ニュータウンとプロレスからひもとく、町と身体と物語

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町には様々な語り口がある。歴史的な文脈から、地政学的な見地から、あるいは当事者への聞き取りから。近年では観光立国としての日本のあり方をベースに、インバウンド対策や、それに応じたまちづくりのあり方なども積極的に議論されている。ここで時間を90年代に巻き戻そう。当時多くの社会学者や評論家によって、さかんに語られていた町としていわゆるニュータウンがあった。

それまでの土地の持つ歴史性から離れ、造成された土地の上に利便性や快適性をベースとしてつくられたニュータウン。1960年代から日本各地でつくられたそんな「町」は、高度経済成長期の終わりとともに影を帯び始め、90年代には歴史の終焉というアングルでもって現代日本を論じる上でのモチーフとしても盛んに活用されていた。

それから20年。居住者の高齢化、設備の老朽化など、ニュータウンが新たな問題を抱える中、ニュータウン出身の現代美術家・中島晴矢の個展「バーリ・トゥード in ニュータウン」が2019年4月12日~4月30日に阿佐ヶ谷のTAV GALLERYで開催された。

会場では港北、多摩、千里と3箇所のニュータウンを舞台に路上プロレスを行う映像作品が上映された。会期中に開催された哲学者・千葉雅也と中島との対談では、そんなニュータウンを巡る町への語りと、そこでの身体性について、意欲的ながらもときにジョークを交えて語られた。ここにその模様を対談記事としてお届けする。

Text:Shun Takeda
Photo:Yutaro Yamaguchi

ニュータウンで突然路上プロレスを行うと、どうなるか?

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中島 今回千葉さんをゲストにお招きしたのは、『意味がない無意味』という近著にも収録されている「力の放課後──プロレス試論」という論考にとても刺激を受けたからなんです。プロレスには「活字プロレス」の伝統がありますが、歴史的ウンチクやネームドロッピングとも違う、非常に根源的なプロレス論で、刺さりました。

千葉 ありがとうございます。まずなぜプロレスか、ということを語る上で、まず自分の話をさせてください。そもそもぼくは父も母も美術系で、スポーツ全般を嫌悪するような環境で育ったんです。単純に体が辛いことがきらいなのもあるけど、特に勝ち負けを競うことが嫌いで。それが20歳くらいになると実家の反体育的な呪いが解けてきて、自分自身の身体を再発見するということが起こった。そこから身体を考えてみたいと思って、その延長上でプロレスを再発見したんです。

なぜプロレスが響いたかといえば、本気と演出が混ざり合っていて、スポーツなんだけど「脱臼」しているという点。特に飯伏幸太というレスラーにハッとさせられたんです。彼は子どもの時からやっていたプロレスごっこの延長上で今プロレスをしている、と語っている。それがとても解放的だと感じたんです。

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中島 スポーツが身体の近代的な抑制で成り立ってるのに対して、プロレスは身体の前近代的な解放ですよね。そこには祝祭性がある。だからぼくは鬱屈した思春期の頃からプロレスラーに憧れていました。

実は、飯伏幸太さんが路上プロレスに出演しているDDTという団体所属で、伝説的興行「マッスル」シリーズを主催したマッスル坂井さん(編集部註:テレビバラエティなどでも人気のレスラー、スーパー・ササダンゴ・マシンとしても知られる)が展示を見に来てくれたんです。

千葉 ええ、それはすごい! どんな評価をしてくれたんですか?

中島 まず、DDTの路上プロレスというのは周囲に「ちゃんと」お客さんがいて、興行として成立している。でも僕の作品は、道場での正当な経験を積んだレスラーではない人間がプロレスをし、まわりに客が一切いない。路上の人たちが完全に無視している。映ってはいけないものが映っているという点がおもしろかったと。

千葉 なるほど。さっそく少し解釈してみると、この作品は、現代生活を象徴しているニュータウンを舞台に、人が生きることを純粋な身体の絡み合いとして象徴化・結晶化・寓意化しているんだと僕は感じました。

だからこそ、郊外生活のコミュニケーション、あるいは非コミュニケーションが映されていると。町の人々に路上プロレスが完全に無視されているという光景は、現代人がまさに他人を黙殺しあっている状況がそのまま現れているように思います。また、プロレスというスペクタクルを展開しているのに、それが不発に終わり続けるということ。我々の日常って、不発に終わり続けるスペクタクルを誰しもが演じているとも言えるわけですよね。この作品は「シラける路上プロレスの瞬間」を全面展開している。

《バーリ・トゥード in ニュータウン ーパルテノンー 》より©️Haruya Nakajima, 2017
《バーリ・トゥード in ニュータウン ーパルテノンー 》より©️Haruya Nakajima, 2017
 

中島 おっしゃる通り、全編に渡ってシラけ続けてます(笑)。まさに非関係性的な身体の象徴として、ニュータウンという場所をモチーフにしました。一方で、ぼく自身の実存ともニュータウンは結びついていて。田園都市線のあざみ野の方に実家があって、そこで幼年期を過ごしたんです。

今は東京の下町に住んでいるんですが、やや単純化して言えば、下町のほうが「町の身体性」と呼ぶべきものが高く、歩いていて楽しいし、発見もたくさんある。一方でニュータウンはつるりとしていて、歩いていてもとっかかりがない。でも生まれ育ったのはそんな環境なわけで、アンビバレントな思いがあります。

《四角いガーデン》©️Haruya Nakajima, 2019
《四角いガーデン》©️Haruya Nakajima, 2019

千葉 身体とニュータウンの出会いというのは、意味にならない暗号みたいな感じがします。物語が成立しないで、身体が様々な形でぶつかりあっているだけの状態。コンテクストがあるような都市空間だと、もっと物語的になると思うんですよ。それがニュータウンだと、人々と人々の関係性が脱物語的というか、暗号的なものにしかならない。深みのある物語を形成しえなかった幼少期のニュータウンの記憶を思い出している。そんなイメージも湧いてきます。

ニュータウン生まれの子は、『平成狸合戦ぽんぽこ』の狸にはなれない

中島 町と物語という文脈ですと、3作品目で千里ニュータウンに出かけたときに笑ったことがあって。前日に東京の多摩ニュータウンに用事があって出かけて、そこから大阪の千里ニュータウンに向かったんですね。わざわざお金と時間をかけて出かけたわけですが、着いてみたら多摩と風景が何も変わらないわけです(笑)。

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千葉 そういう場所でプロレスをしても、何度も組み上げても砂に戻ってしまうようなことを繰り返しているように見えるわけですね。永劫回帰的なムードが、フラットなニュータウンを生きる身体を表している。もはやそこには時間がなく、空間しかなくなってしまった場所っていう感じがします。

話をつなげると、僕はカリフォルニアに滞在したことがあるんですが、その時「このだだっ広いただファストフードの店が並んでいる平野って、時間が行き着いた先みたいだな」っていう感想を抱いたんですね。西海岸ってニュータウン的なるものの突端だと思うんです。

そこで財布を盗まれたんですが、たまたまポケットに入っていたクレジットカードだけが残った。そうなると、クレジットカードとパスポート、スマートフォンだけという、資本主義的に最も研ぎ澄まされた状態になったんです(笑)。財布の中には様々な会員証などが入ってたわけなんだけど、なくなるともはや何がなくなったのかも覚えていない。盗られちゃったら自分の生活を構成していたアイディンティティ的なものがなくなって、「歴史」がない状態になる。

中島 徹底的にカリフォルニアスタイルになったわけですね(笑)。

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千葉 ニュータウンにおける時間性の終わり、あるいは時間が永劫回帰するような状態。そこでのプロレスは意味を形成しない。現代詩のような象徴性すら生まない。ただランダムな音の列をつぶやき続けているような感じもするわけです。

 たしかに時間なき空間であるというのはぼくも感じます。同時に、そういった無時間的な空間で幼少期~青年期という時間を過ごしたわけで、その怖さのようなものもある。

展示会場風景
展示会場風景

それこそ最近『平成狸合戦ぽんぽこ』が再放送されていたけど、あれは多摩丘陵を崩してニュータウンをつくっていく中で、故郷を追われた狸たちが人間に仕返しをするも失敗する、って話なんです。自分はその狸のようでありながら、狸にはなりきれない存在でもある。ぼくは実家のニュータウンが建つ以前の原風景を知りません。つまりもともとの土地の持つ記憶が開発によって失われ、そこに建ったニュータウンがふるさとであるという二重性にとらわれているんです。そのねじれをアート作品としてむき出しのまま投げ出す、という行為とも思っています。

子どもの身体でとらえた町の表情

千葉 90年代に宮台真司さんの議論や、ホンマタカシさんの写真によって、ニュータウンというものが大きく取り上げられたわけですよね。あの時は「歴史の終わり」というテーマで語られていました。それが現在ではニュータウンも古びて、そこをさらに懐かしむような段階になっているわけじゃないですか。その距離感というものがこの作品にはあって、歴史が終わったはずのところがまた歴史化されているねじれもある。

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中島 ノスタルジー一辺倒ではつくらないよう気を遣ってつくってはいます。ただ同時に、ジブリの比喩でいえば『耳をすませば』という、ニュータウンで育った男女の恋愛物語がぼくはすごく好きで、見るたびにノスタルジーもあいまってぼろぼろ泣いてしまうんです。さらに思い出せば、ニュータウンで過ごした子どもの時って、かなり好き勝手に遊んでいたなという記憶もあって。均質に見える空間なんですけど、子どもって色んなものを見出すわけです。エレベーターを使った鬼ごっこだったり、マンションの溝やスキマを使ったかくれんぼだったり、ごみ収集所での缶けりだったり。

千葉 ああ、それはすごくわかる! 『文學界』に寄せた「平成の身体」という文章で、近いことを書いたことがあります。僕は子どもの時にファミコンが出始めた世代で、現実空間でもいかにファミコンの中の世界のようにとらえて遊ぶか、みたいなことをしていたんですね。今で言えば「ポケモンGO」みたいなことを、人力ARのようにして遊んでいたんです。

自転車で走り回りながら「ここから先はステージ2になる」と考えたり、通行人をモンスターに見立てたりね。あの時の興奮って本当にすごくて、今もう一度あの感覚に内在できたらどれほど幸せだろうと思うくらい。石畳の色のパターンが違うだけで、マリオみたいなゲームでステップをしていくためのブロックに見えるという。

中島 驚くべきことに、今回の作品をつくってみてわかったんですが、路上プロレスをするとその時の感覚に内在できるんですよ。

千葉 え、本当に!?

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中島 子どもの時の視線や解像度で町をとらえられるんです。「あ、ここは登れるな」とか「これは凶器として使えるな」とか。公園の遊具ひとつとっても、大人の遊具というか……いやそれはちょっと違う意味合いになっちゃうか(笑)。とにかく、あのときの視線が戻ってくるんです。

千葉 そうか、身体的な感覚で町に触れるということですね。逆説的にいえるのは、大人になると町を身体的にとらえてないってことだよね。子どもって身体も小さいから町とがっぷり四つで、まさぐるように関わることになる。町に対しての造形的な感覚を取り戻すことになるんですね。

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