本の力、本棚の力

2015年3月24日
posted by 塚本牧生

一年ぐらい「本の力」「本棚の力」という言葉が僕の中で引っかかっていて、でもずっとそれをうまく言葉にできずにいる。コンテンツの流通だけを思って「Book as a Service」のようなことを考える一方で、コンテンツの旧世代のコンテナでしかないはずの本というモノ、本棚という場所、そして本屋さんがどこに行ってしまうのかが気になり続けてる。

ヘッダ写真は本文中に出てくる『本屋会議』を、年末の天狼院書店で読んでいたときのものだ。本を書店に持ち込んで、紅茶を買ってコタツで読む。そうした本屋さんが増えていることも、本と本棚と本屋さんについて考えるようになった理由のひとつにある。

文の力と本の力

本屋が消えていく、という話を聞く。そういえば、自炊(本を自分でスキャンしてPDFなどのデータファイルすること)によって、僕の家からも本が大量に消えていく…というか、だいたい消えた。これから僕の家から消えていくのは本棚だ。

かつて本文などのコンテンツと、本というモノと、本棚という場所と、本屋という流通経路は不可分だった。でも僕の家からは本というモノが消えつつあり、コンテンツがデータとして残るだけになってきている。それから、たぶん僕の家にある本というモノと、本だったコンテンツのデータファイルの数が同じくらいになった頃からだと思う。新しいコンテンツは、本ではなく電子書籍で買っても、所有感を感じられるようになってきた。

この先、電子書籍で不便を感じない限りは、僕は本というモノよりも電子書籍というデータでコンテンツを買っていくと思う。それでも本屋さんというものにはなくなって欲しくないと感じる。それは、データファイルでも所有感を感じられるようになったように、時間の問題だったりするんだろうか。それとも、本には本の力、本棚には本棚の力、コンテンツの力に+αするなにかがあるんだろうか。

「町本会ファイナル」と『本屋会議』

あるのかもしれない。昨年末に「町本会ファイナル」というイベントを聞き、その場で買った『本屋会議』もたちまちに読み終えた。町本会、正式名称「町には本屋さんが必要です会議」は、神戸の海文堂書店の閉店がきっかけで作られたという。海文堂は「この本屋さんならでは」の品揃えと並べ方、いわゆる「本棚作り」をしっかりした本屋さんで、そうしたワン・アンド・オンリーの本屋さんすらシャッターを下ろすというのが衝撃だったという。

町本会は一年に渡り多くの土地で本屋さんを回り、町本会を開いて「町の本屋さん」についてその土地の人と語り合い、生き残るのは大型書店だとか本棚を作れる本屋さんだとかいった分かりやすい解が「ない」ということを発見している。『本屋会議』に出てくる本屋さんも、大型書店、本棚を作れる書店、外販が多い書店、客注が多い書店とまちまちだ。でも町本会ファイナルには元気な三人の本屋さんが登壇して「本屋を続ける理由?だって本を売るの楽しいもん」とあっけらかんと言い、本屋会議では本を好きな人が本屋さんを支えるリソースで、でも本好きを育てるのも本屋さんと記している。

「本が好き」ってなんだろう。彼らが言っているのは、もちろん本というモノだ。僕が読み手としてコンテンツが好きなのとはきっと違う。本には本の力、本棚には本棚の力がきっとなにかあるのだ。

『走れ!移動図書館』と「第4回LRGフォーラム 貧困と図書館」

僕が「本の力」という言葉に出会ったのは、3.11以降の東北に「移動図書館」を巡らせたシャンティの鎌倉幸子さんによる『走れ!移動図書館』の中でだった。一年経って、コンテンツの力だけではない本というモノの力、本棚という場の力が気になり始めた頃に、「貧困と図書館」をテーマにした第4回LRGフォーラムがあった。「生活保護のリアル」を連載していたみわよしこさんが登壇されていた。

会場からの「生活保護受給者が図書館を利用することは贅沢か」という質問が心に残っている。みわさんと、同じく登壇者の神代浩さんの回答を受けて岡本真さんが「社会には様々な面でのセーフティーネットが必要で、図書館は知へのアクセスのセーフティーネットを担っている。セーフティーネットが必要な状況の人が、それを利用することを勧めるのは当然」といった旨の回答をされていたと思う。

例えば、みわさんによれば生活保護を受給するにも知っておいた方がよいことはある。そこを支援する形もあるだろうけど、自分で調べることもできるというのは「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」に含まれるだろう。では、質問で出たのだけど新聞や流行小説を読むのは?僕はそれもサポートされるべきだと思う。社会に関わろうとしたときに、時事や流行の知識が社会から切り離されていると、ちょっとハードルがあがる。それがないと社会に関われないわけではないけど、あるとそのハードルを少し下げてくれるとは思う。

本というのはコンテンツを目に見える形にしたモノだし、それを集めた本棚という場には、ここでコンテンツに(あるいは知に)触れられるよというメッセージがある。オープンな本棚は、ここでは誰でもコンテンツに触れられるよという信号を送っている。だから知りたいことがある人はそこに立ち寄っていいし、そこにいる人同士で教えあってもいいし、司書のような人が声をかけて支えてあげてもいい。本棚があるから、そこは「知りたい人のための駆け込み寺」になるような気がする。

本の力、本棚の力、本屋の力

図書館の本棚は、あそこにいけばなんとかなるという「知りたい人のための駆け込み寺」という具体的な場所を作り出しているんじゃないか。それは本というモノの力だし、本棚という場の力だ。でも世の中の本の圧倒的多数は、きっと個人宅のプライベートな本棚に収まってきた、個人の蔵書だ。

個人の蔵書に、本というモノ、本棚という場所が求められる場面はどれだけあるだろう。「英国人は、自分を知的に見せるために読みもしない本を購入する傾向があり、その数は平均で80冊にも上る」のだそうだ。見栄と呼ぶこともできるけど、ある種の矜持とも呼べる。下北沢に本屋B&Bを構える内沼晋太郎さんが「マガジン航」でこう語っているのは、町と住人の矜持とも見える。

街にはきちんと本がセレクトされた本屋さんがあるべきだと思うし、僕ら自身も「街の本屋さん」が大好きなので、それが成り立つ方法として、他のビジネスと組み合わせて、その分で本屋の部分にコストをかけている。イベントやドリンクで利益を上げた分だけ、本のセレクトに時間もかけられるという、そういうことをやっているわけです。

でも本の力とか本棚の力って、矜持という言葉だけじゃ足りない。もっと何か豊かなものがあると思う。いや、本当を言えばあるのかさっぱり分からないのだけど、あって欲しいと思う。神楽坂の文鳥堂書店の閉店を見て、その跡にかもめブックスを開いた柳下恭平さんがインタビューにこう語っている。

音楽を聞いたり、映画を見たり、インターネットをしたり、いろいろな時間の過ごし方がありますが、読書という“オフライン”の時間を、かもめブックスで過ごしていただきたいですね。

“オフライン”の時間のための、そして”オフタイム”のための本と本屋さんというのは、きっとみんなの心にしっくりくるんじゃないかと思う。僕は今でも映画館に行く。映画を観るためだけの場所に行き、2時間前後、ただむさぼるように映画を観る。映画だけを観る。まだ言葉にできていない本の力、本棚の力も、ただむさぼるように本を眺め、本を手に取り、本を読むことの中に、その一つがあるような気がしている。

※この記事は2015年3月22日に「クラウドノオト」に公開された記事「本の力、本棚の力」を、著者の了解を得てそのまま転載したものです。

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執筆者紹介

塚本牧生
(クラウドコンピューティング技術者)
クラウドノオト