(町田 明広:歴史学者)
勝海舟、春嶽に援助を要請する
文久3年(1863)4月27日、勝海舟はその日記に、「摂州神戸村最寄りへ、相対を以て地所借受け家作いたし、海軍教授致し候儀、勝手次第致さるべく候事」(「海舟日記」)と記述た。つまり、幕閣から神戸あたりで勝自身が直接交渉して、地所を借りて家屋を建て、そこで海軍塾を開くことは問題ないとの言質を得たのだ。
勝は、確かに神戸において念願の私塾を開設する許可を得た。しかし、幕府からの金銭的な援助がなかったため、盟友とも言える越前藩の松平春嶽に献金を依頼することにした。そこで勝は、越前藩の要人である村田氏寿を通じて、私塾開設の経費の援助を春嶽に依頼するため、弟子の中から坂本龍馬を選抜し、福井に派遣した。
また、勝は松平春嶽の最側近である中根雪江に海軍構想とともに、龍馬の派遣について説明した。春嶽の片腕で、勝の友人である中根にも何らかの助力を期待したのだろう。
5月20日頃、龍馬は福井に到着し、早速、春嶽の政治顧問として活躍していた肥後藩士の横井小楠と面談した。龍馬は勝塾の設置などの経費として、1000両の拝借を願い出た。横井は躊躇なく、快くその願いを快諾し、龍馬は勝の要望に見事応えることが叶ったのだ。
越前藩の援助もあり、勝の私塾は6月後半までには開所したと考えられる。塾頭は、龍馬と佐藤政養が務めたらしい。佐藤も勝の門下生で、この後、軍艦操練所蘭書翻訳方や大坂台場詰鉄砲奉行を歴任するなど、勝を大いに支えることになる。