナダ人の間で大変人気があった。二つの地域社会から生まれた野球チーム、ビクトリア・ニッポンズとバンクーバー・ニッポンズの間で最初の地域対抗野球が行われた。
1912年
バンクーバーに朝日野球チームが結成された。チームは犠打、盗塁、捕球のうまさですぐに有名になる。チームはブリティッシュ・コロンビア州ロウアー・メインランド地区で最も人気のあるチームになり日系人以外にもファンがたくさんいた。
1916年
チトセ・ウチダが二世として初めて大学を卒業して教員資格をとった。しかし、学校に職を得ることが出来ず日系社会で英語を教えることになった。
日系カナダ人が戦争に行く
1916年から1917年
カナダに対する忠誠を証明するために200人余の日系カナダ人がカナダ軍に志願した。しかしブリティッシュ・コロンビア州で拒否され、195名の一世と1名の二世(ジョージ・ウエハラ上等兵)はアルバータ州に行き、イギリス軍のカナダ大隊に志願して受け入れられた。第一次大戦のヨーロッパの戦場で戦い、54名が戦死、92名が傷痍した。
1918年から1919年
カナダ全土にインフルエンザが流行して、日系カナダ人100名が死亡する。
1919年
カナダ西海岸の日系人漁師が西海岸の漁業許可証の約半分(3,267)を持つ。カナダ連邦政府漁業省は「白人、英国民、カナダ原住民以外」への漁業許可証を制限する。1925年までに1,000近くの漁業許可証が日系カナダ人から取り上げられた。
1920年
鈴木悦の指導で日系カナダ人の製材所勤務の労働者が日系カナダ人で初めての労働組合、日本人労働組合を結成する。
4月9日 第一次大戦日系人志願兵慰霊碑がビミー・リッジの戦いの三周年記念日にバンクーバーのスタンレーパークで除幕された。砂岩の台石の上に大理石の灯籠が置かれて常時点灯されている。式典で英国カナダ派遣軍第52大隊退役兵ヤスゾー・ショージ軍曹は「我々日系カナダ人はカナダから恩恵を受けていることを忘れない。英国が参戦したときに英国とカナダの共通の敵と戦うために志願したことを誇りに思う。」と述べた。
1922年
スティーブストンのロード・バイング分校(日系カナダ人および他のカナダ人が生徒)がブリティッシュ・コロンビア州で初めて日系カナダ人の教師、ヒデ・ヒョウドウを雇う。しかしヒデ・ヒョウドウは日系カナダ人にしか教えることを許されなかった。
1924年
労働組合の機関紙「民衆」が鈴木悦の指導で発刊される。
1926年
朝日野球チームがターミナルリーグで優勝する。チームはその後15年間で幾つかのリーグ戦で優勝する。
1929年
ジュン・キサワが裁判で「日系カナダ人漁師はエンジンの付いた漁船を使ってはいけない」という法律を覆すことに成功する。
1930年
6月 バンクーバー島ケメヌスのシゲ・ヨシダが英連邦で初めて日系カナダ人のボーイスカウト支部を結成する。これに先立つ五年前にシゲ・ヨシダは地元のボーイスカウト支部に入会することを拒否された。シゲ・ヨシダは米国ボーイスカウト連盟の通信教育を受け、最高の成績を取り、ボーイスカウト支部を自分で結成する資格を獲得した。
1931年
第一次世界大戦に志願した日系カナダ人が選挙権を獲得した。他の日系カナダ人にはまだ選挙権が無い。
1936年
日系カナダ人市民連盟が結成され、オタワの連邦政府に選挙権獲得のための二世の市民代表団を送る。
1937年
3月から8月 カナダ連邦警察により、16歳以上の日系カナダ人はすべて登録を義務付けられる。
シューイチ・クサカがブリティッシュ・コロンビア大学を卒業し、プリンストン大学アルバート・アインシュタイン研究所に行く。
ビクトリア市75周年記念に日系カナダ人が数百本の桜の木を寄贈する。この桜は現在もビクトリアで花を咲かしている。
1938年
11月24日 日系カナダ人による最初の英字新聞、「ニューカナディアン」が発刊される。新聞の標語は「日系二世の声」である。最初の編集者はシノブ・ピーター・ヒガシであったがすぐにトム・ショーヤマが受け継ぐ。その後アイリーン・ウチダ、ムリエル・キタガワ、トヨ・タカタなど二世が編集を受け継ぐ。
最初のカナダ生まれの日系仏教会開教師にブリティッシュ・コロンビア州ミッションのタケシ・ツジが任命された。タケシ・ツジはその後米国に移り、米国仏教会司祭に選出される。
排除
1941年
1月7日 連邦政府内閣戦時特別委員会は多数決で日系カナダ人のカナダ軍隊への志願を禁止する。カナダ国民が日系カナダ人に対して深い疑念を持っている、というのがこの決定に賛成した人の理由である。
3月から8月 カナダ連邦警察によって16歳以上の日系カナダ人は全て登録を義務付けられた。
12月7日 日本軍がハワイ諸島のパールハーバーを攻撃する。カナダは日本に宣戦布告をする。内閣条例9591号、戦時特別法により、日本国籍を持つ人と1922年以降にカナダ国籍を獲得した日系カナダ人は2月7日までに敵性外国人名簿に登録を義務付けられる。
12月8日 カナダが日本に宣戦布告する。日系カナダ人が所有する1,200隻の漁船がカナダ海軍によって拿捕される。日本語学校が閉鎖になる。日系カナダ人の生命保険が取り消しになる。三つの日本語新聞が連邦政府警察によって閉鎖される。英文新聞ニューカナディアンがただ一つのカナダ日系人のための新聞となる。英文だけから日英両カ国語の新聞になり、日系社会の動向と政府の方針を知る情報源となる。
12月16日 内閣条例第9760号により日本人を祖先にもつカナダ人はカナダ国籍かどうかにかかわらず全て登録を義務付けられる。
スタンレー・パークの第一次大戦日系人志願兵慰霊碑の灯籠の火が消される。
23,303人の日本人を祖先に持つ人のうち、75.5%がカナダ市民(60.2パーセントがカナダ生まれ、14.6パーセントがカナダに帰化していた)であった。
1942年
1月16日 内閣条例第365号により、ブリティッシュ・コロンビア州沿岸100マイル内から敵性外国人男性が排除された。
2月7日 ブリティッシュ・コロンビア州沿岸100マイル内から18歳から45歳の男性日系カナダ人が排除された。
2月24日 内閣条例第1486号により連邦政府法務大臣は日本人を祖先に持つすべての人の移動を管理することが出来るようになった。
2月26日 日系カナダ人の強制移動が始まる。なかには24時間以内に移動させられた人たちもいた。自動車、カメラ、ラジオなどは保護という名目で没収された。夜間外出禁止令が出された。
3月4日 内閣条例第1665号により、日系カナダ人の財産は敵性外国人財産管理人により「保護の名目のためだけ」に差し押さえられた。
3月16日 強制移動の臨時の集合場所のバンクーバーのヘイスティングス・パークに最初の日系カナダ人の一団が到着した。日系カナダ人のすべての手紙が検閲の対象になる。
3月25日 ブリティッシュ・コロンビア州公安委員会は日系カナダ人の男性は道路の建設現場に女性はゴーストタウンの拘留キャンプに強制移動させる計画を始める。
4月21日 ブリティッシュ・コロンビア州グリーン・ウッドの拘留キャンプに強制移動の最初の一団が到着する。
5月21日 強制移動の最初の一団がブリティッシュ・コロンビア州キャスロー、ニューデンバー、スローキャン、サンドン、タシメに到着する。
6月29日 内閣条例第5523号により退役軍人定住局長官が日系カナダ人の農場を自由に売却または賃貸出来るようになる。572の日系カナダ人の農場が持ち主に相談することなく売却された。
11月30日 キャスローで「ニューカナディアン」新聞が再刊された。「ニューカナディアン」の編集スタッフは10月末にクータニー湖にあるこのゴーストタウンに到着した。この新聞はいろいろな強制収容所の様子や政府の方針を知る主要な情報源になる。
1942年末には12,029人がブリティッシュ・コロンビア州内陸部の強制収容所に収容され、945人が労働キャンプに、3,991人がプレーリー州(アルバータ州とマニトバ州)の砂糖大根農場、1,161人が「保護地域」外の自主自助地区、1,359人が特別就労許可を与えられ、699人がオンタリオ州の捕虜収容所に強制移動させられ、42人が日本へ送還され、111人がバンクーバーで拘束され、105人がヘイスティングス・パークの病院に収容された。約2,000人は
「保護地域」外にそのまま住むことを許可されたが、禁止物の所持禁止、登録の義務、行動の制限があった。
1943年
1月19日 内閣条例第469号により連邦政府の敵性外国人財産管理人が日系カナダ人の財産を本人の承諾なしに売却できるようになる。
収容所の日系カナダ人は、ロッキー山脈の東に移動することを承諾すれば、少しずつ解放されるようになる。しかし、反日感情が強く多くの都市(トロントを含む)では日本人の定住を拒否した。
「民主主義のための日系カナダ人委員会」と「日系カナダ人に関する協力委員会」(主に白人の教会グループ)が収容所から町への日系カナダ人の移動を助けるために設立される。
1944年
8月 連邦政府は日系カナダ人をカナダ全土に分散させ、カナダに忠誠な人と忠誠でない人を区別して、忠誠でない人は日本に追放するプログラムを発表する。
1945年
1月 英国政府の要請により日系カナダ人はカナダ軍隊に入隊出来るようになる。
収容所に残った日系カナダ人はカナダに忠誠であるかどうか詳しく調査され、日本に再び帰化するか、または直ちにロッキー山脈の東に移動するかの選択を迫られる。10,632人ほどの人はカナダに残っても将来が不安であり、またロッキー山脈の東で移動する町のあてもないので、日本に「再帰化」するという書類に署名した。しかし後にこのうちの約半数の人は署名を無効にする手続きを取る。
内閣条例第7335、7356、7357号により連邦政府は日系カナダ人のカナダにたいする忠誠を判断して、国外追放やカナダ市民権の剥奪を命ずることが出来るようになる。
1月から5月 アジアの極東地域で150人の日系カナダ人がカナダ軍に従軍する。
4月13日 ブリティッシュ・コロンビア州に住む日系カナダ人をロッキー山脈の東へ移動または日本へ追放するための恫喝が始まる。
8月15日 広島と長崎への原爆投下の後、日本は連合国に降伏する。
ニューカナディアン新聞はウィニペグにオフィスを移動する。ロッキー山脈以東への日系カナダ人の移動を支持する新聞の論説に沿ったものである。編集者のトム・ショウヤマはカナダ軍隊に志願し、ケーシー・オーヤマが編集者になる。かくして、ニューカナディアン新聞のキャスロー社は2年半で幕を下ろす。
1946年
1月1日 戦時特別法が終了したにもかかわらず、連邦政府は国家非常時暫定法を発動して日系カナダ人にたいする様々な差別措置を継続した。
5月31日 日系カナダ人の日本への「再帰化」が始まり3,964人が日本に帰った。このうちの大多数はカナダ市民権を持っていた。
12月 内閣は日系カナダ人の国外追放命令は合法的であるというカナダ最高裁判所の判決を支持した。この時までに4,000人余りが日本へ国外追放された。
1947年
1月24日 日系カナダ人の国外追放令は教会、学術団体、ジャーナリスト、政治家の抗議により無効になる。
4月 カナダ市民法により中国系および南アジア系カナダ人に選挙権が与えられたが、日系カナダ人とカナダ原住民は除外された。
7月18日 連邦裁判所判事ヘンリー・バードを委員長とする日系カナダ人の被害を査定する委員会が作られる。査定の結果、日系カナダ人は総額120万ドルの補償金を受け取る。連邦政府が没収、売却した日系カナダ人の財産の価値のほんの一部にすぎない。
9月 トロントの会合で全カナダ日系市民協会が設立する。
1948年
6月15日 カナダ法第198号でカナダ選挙法が改正され、日系カナダ人が選挙権を得る。
ニューカナディアン新聞がオフィスをトロントに移動してトヨ・タカタがケーシー・オーヤマに代わって編集者になる。
第二次世界大戦以後
1949年
3月31日 戦時特別法による最後の規制が解除され、日系カナダ人はすべての市民的権利およびカナダ全土の移動の自由を獲得する。
1950年 内閣条例第4364号により「敵性外国人」とされていた人たちがカナダに移民出来るようになる。日本に強制送還された日本人がカナダに再び移民出来るようになる。日本に帰った人の約四分の一がカナダに戻る。
1952年
バンクーバー日本語学校がアレクサンダー・ストリートで再開する。この学校の建物が戦後、日系コミュニティーに返還された唯一のものである。
1954年
ブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人社会の再建を助けるために日系カナダ人市民協会が設立される。最初の規約が1954年2月20日に制定される。協会は1985年12月18日に法人として登録される。
1958年
4月 バンクーバーの日系カナダ人市民協会の機関紙「ブレティン」が発行される。この日英両語の機関紙はバンクーバーに戻ってきた日系カナダ人の役に立った。
1964年
トロント市に日系カナダ人文化センターが開館する。
1967年
カナダ連邦政府は従来の人種別の移民政策を止め、ポイント制の移民政策を導入する。
レスブリッジに日加友好庭園が日本人カナダ移民百年祭にあわせて開園する。
1969年
遺伝学者のデービッド・スズキが最も優秀なカナダの若手科学者としてステーシー記念奨学金を授与される。デービッド・スズキは第二次大戦中の強制収容所の体験がある。1961年にブリティッシュ・コロンビア大学から博士号を授与される。1967年まで日系カナダ人が専門職、公務員、教師になるにはいろいろと制限があったが、デービッド・スズキはカナダで最も人気があり尊敬される科学教育者となる。
1973年
6月19日 ゲンゾー・キタガワがカナダ勲章を授与される。サスカチュワン州の日系カナダ人社会およびカナダ人一般の生活向上に貢献したことを評価される。
1974年
11月 日系カナダ市民協会にブリティッシュ・コロンビア州の日系カナダ人高齢者の住宅及び社会施設の必要性についての調査結果が提出される。
「隣組―日系カナダ地域社会ボランティア協会」が設立される。地域の日系カナダ人社会と連邦政府の地域活性化プログラムの援助により、隣組は日系カナダ人高齢者のための基礎的なサービスの提供を始める。最初は東ダウンタウン住民協会の提供してくれたオフィスを活動拠点にしたが、1975年にイースト・ヘイスティング・ストリート573番地にドロップ・イン・センターを開いていろいろな文化プログラムと高齢者へのサービスを提供した。
1975年
9月 グレーター・バンクーバー日系カナダ人高齢者住居協会が設立された。
1976年
7月 パウエル・ストリートに高齢者住居施設「桜荘」のための不動産を購入する。
8月 ケローナ日系カナダ人高齢者協会が設立される。
12月15日 遺伝学者デービッド・スズキにカナダ勲章が授与される。世界的に有名な遺伝学者であるデービッド・スズキは講演、ラジオ、テレビを通じて科学を一般の人に理解できるようにわかりやすく、面白く説明した。
12月15日 マサジロウ・ミヤザキがカナダ勲章を授与される。マサジロウ・ミヤザキは整骨医としてブリティッシュ・コロンビア州リロエットの住民、特に日系カナダ人と原住民にサービスを提供した。本人の健康がすぐれないときにもサービスを提供し続けた。
ケン・アダチの著書「敵では決して無かった人々 日系カナダ人の歴史」がマックルランド・スチュワート社から出版された。これは日系カナダ人の経験を記した最初の本である。
1977年 日系カナダ人100年祭
最初の日本人カナダ移民、永野萬蔵のカナダ上陸100年を祝うことで日系カナダ人は自分たちの仲間のつながりを新たにした。100年祭りのあと連邦政府により日系カナダ人が被った被害を正すリドレスを話すグループがいろいろなところにできた。
第一回パウエル・ストリート祭りがバンクーバーの東ダウンタウンのオッペンハイマー公園で開催された。このあたりは戦前に日系カナダ人が住んでいたところである。
バリー・ブロードフットの著書「悲しみと恥の年月、第二次世界大戦中の日系カナダ人の歴史」が出版される。この本は日系カナダ人の歴史を、1877年の日本移民のカナダ到着から第二次世界大戦中と戦後の分散まで、広範囲な口述歴史をもとにして年代順に記録している。最終的には、おおむね生存者の言葉によって語られた1877年から未来にわたるカナダの日本人の詳細な歴史となっている。
1978年
1月11日 芸術家、教師、作家のロイ・キヨオカがカナダ勲章を授与される。ロイ・キヨオカは四半世紀にわたりいろいろな形式の芸術作品、特に絵画を創作した。キヨオカの作品はカナダ全土の美術館に収められ、また海外の展覧会でも展示された。
タカイチ・ウメズキがカナダ勲章を授与される。ウメズキはトロント市で発行された日英両語新聞ニューカナディアンの出版者として60年近く勤め、日系カナダ人の生活を豊かにすることに貢献した。
7月4日 トーマス・ショーヤマがカナダ勲章を授与される。ショーヤマは日系カナダ人として初めて連邦政府のエネルギー・鉱山・天然資源省副大臣となり、その後、財務副大臣となった彼は、戦時特別法下のブリティッシュ・コロンビア州で単純労働者として働き始めた。後にサスカチュワン州のトミー・ダグラス首相の経済顧問となり大規模な社会政策の改善に助力した。1964年に連邦政府のカナダ経済委員会委員長となった。
7月4日 佐藤 伝(さとう つたえ)がカナダ勲章を授与される。佐藤はバンクーバー日本語学校の名誉校長であった。佐藤は半世紀にわたって日系カナダ人に日本語を教え、またカナダに日本文化の最良の要素を紹介することによってカナダ社会を豊かにした功績があった。
11月5日 日系カナダ人高齢者の宿泊施設「桜荘」がバンクーバーのパウエル・ストリートに開設された。
日系移民百年祭プロジェクトの本「千金の夢」が出版された。この本は写真により日系カナダ人の歴史を振り返ったものである。この本のために集められた写真はのちにカナダ全国で展示される。
1979年
7月25日 5人の登山者がバンクーバーの北250マイルにあるリバーズ・インレット湾の奥深いところに近いオウェキノ湖の横のマンゾウ・ナガノ山に登頂する。この山は1977年に連邦政府が最初の日本人移民永野萬蔵を記念して命名した。五人の登頂者は三人の萬蔵のひ孫とその義理の兄弟および友人である。五人は水上機でポートハーディーからオウェキノ湖に飛び、樹木の生い茂る谷を歩いて山の麓に到着した。そして6600フィートの山頂に登った。山頂にカナダ国旗と記念碑および家紋を置いてきた。山頂に達するまでに5日間かかった。これが初登頂である。リバーズ・インレット湾で漁をしていた、シアトル市のリンカーン・ベップが5人に周辺の情報を提供した。5人はジェームズ・ナガノとステファン・ナガノ(二人はシアトル市のポール・ナガノ司祭の息子)、デービッド・ナガノ(ロスアンジェルスのジャック・ナガノ夫妻の息子)とその義理の兄弟であるカリフォルニア州オックスナードのボブ・ドレッシュ、そしてカリフォルニア州パサデナのR.J.セコールである。
8月 ケローナにヒノデホームが開館する。
バンクーバーのパウエル・ストリート祭りで公演したサンホセ太鼓グループに触発されてアジア系カナダ人がカタリ太鼓を設立する。これがカナダで最初の和太鼓グループである。その後カタリ太鼓が刺激となりカナダ各地で和太鼓グループが誕生する。
1980年
全カナダ日系市民協会が全カナダ日系人協会と名称を変更する。
1982年
6月21日 ヒデ・シミズがカナダ勲章を授与される。シミズは第二次世界大戦中強制収容所で学校を組織し、先生の訓練をすることを通して、ブリティッシュ・コロンビアの日系カナダ人の子どもたちが必要な教育を受けることを保障する上で極めて重要な役割をボランティアで果たした。戦後はトロントで日系カナダ人の生活の再建を支援した。また長年、教会と日系カナダ人社会で活躍した。
1983年
6月20日 柔道師範ユズル・コジマがカナダ勲章を授与される。コジマは19歳で黒帯をとり、その後カナダの柔道組織の指導者となり、柔道組織代表としてカナダオリンピック協会に参加する。またカナダ人として初めて、そして最年少の国際柔道連盟会員となる。
ジョイ・コガワの小説「おばさん」がペンギンブックから出版される。著者自身の戦時中のブリティッシュ・コロンビア州とアルバータ州での家族との経験を書いたもので、日系カナダ人の経験を小説として描いた最初の本である。
1984年
12月17日 ユウテツ・カワムラがカナダ勲章を授与される。カワムラは半世紀にわたり仏教のリーダーとして南アルバータの日系カナダ人のカナダ社会への融合に尽力した。彼の業績の中で際立つものはレスブリッジの百年記念プロジェクトであった日加友好庭園の建設である。この庭園は日本以外にある日本庭園の最良のものの一つである。
アート・ミキが全カナダ日系人協会会長に就任してリドレス運動を開始する。
11月21日に全カナダ日系人協会は連邦政府に「裏切られた民主主義、日系カナダ人の被った不正義を正す」という意見書を提出する。その後4年間の連邦政府閣僚との交渉は実を結ばなかったが日系カナダ人社会およびカナダ全般に日系カナダ人のリドレスの理解が進む。
1985年
8月3日 バンクーバーのスタンレー・パークにある第一次大戦日系人志願兵慰霊碑灯籠の火が再び灯される。火が消されてから45年ぶりである。特別招待者のマスミ・ミツイ軍曹は日系カナダ人志願兵の最後の生存者である。
12月23日 建築家レイモンド・モリヤマがカナダ勲章を授与される。トロント市在住の建築家はその機能的でかつ見て気持ちのよい建築デザインにより数々の表彰を受ける。
ムリエル・キタガワと兄弟のウェス・フジワラの相互の手紙をロイ・ミキが編集した本「これは私のものだ:1941年から1948年にかけてのウェスへの手紙と、日系カナダ人についての他の作品」が出版される。この本は日系カナダ人の経験した激動の年月を雄弁に描写したものである。ムリエル・キタガワは1974年にウェス・フジワラは2000年11月6日に亡くなった。
1986年
6月23日 作家のジョイ・コガワがカナダ勲章を授与される。コガワの最初の小説「おばさん」は、5歳の少女の眼を通して描いたもので、その第二次世界大戦の間に強制収容所に拘留された日系カナダ人の待遇に関する感動的で雄弁な報告はいくつかの賞を受賞し、カナダ人にカナダの歴史の中で危機的な時代に関する重要な記録を提供した。
1987年
12月 「日系ボイス新聞」がオンタリオ州日系研究教育プロジェクトから月に2回、発行されるようになる。
12月21日 ロバート・ヤスハラ・カドグチがカナダ勲章を授与される。カドグチはいくつもの多様文化組織の会員として日本とカナダの相互理解に貢献した。トロント市の日系カナダ人文化センターの初代会長としてトロント市の日系カナダ人社会のための文化活動を支援したのみならず、ほかの民族グループの活動も支援した。
補償問題解決とその後
1988年
4月14日 500人の日系カナダ人がオタワの議事堂前広場に集結して補償問題解決を要求するデモ行進をした。多くの著名なカナダ人も日系カナダ人を支援に集まった。新任の多様文化主義担当大臣、ゲリー・ワイナーはカナダ日系人社会と対話を始めるという声明を出した。
7月21日 戦時特別法が廃止となる。
9月22日 連邦政府首相ブライアン・マルルーニが日系カナダ人戦時補償について全カナダ日系人協会と合意したことを公表する。この合意で連邦政府は日系カナダ人に対する、第二次世界大戦の戦中と戦後の不正義の行為を認め、戦時特別法の下で被害を被った全ての日系カナダ人に一人21,000ドルの個人補償を支給し、戦時特別法違反で罪になった日系カナダ人の罪状を消滅させ、日本に追放された日系カナダ人のカナダ市民権を回復し、日系カナダ人社会の再建に1,200万ドル支給し、2,400万ドルでカナダ人種関係基金を設立した。名目上、この基金の半分は全カナダ日系人協会、残りの半分は連邦政府からの寄与とした。
日系カナダ人補償問題解決基金が設立されて日系カナダ人社会の再建のための事務局になる。これ以後10年間、カナダ各地で日系カナダ人社会再建のプロジェクトが遂行された。これらのプロジェクトにはコミュニティセンターや他の施設の建設、文化、芸術プロジェクト、教育プロジェクトなどがある。
4月19日 アート・ミキがカナダ勲章を授与される。アート・ミキはウィニペグの教師でいろいろな教育関係、多文化関係の活動を地域および全国で行ってきた。全カナダ日系人協会会長として補償問題の交渉で日系カナダ人を代表する人物として尊敬された。
11月1日 アーサー・ハラがカナダ勲章を授与される。ハラはバンクーバーの優れたビジネス・リーダーとしてバンクーバーの文化的な地域社会、および国の経済、そして地球規模の市場の発展に貢献した。
東京の新しいカナダ大使館が開館した。建物は有名なカナダ人建築家レイモンド・モリヤマの設計で、開館式にはバンクーバーのピアニスト、ジョン・キムラ・パーカーの演奏があった。グローブ・アンド・メイル新聞のエディス・テリーはこの建物について次のように述べている。「レイモンド・モリヤマは日本とカナダという二つの対照的な国の特徴をこの建物の中で一つに融合している。カナダの広大な自然と日本の厳格な様式美と細部へのこだわりが一つなってこの建物に表現されている。」
1992年
4月30日 ジュン・A・ワダがカナダ勲章を授与される。ワダは世界的に尊敬されている神経科学者でブリティッシュ・コロンビア大学の教授としてその生涯を、癲癇(てんかん)の原因と治療の研究に捧げた。
日系カナダ人の強制移動50周年を記念してバンクーバーで「帰郷」会議が開かれ四世代にわたる日系カナダ人が全国から集まった。一世、二世が旧交を温めると同時に戦後世代が日系カナダ人である意味を深く考える機会でもあった。
全カナダ日系人文化遺産センター協会が設立され、日系カナダ人リドレス基金から文化遺産センター建設のために300万ドルが支給された。
カナダ全国映画委員会が「ミノル、追放の思い出」を封切る。モントリオールのミカエル・フクシマ制作のアニメでフクシマの父親の第二次世界大戦中の経験に基づいている。
リンダ・オーハマ制作の映画「最後の収穫」が封切られる。映画は、アルバータ州レイニエにあった家族農場を年代順に記録している。
ブリティッシュ・コロンビア州ニューデンバーに強制収容所記念センターを建設する計画が協和会により始まる。
ブリティッシュ・コロンビア州スティーブストンに日系カナダ文化センターが開館する。
タミオ・ワカヤマ制作の写真と記事によりバンクーバーのパウエル・ストリート祭りの歴史をたどる本、「キキョウ(帰郷)」がハーバー出版社から出版される。1977年の日本人カナダ移民百年祭からはじまった日系カナダ人のユニークな文化を代表するお祭りの様子が記録されている。
バンクーバー日本語学校とジャパンズ・ホールが西暦2000年プロジェクトを始める。1994年に日本語学校は隣接する角地を購入して戦前の規模に戻った。
1993年
4月22日 アイリーン・A・ウチダがカナダ勲章を授与される。マックマスター大学の小児科学と病理学の名誉教授であったウチダは20年以上にわたりモデル実験室を指導してカナダにおける細胞遺伝学的診断の質の向上に貢献する。
8月12日 バンクーバーのパシフィック・ナショナル・エグジビションで、日系カナダ人が強制収容所に移動する前に集結した場所を記念して、モミジ庭園の開園式がある。
9月27日 日系カナダ人リドレス基金が250万ドルの小切手を全カナダ日系文化遺産センター協会に贈呈する。
風景芸術家タカオ・タナベがブリティッシュ・コロンビア州勲章を授与される。タナベはウィニペグ、ニューヨーク、英国、イタリア、デンマーク、日本で勉強し、かつ絵画の制作をする。またバンフ芸術学校の美術部門部長を務める。また、カナダ首都委員会やカナダ協議会で審査員団及び委員会に奉仕した。
1994年
6月25日 缶詰工場開業100年を記念する歴史的な敷地のスティーブストンでジョージア湾缶詰工場が開業式典を行った。
7月23日 ブリティッシュ・コロンビア州ニューデンバーに日系カナダ人収容所記念センターが開館する。
9月 バンクーバーの日系カナダ人市民協会がパウエル・ストリートから511イーストブロードウェイの建物に引っ越す。この建物には日系カナダ文化遺産博物館と記録保存館も入り、また全カナダ日系文化遺産センターも一時的に入った。
11月5日 ブリティッシュ・コロンビア州キャムループスに日系カナダ人文化センターが開館した。
アイコ・スズキが日系カナダ人芸術家人名録を全カナダ日系人協会のトロント支部から発刊する。
1995年
1983年3月に日本で出版された真壁知子の著書「写真花嫁」が、キャサリーン・チサト・メルキンによって英訳されオンタリオ州多様文化歴史協会から出版された。この本は1900年代初頭にカナダに写真花嫁で来た5人の日本女性が自らの言葉で語った物語である。
日系カナダ人博物館と記録保存協会が法人組織になり、博物館と記録保存館設立の準備を新しく建設された日系カナダ人文化遺産センターで始める。
遺伝学者デービッド・スズキがブリティッシュ・コロンビア州勲章を授与される。人気の高いTVシリーズ「物の性質」、CBCラジオシリーズ「奇妙な物とクォーク粒子」、いろいろな著書を通じて、人間が地球の生産能力内で持続可能な未来のために生きていくという考え方を私たちの家庭や意識の中に持ち込んだ。
1996年
カナダ人種間関係財団が設立される。
カナダ国勢調査により日系カナダ人の総数は77,130人で、そのうち約三分の一が日本人および他の人種の両方を祖先に持つことが判明する。これは日系カナダ人の人種間結婚率が90パーセントを超えていることを反映している。
1997年
8月24日 日本人のカナダ移民120年を記念して、全カナダ日系人協会会長ランディ・エノモトを団長とする登山グループがナガノマンゾウ山に登頂してタイム・カプセルを山頂に置いてくる。11人の遠征隊のうち、4人が永野萬蔵の子孫である。
1998年
7月4日 新桜荘が開館する。この高齢者住居はバーナビー市のキングスウェイとスパーリング通りの交差するところに建設予定の日系プレースの最初の建物である。
7月22日から26日 カナダ日系人の4人がブラジルのサンパウロで開かれた汎アメリカ日系人オリンピックに出場して金メダル3,銀メダル3,銅メダル1を持ち帰る。
ケイコ・ミキが全カナダ日系人協会の最初の女性の会長となる。
カズコ・コマツがブリティッシュ・コロンビア州勲章を授与される。
1999年
3月26日 バーナビー市のキングスウェイとスパーリング・ストリートの交差するところで全カナダ日系文化遺産センターの起工式が行われる。
4月15日 ジョン・キムラ・パーカーがカナダ勲章を授与される。パーカーは世界の一流の演奏会場での演奏のみならず、カナダの辺境の土地にも出かけて演奏した。
4月15日 画家のタカオ・タナベがカナダ勲章を授与される。タナベは風景画家でカナダの若い芸術家たちに教師として影響を与えた。
8月15日 ビクトリアのローズベイ墓地にカケハシグループにより記念碑が建てられた。この墓地には日系人150人が眠る。一番初めに埋葬された日系人は、1887年1月11日26歳で亡くなったヨシタロウ・ムネヤマである。日本人カナダ移民一号の永野萬蔵と萬蔵の最初の妻、つやと彼らの幼い娘もここに眠る。
2000年
6月25日 バンクーバーの新しい日本語学校とジャパンホールが475アレクサンダー・ストリートに開かれた。建物はバンクーバー市の歴史的建造物に指定される。
7月 日系人の少年アイスホッケーチーム、「チーム2000」が結成されて日本の少年アイスホッケーキャンプに参加し、日本の少年チームと試合をする。
9月22日 ブリティッシュ・コロンビア州バーナビーに全カナダ日系文化遺産センターが開館する。同時に日系カナダ人博物館も開館する。そして博物館の開館に合わせて最初の催しもの「日系カナダ人補償問題運動回顧写真展」が開かれる。文化遺産センターには全カナダ日系文化遺産協会、日系カナダ人博物館、日系カナダ人市民協会、日系人高齢者医療居住協会、ICAS日系テレビ、グラッドストーン日本語学校、日本移住者協会のオフィスがある。
10月29日 スティーブストンのブリタニア文化遺産造船所がカナダ歴史的建造物に認定される。
11月15日 アーサー・ツネオ・ワカバヤシがカナダ勲章を授与される。ワカバヤシは州政府の財務次官、大蔵次官、連邦政府の法務副次官、経済開発調整副次官を努めた。
エンジニアのヘンリー・ワカバヤシがブリティッシュ・コロンビア州勲章を授与される。ワカバヤシはブリティッシュ・コロンビア州の重要な公共プロジェクトに関係し、またモミジ庭園と全国日系文化遺産センターの建設にも関わった。