教科書載ニッポンインターネット歴史教科書で思い出したこと

 日記タイトルではひらがなを省略しちゃいましたが、ばるぼら「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」(翔泳社)。ぼくが熱心にあちこちのサイトを見ていたのは1995-96年くらいなのだが、その頃に見ていて目についたものはほとんど網羅されており、なんというか、10年前の空気を嗅ぐような再現ぶりだった。
 で、いちおう自分のとこも載ってるかなと思って見ると、ちゃんと載ってた(p50)。のみならず、「Textmedia」ということで取り上げられていたのだが、じつは自分で発信していながらすっかり忘れており、サイトからもファイルがなくなっている状態だった。昔のCD-Rを引っかき回したら出てきたので再掲しておこう(>(>Textmedia))。
インターネットのみならず、パソコン通信、雑誌の話もかなり充実しており、こちらは割と身近な話が載っているのだが、それでも、「Mac Power Bros」と「Guru」って同じ頃だったのか、などと朦朧とした頭で思い出す始末で、ずいぶん忘れていることが多い。とにかくいろいろ思い出させてくれてありがとう、と言いたい本。もちろん知らない話もたくさん載ってて、ちょっとずつ勉強させていただいている。

 思い出しついでに、本棚の隅から1996年のCape-X(3,4月号)という雑誌が出てきたのでちょっとその内容をメモっておこう。特集は「テキストBBS」。当時、WWWに対抗して、First Class環境を使ったBBSが盛んで、その可能性を探る内容になっている。
 First Classのブームは長くはなかったけど、いろいろおもしろいつながりが生まれた。ぼくは当時、ICCでヲノサトル氏がやってた「贋札作戦」というところに顔を出したり、神戸のXebec周辺でやってたCommuテレプレゼンスに足繁く通っていた。赤松さんや佐近田さんや三輪さんとはこの辺で知り合った。

 ちなみにこの号に載ってる他の記事は、「サイバーキッチン・ミュージック」「トイ・ストーリー」などなど。1996年ってそういう時代だったのね。でも、いちばん驚いたのは「タナカカツキロングインタヴュー」が載ってたことだ。当時はまったく気づかなかったけど、いま読むと、なんと、インタヴュー文体がほとんどデジオなのである。
 で、そこにぼくが書いた「テクストBBSの可能性」なる文章があるので、再掲しておこう。First ClassにもWWWにもちっとも触れていないけど、「テキストサイト誕生前夜」な感じは出てると思う。ていうか、なんかちっとも成長してないな、わし。

テクストBBSの可能性 (初出:Cape-X 1996 Mar, April)

−構成されるできごと、できごとの不在−

 さてBBSですがそれにしてもインターネット。「パソコン通信とかBBSっておたくの世界なんじゃ?」と思ってた人たちが昨年(1995)のブームで「これからはインターネットだよな」なんて調子いいこと考えてたりする今日この頃ですが、もちろん、いまや大手BBSのほとんどはインターネットにつながってるわけで、BBSVSインターネットって構図は単純に過ぎるという点はおさえておきたい。
 それにかわって、テクスト志向VSAV志向、というこれまた単純な構図を出しておきます。つまり、BBSにもFirstClassやオリジナルGUIを用いたAudio-Visualな場もあるし、逆にインターネット上にもメーリングリストやニュースグループのようなテクスト志向の場があるわけだから、BBSかインターネットかではなく、むしろテクストを重視するかAVの多い場を好むかによって、アクセスする場も変わってくるだろうと思います。

 で、テクスト志向なぼくとしてはまず、世間にありそうな誤解を解いておきたい。それは「テクストの世界より、AV付きの世界の方がなんとなくエライ」っていう誤解です。なんだかあまりに「ことばじゃわかりあえない」と思いたがってる人が多いんじゃないでしょうか。そのわりに、WWWなんかで絵とか音が出るといっきょにわかった気になったりする。ほんとにそうか?
 ことばの内容以外のコミュニケーション、つまりノンバーバル(非言語)コミュニケーションが重要なのはもちろんです。でも、それは「ことばよりも、ことば以外が大事」とか「テクストよりしぐさ」といった単純な話ではない。
 1970年にバートウィステルという人が、対話の65%はことば以外の手段によって伝わる、ってことを書いてまして、この話がことば以外の重要性を示す話としてあちこちに流布してます。けどこの65%ってのは、ケース・ケースで、いつもあてはまる話でもないんです。
 たとえばバートウィステル以降、いろんな研究者が、表情や声などいろんな情報を使って、ひとはどれだけ他人の感情をつかむことができるかって研究をしてます。その結果わかってきたのは、まず、ノンバーバルコミュニケーションはけっこう冗長だということです。顔や声やしぐさをそれぞればらばらの情報にして、どれかひとつを与えても、けっこうわかっちゃう。ノンバーバルコミュニケーションはお互いに関連が高い、逆にいえばけっこう無駄が多い。
 いや、たとえ無駄が多くても、ことばよりは優れてるだろう、と思われるかもしれない。けど、そうとは限らない。チェイクンとイーグリーって人がおもしろい実験をしてます。同じ内容の話を、テクストだけで読む場合とビデオを見る場合で比べてるんですけれども、話が難しいか易しいかによって結果は変わるんです。易しい話だとビデオの方が理解度もおもしろさも上がるんですが、いっぽう、難しい話の場合は逆で、テクストの方がいい結果がでるんです。
 つまり、とにかくいつでも映像や音楽をぶち込みゃいいってもんじゃない。伝えたい感情や内容に応じて重要な言語/非言語コミュニケーションはなにかってのは変わるっていうことなんです。

 あと、テクストオンリーのBBSの言語コミュニケーションで重要なのは時間構造。ひらたく言えばタイミングです。テクストって言っちゃうと印刷されたものみたいに思いがちだけど、同じテクストでも時間構造のあるなしでずいぶん違う。
 たとえばチャットをやってるとき、相手の発言のタイミングから「この答えの遅れようはなにか気に食わなかったのか?」「だれかとSENDでもしてるのか?」「ネットが混んでるのか?」「単に飯食いながら話してるのか?」と状況に応じてあれこれと推測したりします。チャット慣れした人の打ち込みを後ろで見てると、文字列打ちおわったのに、最後のリターンキー押さずにタメてたりします。間合いをはかってるんですね、名人ですね。
 あるいは、「きのうかくかくしかじか・・・」と一行でかくところを「きのう」とばーんと書いて、「なになに?」「え?」と反応を待ってからおもむろに「かくかくしかじか」と切り出すとかね。
 チャットだけじゃなく会議室などの発言にも、表示のタイミングをめぐるノンバーバルな工夫があります。どれくらい頻繁にどのくらいの量の発言を出すかとか。誰にコメントリンクを張るかとか。1200bpsとか2400bps(ぼくはいまだに使ってます)の牧歌的なスピードのモデムを前提にした話ですけれども、自動スクロールで読むってことを考慮に入れたテキストもありますね。波形に整形してあったり、空白行を適当な間で挿入したり。
 テクストをめぐる知恵ってのは、使用環境の進化とともに古くなっていくんでしょうけれども、こういう知恵を単なる過去の遺物としてとらえるんじゃなくて、ヒトはどういう環境においてどういうことを工夫しちゃうのかっていう事例として考えていくべきだろうと思います。BBSにはインターフェース論の材料がいっぱい転がってます。

 「AV付きの方がエライ」と同種の誤解にオフライン信仰ってのもあります。とにかくオフ会をして実際に会わないと人はわからない、会議室とかは仮の姿だっていう。これもおかしい。
 まず、対面以外の場を現実と認めないってのは考えが狭い。いま電話のことを「仮想現実」だって言う人なんていないでしょ。テクストが成熟してくればオンラインが「仮」なんて発想はだんだんなくなるでしょうね。
 もちろん、テクストから得られる人物像と実際に会ったときの人物がまるで違うってことはあります。でもそれはなにも、テクストが仮の姿で対面してるときが本物だ、ってことじゃない。テクストにせよ対面にせよ、いくつかの手掛かりによって構成された現実なわけです。オフで感じる「え?この人ってこんな人だったの?」ってのは、オンラインとオフライン、二つの現実のギャップに過ぎないんですね。どちらが正しいかではなくて、それぞれから自分がどんな手掛かりを得て相手をどう推し量ってるのかを問題にする必要がある。その意味ではだれもかれもがインターフェース論者になってしまう時代なわけです、いまは。

 話はぐっと変わっちゃうんですが、BBSのテクストって、なんか写真みたいだなと思います。すごく生々しいのに、どこか死の匂いがする。世界へのアクセス速度がどんどん速くなって、書き手が書いてから読み手が読むまでのタイムラグが縮まれば縮まるほど、書かれてしまったということはもうとりかえしがつかないんだってのがよりはっきりする。そんな感じがしてます。
 どうもネットワークっていうとすぐ「わかりあう」だったり「情報を得る」だったりするんですが、そういうのとはじつは別のこと、たとえばテクストにきちんと死の匂いをかぎとれるかどうかってあたりにBBSの可能性はひそんでるように思います。

 またまた話をあさってに振りますが、最近電車に乗ることが多くて、そのたびにノートパソコン持って文章打ち込んでるんです。わざと手元見ないで、窓の外と見ながらブラインドタッチで打ったりするんですけど、これがおもしろくてね。じつは今もやってるんですけど。
 これまで、書くということは読むということでもあったんです。書きながら、じつは自分の字を読んでいた。ところがブラインドタッチってのは書くことを読むことから解放しました。たとえばいま窓の外の田んぼの広がりとかみてますでしょう。ぼくは手元見ないでその田んぼを見て、「田んぼのひろがり」って書く。そりゃ田んぼがあるんだけど、「田んぼ」でいいのか? もっとちがうことばがあるんじゃないか? てなことを考える間もなくもう田んぼは彼方に去っている。自分の頭にことばが浮かんだとたん、ことばはできごととずれてしまっている、しかもできごとは目の前からどんどん失われている。そういう経験なわけです、車窓を見ながら書くというのは。で一気に書いて読み返すと、自分の中で書き手と読者がきれいに分離するんです。そこに書かれてるのは、あんなことがあったこんなことがあったってことじゃなくて、あんなことを書こうとしたこんなことを書こうとしたって痕だってことを発見する。読むということは、単に書いたときの追体験じゃなくて、書くという行為の痕跡をたどる経験だってことがよくわかる。
 今後テクストがよりワールドワイドになって、即時性が強調されるほど、書こうとして書かれなかったできごとの不在感は強まるんじゃないでしょうか。不在感、というのをかけがえのなさ、と言い換えてもいい。これはBBSに限らず、ことばを発していくときの根本的な問題ですけれども、テクストBBSが本当にぼくたちの生活に欠かせないものとなったとき、問題はよりクリアになると思います。