実は黒猫は福猫だった!結核で倒れた新撰組・沖田総司はなぜ ”黒猫を斬る” ことにこだわったのか?
新撰組、結核で早世した薄幸の隊士・沖田総司。
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新撰組の歴史はモロモロ割愛します。京都から江戸へ敗走した新撰組隊士たち。新政府軍が北上するまえに甲府城を押さえてくれと、勝海舟の入れ知恵で「甲陽鎮撫隊」が結成されて、近藤勇は大久保大和と名を変えて率いることになります。
その甲州戦争に出発する直前には、労咳(ろうがい)が悪化して千駄ヶ谷で療養していた沖田。
高杉晋作や樋口一葉、沖田総司など数多くの歴史上の人物を苦しめた感染症「労咳(ろうがい)」
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そこに近藤勇が見舞いに行っています。彼は床についても明るく冗談を飛ばす沖田に接して、「あんなに死に対して悟りきったやつも珍しい」と、驚いていたと言います。
しかし、その近藤の見舞のわずか数日後に出発した「甲陽鎮撫隊」に沖田も参加していました。しかし現在の府中市辺りでやはり無理がたたって脱落。一人、千駄ヶ谷に戻されます。
この、いよいよ最期という時の沖田総司といえば、黒猫の逸話がよく知られています。
”庭に来ていた黒い猫をたびたび斬ろうとするものの、体力の衰えから斬れなかった”
という、哀しみを誘う逸話ですね。
しかし、仮に腕試しをするにしても、動物を殺す必要はあったのでしょうか?
自分の体力の衰えをはかりたいのならば、その辺の木々を打ち払ったり、木刀での打ち込みでも良さそうではありませんか。
それほど黒猫が憎たらしかったのでしょうか?
実はたまたまではなかった可能性があります。
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