はいはいはい、はいからさんが通る

雨うぜー。こんにちは。最近のことこさんはと言えば、ハンゲの麻雀にはまっております。アニメも観ないで麻雀しております。こ、このままではアニメ脱落者になってしまう……!

シムーン

色々言いたいことはありますが、全体通してとてもとても面白かったです。
こんなにも、毎度観るたびに誰かと語り合ったアニメは他にはありません。本当に常に心に何かを訴えてくる素晴らしいアニメでした。世の皆様は、序盤の冗長さを嘆いてらっしゃる向きもおありのようですが、あの何を提示しているのかすらもわかりにくい、あの時期があってこそのシムーンであった、と確信しています。
あまりにも思うこと言いたいことが多すぎてとりあえず書き切れないのですが、絶賛の言葉だけでも記しておきたかったのでとりあえずエントリ。某企画がいまでも生きていたら間違いなく「殿堂入り」を選びました。
最終話に関してだけとりあえずの感想を言えば、涙しながら画面を見つめ続け、ウホウホしてしまってなんだか何もかもが良い……となって、また号泣して、なんてきれいにまとまった最終話なんだ!と感動して、しばらーーくしたら「ウホウホ」に誤魔化されちゃッた……?という疑念が涌いてきて、考えてみれば色々不満だよ……!←いまここ
という感じです。
でも基本的には満足。誤魔化しかもしれないけど、誤魔化されたんだからそれでいい。

思えば02話を観た時に言っていた(id:kotoko:20060422#1145710144)

これは、かつて少女であり処女であった腐女子のためのアニメです。

という感想はあらゆる意味で正解だったのでしょう。
というわけで、以下、書こうと思っている項目だけ羅列しておきます。今回ばかりは何日かかってもちゃんと書きます。書きたい。

僕たちの永遠の少女

このアニメは「少女とはなにか」を正面から問う作品だ、と私は勝手に解釈しています。多分に文学的すぎるこの問いこそが24年組の匂いを感じさせる要因であり、期待の源であり、この作品を語りたいと思わせる理由の全てです。
さて、ではこのアニメにおいて、少女とはなんであったのか。
最終話でフロエは語りました。「自分達が確かにここに存在していたのだという証しを刻みたくてアーエルとネヴィリルを飛び立たせたのだと思う」と。泉にいった彼女たちにとって、少女(シムーン・シヴュラ)という時代は通過点でした。そして、パラ様が実際にやっていた通り、卒業していく校舎に刻む印のごとく、飛び立つアーエルとネヴィリルは見送った彼女たちの心に「永遠の少女時代の象徴」として刻まれたのです。

アヌビトゥフは何を血迷ったのか、彼女たちの行動に意味などないと口走っておりましたが、アーエルとネヴィリルを見送った、全ての人たちにとって、彼女たち二人に意味があることは明白です。
それは、失われた(失われつつある)取り返せない過去(少女時代)を生き続けることができるかもしれないという祈りです。自分には果たせなかった可能性を、果たせることができるかもしれない二人の少女。


私はずっと不満でした。アーエルが「私は泉に行きたくない! だからシムーンに乗り続ける!」と主張していることになんの理由も与えられないことや、それがそのまま受け入れられて、泉に行かないENDを迎えたことが。なんの成長も見えないどころか、作品そのものがそのアーエルの「泉に行かないこと=自由」を肯定していることが。


けれども、最終話での

私にもその時があった。みな、少女だった。

という台詞を聞いて、脊髄反射的に涙しながらわかったのです。
少女たち自身の目から語られる少女たちの物語において、美しければそれでいいという過剰に少女的な思想の中において、「少女」というものをどう語るかを私はずっと楽しみにしていました。
けれども結局はこの物語の中においても、少女なんてものは「少女ではなくなった人たちが守りたい何か」でしかなかったのです。


それならばわかる。きっと私だって、二人を送りだしてしまう。ネヴィリルとアーエルの恋愛だとか自由だとか思惑だとか何もかもどうでもいい。ただただ、戦争は終わったものの不穏な空気が残りそうなこの世界で、地に足をつけて平凡な大人となって生きていかなくて良い道がそこにあるならば、その先に待っているものがなんであろうと二人を飛び立たせてしまう。過去に少女だった自分のために。

美しさとは残酷さなのです。咲いてる花を折って自分のものにするような

リモネとドミヌーラをみればわかる通り、彼女たちは違う世界にいっても肉体的な成長を止めません。肉体的な意味においてはオナシアと同じ運命を辿ることになりそうだ、と草むらに落ちたドミヌーラ砂金が物語っておりました。泉に行かず、性を選ばず、けれども肉体的には成長(老化)する彼女たちは、ではいったいなんなのか。「永遠の少女」なのでしょうか。
おそらく作品的には「そして二人は女神となりました」というのがF.A.なのだろうと思います。大人にならず、少女のままに肉体のみが年令を経て後の世に女神と呼ばれるようになるということは、とてつもなくグロテスクなことです。*1

そのことを知らない、かつての少女たちは、自分達がもっとも美しかった時期を守るかのように祈りを込めて二人を見送ったのでしょう。

ネヴィリルとアーエルには二人の糞恋愛があり二人だけで自由に未知の世界に飛び立ちたく、見送る側には身勝手な思い入れがあり、けれども現実にはどこにも永遠の少女なんていうものはなく、何一つとして、噛み合いはしないのです。
かつて少女達が過ごしたアウクス・プリーマのロビーに、かつて過ごした少女達の影が踊り、そしてオルゴールは曲の半ばにして唐突に止まる。


なんて美しい現実の残酷さよ。

私の妄想していた理想最終話

少女を語るのであれば、最終的な着地点は2つだと思っていました。
  • 少女であることを脱却して大人となり地に足をつけて生きていくってスバラシイEND
  • 少女であり続けることは不可能なのだから時間を止めてしまいましょう死亡END

私はアーエルにネヴィリルの手を引いて泉に行って欲しかった。
あれだけ「大人になりたくないからシムーンに乗る」と言っていたアーエル。翠玉のリ・マージョンによって夢がかなうかもしれないアーエルに「ネヴィリル、帰ろう。帰って泉に行こう」と力強く言って欲しかった。そうして、戸惑うネヴィリルに、大人になるということを肯定してほしかった。
「大丈夫。こわくないよ。大人になって、一緒に生きていこう」
ああ、ほら、そう言うアーエルが目に浮かぶ。こんなに似合うのになぁ。
これは第一案にあたるわけで、もちろん安易な成長物語でしかありません。実際のシムーンの終わり方のほうが美しく完成度も高いと認めます。
でも、さ。泉に行くこともできずに気付いたら大人になっていた身としては、肯定されたいじゃないの。


そして、第二案である死亡ENDもアリだと思っていました。すいぎょくのリマージョンがなんだかわからないままに、飛び立っていって最後まばゆい光りとなって終了、というような。


なんにしろ、アーエルとネヴィリルがあんなガチに恋愛関係に発展するとは思っていませんでした。そこだけが。そこだけがーー。
<つづく>(といいなー)

*1:恋なんかにうつつを抜かしてそんな道を選ぶからそういうことになるんだ!

ヘリカルモートリスのなく頃に〜解〜

これはつまり、思春期の性への距離感をうまいこと喚起させ追憶の森に迷いこませ「ああ、げにうつくしきは穢れを知らぬ少女期よ…」と思わせておいて、永遠の少女なんてないんじゃ醜いんじゃボケと右頬を殴り、ほーらお前達お得意の唐突な恋愛関係だよ、とばかりにアーエルとネヴィリルに百合らせて左頬を殴り

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を「ほーらお前達、アーエルとネヴィリルはイヤンでもコレは大好きなんだろ? あ? うりうり」と飴を目の前にチラチラさせる、という壮大な腐女子攻めアニメだったのです!