【SF史に残る(べき)ゲームたち】第1回:メタルギアシリーズ――現代SF最高の達成
科学的・技術的な進歩と、形式と内容の相互関係
記念すべき第一回では、「メタルギア」シリーズを扱う。
「メタルギア」シリーズは、SFというジャンルにおいて、ゲームにおける表現が最も優れたものになってしまったという事態を決定的に示す作品である。ゲームというメディアの固有の性質が、SFの主題、展開、表現方法、映像、体験……などなどと複雑に絡み合って非常に高度な達成を行った記念碑的作品であり、ゲームという芸術の最高峰に位置する作品であると断言して構わない。
本論が重視するのは、そのメディア自身の科学的・技術的な進歩と、形式と内容が相互関係を持つ類のSFゲームである。SFというジャンルが、ミステリやホラーなどの他のジャンルと決定的に違う部分はそこにある。日本SF大賞を設立した小松左京や筒井康隆はそれを明確に意識していた。ここではそれを、「メディア技術との随伴性」と呼ぶことにする。
その観点からすれば、「メタルギア」は、日本SFの、近年における最大、最高の成果であることは疑い得ないのだ。
本論に入る前に、望外にも前回の連載が大きな反響を呼び、たくさんのコメントをいただいた。せっかくの連載なので、インタラクティヴに応酬する方が面白いと思うので、いくつかに応答しようかと思う。
「メタルギア」の話をすぐに読みたい読者は、次の二節は飛ばしてしまってほしい。
SFはゲームを評価してこなかったか?
まず最初に応答したいのが、SFは「ゲーム」を評価しているではないか、という意見である。
たとえば、アメリカSFファンタジー協会がネビュラ賞にゲームライティング部門を新設したではないかという意見が来た。確かにそうだ。前回の連載で問題視したのは、あくまで日本のSF界の評価の話であった。「日本」を強調しなかった点を、お詫びする。
これ自体は素晴らしいことで、ようやくゲームがSFとして評価される適切な評価の俎上に上ってきたという感じがある。2018年に最初の受賞作が決まるので、まだ受賞作もわからないし、選評を読めてもいないが、ゲームならではの魅力を適切に評価する枠組みができることを期待してもいいのではないか。
やはり「正当な」評価はされていないと言わざるを得ない
日本SFはゲームを評価しているではないかという意見もいただいた。たとえば、「SFマガジン」でゲームが扱われてきたのではないか、という意見がある。たとえば、宮昌太郎が2001年から連載しているTVゲームに関するコラムがある(後に「幼年期が終わった後に テレビゲーム評論集 2001-2012」として纏められた)。
ほかにも、「SFマガジン」が「メタルギア」を特集したではないかという意見があった。これに関しては、ぼくはその特集以前に、早川書房のパーティで、「SFマガジン」で「メタルギア」の特集をした方がいいということを言っていた記憶がある(それが影響したのかどうか、定かではないが)。編集者を捕まえて管を巻いた内容は、前回と似たようなものだ。
これらを根拠として、SFはゲームを「無視してきたわけではない」ということは、確かに言えると思う。確かに、無視はされていない。ゲームのSF性を評価しようと努力した多くの人々がいるのも分かる。しかしながら、やはり「正当な」評価はされていないと言わざるを得ない。
日本SF作家クラブに属するプロが選ぶ「日本SF大賞」と対となるSFの賞に、星雲賞というものがある。こちらはファンが中心となって投票して選ぶ賞である。その映画演劇部門・メディア部門で、2001年にゲーム「高機動幻想ガンパレード・マーチ」が受賞したことがある。星雲賞でゲームが受賞したのはその一度のみだ。200作近くの小説、45作近くの映像作品、50作近くのコミック作品が受賞する中で、ゲームはひとつのみ。
これが「正当な評価」とは、どう考えても思えない。そんなにゲームにおけるSFが圧倒的に劣っているとは、どうしても思えないのだ。
本連載で扱う作品の基準
ふたつ目に応答したいのは、SFとして高く評価するゲーム(そして、本論で扱う作品)を選択する基準についてである。
思い入れのある多くの作品が、皆さんにもあると思う。たくさんの作品名を教えてくださって、感謝する。それらが無視されていると感じると、つらいのは良くわかる。この論も、それに近い動機で書かれているから、なおさらだ。
しかし、すべての作品を俎上に乗せることは、どうしても出来ない。それは、ぼくが単純に知らないからである場合もあるし、好きだけど論じる切り口が見つからないことや、魅力的なのだけれどこの連載の主旨を鑑みてどうしても泣く泣く扱うのをやめてしまうという場合もある。その辺りの限界は、一個人としては(努力の限りを尽くしたとしても)超えがたいのが、自分自身でも残念であり、無念でもある。
「SF」としてゲームを評価するという趣旨から鑑みて、どうしても物語性を持ち、主題が明確で、批評性のあるものを扱うことが多くなると思う。それらの要素が、ゲームというメディアならではの表現をされているものが、本連載でもっとも高く評価するコアになると思う。
SFという、戦後日本を代表する文化史的な流れの中にゲームを位置づけることで見えてくる景色
もちろん、テーマや物語性や批評性が強くないゲームが、つまらないとか、魅力がないと言いたいわけではないし、そう思ってもいない。たとえばシューティングゲームは、それらの要素は相対的に少ないが、プレイ体験としては非常に面白い。実際、「グラディウス」や「沙羅曼蛇」も論じたいと思い、直前まで候補作のリストに入れていた。「どう論じたらいいのか思いつかないかもしれない」とビビって取り下げたのだ。ご意見をいただき、チャレンジしてみる決心が付いた。
ゲームは別に「SF」として評価されなくてもよいほどの自立的価値を持った芸術であり、メディアであり、娯楽であるという意見もある。確かにその通りだと思う。SFとして扱われることにゲーム側のメリットはない、という人もいる。確かにその通りかもしれない。
しかしながら、SFという、戦後日本を代表する文化史的な流れの中にゲームを位置づけることで見えてくる景色、パースペクティヴもあるはずで、それを探求することは、しないでいるよりもずっとゲームのためになるはずだ。SFがゲームを照らし、ゲームがSFを照らすことで、非常に豊かにその意義や価値が浮かび上がるポイントがある。その景色の中でこそ、ゲームはより豊かにその意義を見せてくれるとぼくは信じている。
システムと物語の相互作用
さて、では、「メタルギア」を論じていく。SFとしてゲームを評価することによって生まれる新しい物の見方の魅力が、この論述で伝わってくれると嬉しいのだが。
「メタルギア」は、日本SFの、近年における最大、最高の成果であることは疑い得ない。具体的な内容を、シリーズを追ってみていこう。
「メタルギア」は、1987年に発表された小島秀夫監督によるゲームだ。当初は、映画「ランボー」を模倣して企画が立てられ、MSXというハードの制約(弾をたくさん飛ばせない)から、「ステルス」というコンセプトに至ったという。「ステルスゲーム」というジャンルの基礎的・古典的な一作として大変名高い作品である。
メディアを意識したメタフィクション(遊び)の部分が大変刺激的な作品
国際的な評価を高めたのは1998年にプレイステーションで発表された「メタルギアソリッド」である。ローポリゴンながら3Dを使ったリアルタイムの映画的演出は、多くのプレイヤーに衝撃を与えた。核兵器の発射を止めるというポリティカルな設定や内容の魅力もさることながら、作中の中ボスが「超能力」を使い、コントローラーを揺らしたり、セーブデータを読み取ってユーザーが他にプレイしているゲームを当てるなど、メディアを意識したメタフィクション(遊び)の部分が大変刺激的な作品であった。
「メタルギアソリッド」の時点で、SF的な設定は大量に現れている。主人公や敵キャラはクローン。遺伝子工学がテーマとなり、ウィルス兵器などが出てくる。ラスボスは核兵器を発射しようとしており、それを止める。「メタルギア」と呼ばれる核搭載二足歩行型戦車の造形は、巨大ロボットである、などなど……。しかし、SF的なガジェットと、テーマを使っているということだけで優れている、ということではない。それらのテーマを、ゲームというメディア固有の表現によって扱うことで、これまでにない内容を実現させたことこそが、本シリーズの重大なSF的な達成なのだ。
物質や肉体の側面をより脱落させ、ゲームという形式と内容がより重なるようになった
「メタルギアソリッド」当時のプレイステーションの能力では、敵兵は人間らしく動かせない。だから、遺伝子操作をされた「クローン兵」であり、感覚や知性に問題がある、という設定を用いる。ゲームはデジタルなデータである。だからこそ、(コンピュータ)ウイルスなどの主題を用いる。何より、そこはコンピュータの中で、論理エンジンや物理エンジンなどによって作られた仮想の世界に過ぎない。そこでプレイヤーは役割を演じ、キャラクターに同一化してプレイしているのである。その世界は本物ではなく、プレイヤーは演技者に過ぎない。そのような当たり前の性質を内容に生かす。登場人物には別の顔があり、世界は見えたままではなく、本物ではない。ジャンルとして自ら「エスピオナージュ」(国際謀略)を名乗り、スパイ映画のような展開にすることが、表現形式と呼応しあい、非常に効果を高めている。
「メタルギアソリッド2」(2001)は瞠目すべき達成である。主人公スネークを操る序章が終わると、操作キャラクターが変わり、序章でプレイしたのはどうやら訓練のシミュレーターらしいという情報がプレイヤーに伝えられる。ひょっとすると一作目のゲームもシミュレーターだったかもしれない。新しい主人公・雷電とプレイヤーは、「スネークをシミュレートしていたプレイヤー」として、スネークからの疎外感を通じて連帯する仕掛けになっている。そして物語は、「1」では「クローン」や「ウイルス」などの遺伝子、つまり「GENE」をテーマにしていたのが、文化的遺伝子、つまり「MEME」をテーマとする。物質や肉体の側面をより脱落させ、ゲームという形式と内容がより重なるようになったということだ。
メディアや監視・管理技術を用いた内面のコントロールという問題系が社会的に警告されていた時期
その結末近くで、(作中の)世界は実在せず、シミュレーションの中でロールをプレイさせることによって、内面をコントロールしているという主題が現れる。作中の雷電はそれに苦悩する、と同時に、画面全体がバグを模し滅茶苦茶になる。「これは単にゲームである」と突き放すのみならず、ゲームが「ゲームデザイン」などでプレイヤーの感情や行動をコントロールする装置であることを暴き、突きつける。突きつけ、突き放すことが、むしろ魅力となるという逆説的な一瞬に、ゲームの形式と内容と主題とが奇跡的に合致する、ゲーム史上最高の達成が宿っている。ちょうど9.11の直後に発表された本作は、メディアや監視・管理技術を用いた内面のコントロールという問題系が社会的に警告されていた時期であった。その問題系を、ゲームという体験を通じて、ダイナミックに理解させられてしまうことこそが、他のメディアとは異なるゲームならではの固有の体験として、絶賛せざるをえない。
「メタルギア」の大ファンであった伊藤計劃は、もちろん、これに影響を受けた。現実、メディア、現実認識に影響を及ぼす「ハッキング」や「ウイルス」というテーマや、9.11以後のフィクションを模索する側面などに、「虐殺器官」「ハーモニー」への影響が伺える。
文庫版の「メタルギアソリッド ガンズオブザパトリオット」に小島秀夫が寄稿した解説「伊藤計劃さんとのこと」によると、二人の初めての出会いは「一九九八年三月」の東京ゲームショウで、小島に伊藤が声をかけたらしい。「僕と伊藤さんは、ゲームクリエイターと熱心なファンという関係にすぎないものでした」(p528)。そして、伊藤が入院している病院で「MGS2」の映像を小島は見せた。
「メタルギアソリッド4」は、伊藤の作品とのつながりが一層濃い。伊藤のことを貶すつもりはないが、個人的には「MGS4」の方がSF作品としては伊藤のものより高く評価されるべきではないかと思っている。ネットワークに個人が接続され、感情や思考がコントロールされる世界が訪れるというテーマは、MGS4の方が早い。さらには、ゲームという装置でしか体験できない形でそれが表されている。プレイヤーの感情や行動をコントロールする装置であるゲームを、デザイナーたちの掌の上を転がされてプレイした末だからこその、他人事ではない反省というものがあるのだ。
作中のポリゴンでできた敵キャラたちを殺害して楽しみに、何度死んでも自分が痛むわけではない架空の身体を操作しているだけの癖に、作中世界に感情移入している自分のどうしようもなさを反省させられるし、ゲームの成績によって兵士をリクルートするという現実の事象を取り込んだ敵兵たちの姿を見ていると、ゲームをやりすぎた自分たちの未来の姿であるかのように思わされるのだ。
「虐殺器官」で描かれた乖離的な身体・現実感や、コントロールの主題は、小説の形態よりも、ゲームというメディアでこそ、より批判性が突き刺さる仕方で伝わってくるのだ(だからこそ、それに匹敵するために、「ハーモニー」では、言葉というメディアの性質を生かそうとしたのだと思う)。
「メタルギアソリッドⅤ」では、操作していたスネークというキャラクターが、実はスネークではなく一般の兵士であり、整形と自己暗示によって「英雄」を演じていただけだということが最後に明かされるが、これもゲームの持つ「ロールプレイ」「キャラクターとプレイヤーの乖離」というメディアの根本的な性質それ自体をプレイヤーに突きつける皮肉である。
列挙はしないが、「これはゲームである」「虚構である」ことを示す小ネタや演出が「メタルギア」のシリーズには大量にある。SFの持つ「メディア技術との随伴性」という性質――つまりは、メタフィクションの性質とは、自身が存在している技術的条件を意識させ、それに囲まれている現在の生を問わせるための技法である(典型は、筒井康隆だ)。
急激に成長していく科学・技術の産物それ自体を意識化し、楽しませながら批評的な意識を持たせる
核兵器や原子力などの主題を引き受けることで、戦後日本の特異なサブカルチャーである日本SFを引き受け、主人公を被曝者に設定し「ゴジラ」に作中で言及し、ダンボールを被って隠れるということで安部公房らに目配せし、参照しているということだけではない。コンピュータ、ゲーム、ネットワークという、ぼくらを取り囲んで急激に成長していく科学・技術の産物それ自体を意識化し、楽しませながら批評的な意識を持たせる、という点で、「メタルギア」シリーズは、現代SFの最大の達成のひとつであるのみならず、ゲームという芸術の偉大なる達成のひとつなのだ。
人類は今までこのような表現を手にしたことはなかった。だから、既存の価値軸や権威だけによる評価に依存するだけでは、適切な評価を行うことはできないのだ。評価するための理論や基準それ自体を作りながら、手探りに位置づけていくしかない。歴史的文脈を踏まえつつも、新しい未知なる一歩に足を踏み出して成功したこのような恐るべき傑作を評価しなければならないのだ。
次回以降、ゲームの正当なる芸術的価値を適切に評価し、位置づけるための手探りを続けていく。どうかお付き合いいただけたら幸いである。