谷川弥一伝、(弥一の矢は毒矢の矢だった。その3
谷川弥一爺の世紀の記者会見から一夜明けた23日、X(旧Twitter)で記者会見の動画が多数アップされ、数百万回視聴されるという驚異的な記録を残し、今尚、記録を更新している。SNS界隈で谷川弥一はトレンド入りしている。
長崎3区の星にはなれなかったが、今や国民的『恥』になったことは事実である。
爺の珍走によって谷川建設は県内どころか、県外にまで社名は轟き、宣伝効果は絶大なものがあった。
ただ、あの『ニコニコ~』と両手を広げた谷川爺の顔を見て強い怒りを感じたのと同時に悲哀を感じたのも、また事実である。
1月22日の記者会見で谷川弥一爺は『政治家にならないで、経済にだけ専念しとけば良かった。強い政治家にゴマすっとけばよかった、今は政治家になったことを後悔している。』と、半分は本音だろう吐露している。
まさにその通りであろうが、一方で谷川が政治家というか県議になっていなかったら、間違いなく今の谷川建設はなかった。 ハウスメーカーとも呼べない、田舎の建て売り屋にすぎなかった谷川建設が、県発注の公共工事の箱物建設や道路工事の入札に参加し、落札できるようになったのも、谷川弥一が県議だったからの賜物である。
平成5年頃、谷川建設はバブル期に購入した株が暴落し、45億円という莫大な負債を抱えることになり、18銀行の管理下に置かれ倒産が囁かれた時期があったのだ。
谷川が県議でなかったら、谷川建設は会社更生法を申請し倒産していても不思議ではない状況にまで追い込まれていた。
当時、長崎県知事は高田勇氏、副知事が松尾叡氏、18銀行の頭取が松田皜一氏だった頃である。 長崎県が政治、行政、経財と勢いがあり、神近義邦氏によってハウステンボスが建設されていた時期でもあった。 谷川弥一が県議2期目の時である。
谷川建設を、あの時に倒産させとけば良かったと、18銀行が悔やみ、長崎県建設業界会が嘆いたのは、それから5年後のことである。
悪党・谷川弥一伝(弥一の矢は毒矢の矢だった。)その4につづく。
JC-net・日刊セイケイ編集長・中山洋次