シン・エヴァンゲリオン劇場版 - レビュー
かつて監督自身が引き起こした巨大な「インパクト」にケリをつけた作品
※本稿は作品のネタバレを含みます。本作を観る予定のある人は映画館で観賞してから読むことをお勧めします。
筆者は、『新世紀エヴァンゲリオン』にハマった世代だ。だから、ニュートラルに『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を評価することはできない。主観的な印象としては、10点満点中で350万点ぐらいの作品なのだが、『新劇場版』から入り、『破』が一番好きだという観客にとっては意味不明で3点ぐらいの作品なのではないかと危惧もしている。
だから、本レビューは、いわゆるニュートラルで客観的なレビューではないかもしれない。かつて、『新世紀エヴァンゲリオン』にハマり、人生の道すら踏み外してしまったかもしれない一人の人間として、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』に向き合って絞り出した感想のようなものだ。
ネタバレを遠慮なく行ってしまうので、未見の方が本レビューを読むことは推奨しない。まずは自分の眼で見に行くことを強くオススメする。
世界を終わらせる物語ではなく、生命を育もうとする物語を描く
初見の印象は、大満足で、期待以上だった。もっと売れ線の手堅いエンターテインメントになっているのかと思いきや、TV版の25話、26話や旧劇場版に近い内容で、庵野秀明の内面世界を実験的な技法で表現する振り切れた作品が観れて、満足した。そして、25年分の成長があり、オタクたちにとっての大人になること=成熟の問題を引き受けていたところが、個人的には一番良かった。
特に感動したのが、前半の、第三村で農業を行い、綾波レイが人との触れ合いや自然との接触で変化していくところだ。ネットの感想を見ると、ここが嫌いだという観客も少なくない。だが、一番エヴァらしくないここに、ぼくは一番胸を打たれた。明らかに、これは東日本大震災とその被災地のアナロジーである。ニアサー≒震災も「悪い事ばかりではなかった」と、自身が災害を引き起こしたと思っているシンジへの慰めの言葉が掛けられる。そこで同級生やペンペンなどを含む生き物たちが生きて、生殖して、増えていっていることが、その言葉の説得力になる。
あとで述べるが、『エヴァンゲリオン』は、オタクたちの実存の物語だった。幾何学的な図形や構図、機械、クリーンな塗りなどに象徴されるような世界に憧れを強く抱くタイプの人々の自意識の物語だと言っても良い。レイは、本作前半ではそのような大地から距離を置いた現代人の象徴のような人物で、彼女が戸惑いながら、汚れた田舎町で人々の生活に触れて、変わっていくさまは、本作の一番重要なポイントではないかと思う。彼女は、自然や生命の、「閉じた世界の中で管理可能な秩序」を超えた大きさ、濃密さ、複雑さに触れていく。そしてシンジも人々の「優しさ」に触れて回復する。旧劇場版では「ぼくに優しくしてよ」と叫んで拒まれたことが彼が人類を(ほぼ)全滅させるトリガーになったが、ここでは正反対に、なぜ皆が優しいのかをシンジは嘆く。そしてシンジは回復し、この村に象徴される、人々や生命を守るために戦うことを決意する。
加持リョウジについてのエピソードが後から追加されたのも、その主題系に関わる。本作の「善」の軍団と言っていいヴンダーの船は、加持が人類補完計画後に生命の種を保存するためのものだと設定され、繰り返し加持が育てていたスイカが何度も強調される。加持はTVシリーズのときから、この作品世界の中では珍しく(唯一?)農作業を行っている人物だった。『シン』ではそこを強調することで、生命を維持する、守る、育てることを擁護するという姿勢が明確にしているのだ。
その姿勢変更が象徴する、旧エヴァに対する「反」の態度が『シン』全編で貫かれている。旧劇場版はシンジが「だからみんな死んじゃえ」と呟き、自分自身と異なる他者の存在の全てを抹消する話だったが、今作はあらゆる生命を生かそうとする、回復させる作品なのだ。
日本の戦後サブカルチャーは、破壊を、「世界の終わり」を描いてきた。庵野が描いた『風の谷のナウシカ』の巨神兵のシーンも、大友克洋の『AKIRA』もそうだ。実写では『復活の日』や『日本沈没』がそうだろう。
しかし、1995年の阪神淡路大震災や、2011年の東日本大震災は、そのようなフィクションに耽溺していた人々に「現実」を突きつけた。他人事として言っているのではない、ぼくがそうだった。日常は退屈だ、だから、ぜんぶぶっ壊れればいい、そういう非日常をアニメやゲームに求めていた。
だから、巨大災害が起こった時には、一瞬、興奮を覚えた。東日本大震災当日のSNSや匿名掲示板を本気で調べれば分かると思うが、「怪獣映画」、「パニック映画」のようだと興奮する呟きがあった。今それを聞けば「不謹慎」だと思うだろう、しかし、この「不謹慎」という感覚は、震災後に一般化したものだ。当時は、たくさんあった。
現実の災害は、そんなものではなかった。フィクションで妄想するものとは全く異なっている。長く地味な苦しみがたくさん続く、陰惨極まりないものだった。現実も生命も、想像して理解していたつもりのものよりも、豊かで複雑だった。
世界を終わらせる物語ではなく、生命を育もうとする物語を描く。このような態度変更に、東日本大震災が大きく関わっていることは疑い得ないように思われる。『Q』の罪悪感と疎外感に満ちた世界から、アッパーで躁的な『シン・ゴジラ』を経て、『シン・エヴァンゲリオン』で庵野秀明は非常に穏やかで肯定的な境地に辿り着いたようだ。これが、とても素晴らしいと思った。
オタクたちの実存の物語
「世界の終わり」とは、TV版、旧劇場版においては、他者や現実を拒絶した「引きこもり」の世界に到達するということとして描かれていた。
『新世紀エヴァンゲリオン』はオタク文化それ自体を批評するアニメであった。おそらく、そう見てはいない観客も多いと思うので、時間があれば丁寧に説明したいのだけれど、紙幅が足りないので、それはまた別のところで。綾波レイは、複製される人工生命体だが、これはアニメのキャラクターの隠喩であろう。身体は14歳で、実は母親のクローンだというのは、オタクたちの求めるヒロイン像への皮肉のようである。理想の存在を人工的に作り上げ、そして23話でそれがコピーであることを見せ、破壊する。アニメの観客の欲望に呼応し、その後、突き放す。このようなリズムが旧『エヴァ』にはあった。
決戦兵器であるエヴァの魂には、「母親」がいるという設定になっている。エントリープラグの中は「羊水」と同じ成分のLCLに満ちている。旧劇場版の後半では、その母親が「何を願うの」と訊き、碇シンジの望むように世界が改変されていく。シンジの望んだ世界は、自分の思い通りにならない「他者」の存在しない世界である。つまり、オタクたちがアニメに求める世界とは、胎児に戻ることではないかと突きつけているのだ。それが「世界の終わり」である。
庵野秀明は、旧劇場版の後半で、声優たちのコスプレ姿を見せたり、映画館に来ている観客の姿を見せたり、実写を挿入することで、「夢」のグロテスクさを突きつけ、「現実に帰れ」というメッセージを発していた。フィクションの世界から強制的に追い出すために、エンドロールもなく、しかも上映中に幕が閉まってくるように指示さえした。劇場=アニメ=エヴァという、胎児の心地よさの世界から追い出すように。
シンジは、TV版の中で、(たぶん)三回、エントリープラグの中=母親の胎内に溶けている。16話、20話、(おそらく)25~26話である。電車の中でシンジは自身の分身と対話を続ける。その中で、「嫌なことには目をつぶり、耳をふさいできたんじゃないか」「楽しいことだけを数珠のように紡いで生きていられるはずが無いんだよ、特に僕はね」「楽しいこと見つけたんだ。楽しいこと見つけて、そればっかりやってて、何が悪いんだよ」という葛藤の叫びがある。2000年に秋葉原ブームが訪れ、メジャー化する以前の、社会的に認められていなかった時代のオタクの実存的な葛藤そのものだと言えるだろう。26話ラストの、虚構性を強調された空間の中でシンジが「ぼくはここにいてもいいんだ」と叫ぶことは、オタクとしての自己肯定という話だと見ることもできる。
だが、それは旧劇場版では反転する。オタクを辞めて現実を見ろ、という内容になる。ここに、阪神淡路大震災や、オウム真理教の地下鉄サリン事件の影響を見出すこともできるかもしれない。
ロボットに乗るということは、「社会化」のメタファーだと言われてきた。父の命令により、社会化することを拒むシンジは、他者を拒んでウォークマンで音楽ばかりを聞き、旧劇場版では自分を傷つける他者や世界の消滅を願った。そのような社会や現実や他者を否定し、退行的にフィクションに耽溺する態度は危険であると考えたのだろう。オタクでありながら、「おたくの連合赤軍」(大塚英志)であるオウム真理教に向き合った者の、悲痛な自己否定と自己批判のように、旧劇場版は見える。
『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年以降に巨大な社会現象になり、普及し始めていたインターネットと相まって、二次創作などを非常に発展させた。オタク文化を「萌え」の方向に大きく展開させたと言っていい。庵野秀明自身は旧劇場版でオタクたちに「現実に帰れ」と言ったが、ゼロ年代のオタクたちは、美少女ゲームやセカイ系に象徴されるような、閉じた世界で人工的なキャラクターとの関係を築く胎児的な世界を選び、労働や社会や他者や恋愛を忌避する傾向が増大した。ゼロ年代に批評家としてデビューした者として証言するが、そうやって生きられるかもしれないというユートピア的な情熱や、革命の熱狂があの当時は確かにあった。だが、その夢に賭けた者たちがその後、どんな陰惨な経験をしていくのかは、敢えて記すまでもないだろう。
オタク文化はその後、クールジャパン政策に寄与し、国を代表する文化として承認された。今では非常にメジャーな大衆文化であり、メインカルチャーになった。しかし、そこには多くの副作用があることも疑い得ない。現実や社会や他者を忌避する傾向が生じてしまうのだ。それが、日本社会の没落や、社会問題の蔓延や、少子高齢化と関連している確実な証拠はないが、批難を覚悟で言うと、個人的には関係していると思う。
「ケリをつける」をキーワードにしている本作は、かつて自分が引き起こした巨大な「インパクト」の罪を償う作品ではないか。自分がきっかけとなって拡大させたこの日本のオタク文化に対して、もう一度批評を行い、なんとか元に戻そうと願う作品なのではないか。
潔癖症的な理想主義者としてのゲンドウ
かつては、オタクの実存の問題は、シンジに担わされていた。庵野秀明の私小説的な葛藤をシンジは担い、同時に、エヴァに乗ることが、エヴァを作ることとも重ねられていた。だが、本作ではその役割を担うのは、シンジの父のゲンドウである。
今回のエヴァの見事な点は、解決が、戦いではなく、話し合いによる共感と理解によって行われるところだろう。シンジは、ミサトが「父殺し」を示唆したにもかかわらず、父であるゲンドウはどうして人類補完計画をしようとしているのかを話にいき、ゲンドウの内面世界に入る。そして理解するのは、ゲンドウも自分と「同じ」だったことだ。
ゲンドウは、「人類補完計画」で、人類を完璧なものに強制的に進化させようとする理想主義者だ。人類に絶望し、急進的に革命をしようとしてきた人類史上の多くの人々の影が投影された人物でもある。彼はなぜ、人類を「補完」しなければいけないと感じているのか。
ゲンドウは、「知識」において非常に優れた少年だった。だが、他者は不可解で流動的でよく分からないものなので、苦手としていた。彼はよく疎外された。京大を出て優れた理系の研究者になった彼は、人づきあいが苦手で、よく孤独を覚えていた。こう言うと批判が来るかもしれないが、ぼくの目には自閉症スペクトラム傾向のある高知能ギフテッドを思わせる人物造形に見える。その孤独を救ったのが、妻のユイだった。
ゲンドウは、世界や生命を清浄で秩序だったものに変えることを願っている。それは、ゲームやアニメなどの、幾何学的でクリーンで予測可能な空間や疑似生物を求める、潔癖症的な現在の多くの人々の感覚を延長したものである。ゲンドウがいる南極は、L結界に囲まれている。その後の「イマジナリー」「マイナス宇宙」の世界も、CGで作られている。生命のない幾何学的な嗜好を体現したような世界なのである。
アニメを好む人々の中には、ゲンドウのように、現実よりも理想的な世界や、キャラクターの世界を求めている人がいる。理解できない、複雑で不規則な他者が嫌いで、コントロール可能な存在であるキャラクターが好きだという人がいる。
彼は「虚構と現実」が一つになる世界を望んでいる。それも、ARや聖地巡礼などで、よく見られる欲望であり、リオオリンピック閉会式の演出などでも演出に採用されていた感覚である。アニメやゲームのように現実がなってしまえばいいのに! そう思うことは、いくらでもあるだろう。ぼくもあった。そういう願望を体現しているのがゲンドウである。
それに対しシンジは、既に述べたように、汚れた現実、不確定な他者に満ちたこの世界や生命を守ろうとする。父を止めようとするこの対比の中に、本作のオタク批判の核心がある。批判と言っても、旧劇場版のような攻撃的な対決ではなく、共感と理解に基づいているところが、大きな違いだ。結果、ゲンドウは、シンジとの対話で、自身の弱さを認め、謝罪をするに至る。
ゲンドウは、旧劇場版のシンジと同じだ。他者と関わるのが苦手で、そうであるがゆえに、差異をなくしてしまおうとする。シンジはそのことで胎児に戻り、母的なものに包まれている状態に戻ろうとしていたが、ゲンドウも同じように自身の妻と出会おうとしている。
ゲンドウが間違いに気が付くのは、自分が距離を置いてきた息子の中に、妻であるユイを発見したことに拠る。人類を補完なんてしなくても、求めているものは、自分が拒絶してきたものの中にあったのだ。この当たり前の気付きが、第三村の描写や、それが象徴するメッセージと見事に照応している。
これは表現レベルでも表されていて、第三村は実写の動きを参考にし、背景画なども手描きのタッチである。それに対し、ゲンドウたちネルフやマイナス宇宙はほとんどCGだけで表現されている。このような、技法、タッチ、文法レベルで思想的対決が表現されていることが、アニメーションとしての説得力を生んでいる。
庵野秀明が大きな影響を受けた富野由悠季の『機動戦士ガンダム』などの中で、理系的な特性を持つ支配的な人格の父との葛藤は描かれ続けてきた。これも批難を承知で勝手に断言するが、オタク文化のある側面には、科学技術に適応能力が高い発達の特性を持った主体たちの実存的な葛藤を担うマイノリティ文化という部分がある。
どうしてなのかこれまでに何度も考えてきたが、戦後日本が科学技術立国になる中で、そのような人格の人物が活躍する場が広がったことが関係しているのではないかと思う。その子の世代こそが、『鉄腕アトム』などに体現される「科学による明るい未来」と称しながら人間的に問題がある科学者・技術者たる父たちに反抗している、という側面が、80年代前後のアニメーションにはあったのではないか。正直に言うと、筆者の父も、そういう人間だ。科学と技術に希望を託し、戦後日本の国家の発展を担ってきたが、人格的に問題のある人だった。とはいうものの、その人格的な問題は、ぼくにも受け継がれているのだが。
『シン・エヴァンゲリオン』は自分と同じような性質を持つ父との葛藤の物語であった。そしてその解決は、あからさまに不自然さを際立たせたCGによって強調された親子エヴァの戦いによって果たされるのではない。それは、CGで特撮を撮影しているところを再現するという二重の虚構性で示されているような、インチキめいたものでしかない。むしろそれを拒絶し、互いの孤独や生の苦しみを理解し合うことによって果たされる。それは、戦後日本におけるカウンターカルチャーとしてのアニメーションへのケリの付け方でもあっただろう。
「虚構と現実」を、どのように重ねるか
本作の結末は、旧劇場版における「シンジの願い通りの世界になる」という設定を踏まえながら、観念的で現実否定的な理想を実現することではなく、不完全で流動的で猥雑なこの世界そのものを肯定することを選ぶというものだ。様々な生命が生まれ続けている不確定で流動的で未知なこの世界を丸々肯定しようとする覚悟の表明だ(とはいうものの、綾波レイは、農村の暮らしをしつつも、「ここでは生きられない」と呟く。そこを安住の地にも出来ない、馴染めない、そういう主体が、ではどうするのか、という話でもある)。
エンディングの、実写とアニメーションの重ね合わせは、アニメーションの延長線上に、解放系としてのこの現実を重ねることで、この現実そのものを、愛するキャラクターたちが生きている世界と感じさせる効果がある。「虚構と現実」の重ね合わせを、「虚構」で「現実」を否定するのではなく、現実や生命を愛する方向に(アニメオタクたちの)愛着や情動を誘導するために用いている点が、本作の見事な「虚構と現実」へのケリの付け方であり、自らが発展に寄与したオタク文化への落とし前なのではないだろうか。
もちろん「シンクロ率無限大」や、後半の怒涛の謎設定・謎用語の連発など、バカバカしいところもあったが、あまりにも連発されるので設定厨・考察厨を無意味化させる効果を狙っているのだろうと脳が自動的にフィルタリングしていたし、お祭り騒ぎみたいに楽しかったので、これはこれでいい。
『新世紀エヴァンゲリオン』の影響で人生の道を大きく踏み外し、東日本大震災によって自身を内省し、震災後の被災地の現実に接し、贖罪的な気分で批評活動を行い、今は一人の子供を育てている人間として、ほとんど宗教的とも言えるような庵野秀明のこの転回を、全面的に悦び、肯定したいと思う。同時代に、こういう作り手がいてくれて、よかった。ありがとう。
総評
旧エヴァファンにとっては、満点に近い作品。だが、『新劇場版』だけのファン、特に『破』が好きな人には意味不明な作品かもしれない。新旧両方のエヴァを踏まえつつ、26年分の人格的な成長を反映しており、オタクなりの成熟という主題を引き受けようとしている。TV版、旧劇場版の隠れた主題であった「オタクの実存」「オタク批判」の側面とメッセージを反復しつつも、より優しく柔らかい態度へと変化したことが大きな違いである。その態度変更には、東日本大震災の影響が伺える。戦後日本サブカルチャーの宿命である、戦争や災害への応答としての側面を引き受ける態度が、本作にもあると見るべきだろう。アニメーション特有の快楽を全開にし、CGと手描きの表現の差異をも主題に奉仕させた見事な作品である。エヴァファンなら必ず観るべきであるし、ファンでなくとも、尖った異様な作品に触れる経験をしておいても損はない。