奈良時代の「藤原広嗣の乱」はなぜ起きた!?当時の中央集権化に対する不満も一因だった
740年、九州地方で発生した「藤原広嗣の乱」は、奈良時代の権力闘争と地方政治の複雑な関係を映し出す重要な出来事です。この反乱が、当時の為政者が失脚させ、度重なる遷都がなされるきっかけの一つともなった事件です。
それにもかかわらず、この事件の記載が『続日本記』にしかないためか、従来の学校の教科書でも、2行程度しか記述がありません。
そこで、今回は、この藤原広嗣の乱について詳細に見ていくことで、どうして起こったのか、そしてその後、当時の政治にどのように影響したのか、見ていきたいと思います。
そうすることで、奈良時代の政治状況が、より鮮明に見えてくるからです。
藤原広嗣の背景と権力闘争
中臣鎌足は、大化の改新の功績で藤原の姓を賜り、以後、藤原一族は朝廷で重要な職務につくようになっていました。藤原広嗣は、鎌足を祖とする名門の一族、そして宇合を祖とする藤原式家の出身であり、かつては有力な貴族として中央政界で活躍していました。
ところが、広嗣が権力を握る過程で直面したのは、当時の中央政権での権力闘争でした。特に彼が対立していたのは、当時、重用されていた玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)です。彼らは聖武天皇の信任を受けて中央政界での影響力を強めていました。
広嗣は、これらのライバルたちに対して反感を抱き、彼らを排除しようとしました。ところが、彼の策略は失敗し、その結果、藤原氏内部でも次第に孤立していくようになります。
広嗣の左遷と反乱への決意
広嗣は、738年末に大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に転任させられ、九州に左遷されることになります。大宰府という辺境の地に送り込まれることは、彼にとっては大きな屈辱であり、中央政界からの事実上の排除を意味しました。この左遷は広嗣にとって非常に苦しいもので、彼の中で「復権への強い欲求」が芽生えます。周囲の支援が期待できない中で、広嗣は自らの手で勢力を回復しようと決意し、反乱を起こすことにしたのです。