陳茂
事跡
編集姓名 | 陳茂 |
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時代 | 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 23年(更始元年) |
字・別号 | 不詳 |
出身地 | 不詳 |
職官 | 執金吾候〔前漢〕→大司馬〔新〕 |
爵位・号等 | 延徳侯〔新〕 |
陣営・所属等 | 平帝→孺子嬰→王莽→劉望(劉聖) |
家族・一族 | 不詳 |
前漢の平帝の時代には執金吾候(執金吾の属官)の地位にあった。天鳳2年(15年)、苗訢の後任として、陳茂は大司馬に就任する。しかし天鳳3年(16年)秋、日食の出現を理由として大司馬を罷免された(後任は荘尤(厳尤))。
その後、時期は不明だが、陳茂は秩宗将軍(「秩宗」は太常に相当する)に任命され、地皇3年(22年)、納言将軍荘尤と共に、王常率いる荊州の反新軍である下江軍を撃破している。しかし地皇4年(23年)、陳茂と荘尤は、劉縯率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、陳茂と荘尤は、荊州の更始帝(劉玄)を討伐する大司空王邑・大司徒王尋の新軍主力部隊に合流した。しかし、この新軍主力部隊も、同年6月の昆陽の戦いで、劉秀(光武帝)率いる漢軍に大敗して壊滅し、荘尤と陳茂は辛うじて戦場から離脱した。
陳茂と荘尤は、譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り、漢朝の将軍を号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで、漢が復興すべきであると、沛の官吏や民衆に対して演説したが、一方の陳茂は、地に伏して哭泣したという。しかし、荘尤と陳茂は、荊州の更始帝には降らなかった。更始元年(23年)8月、漢では鍾武侯であった劉望(『漢書』では「劉聖」)が汝南郡で皇帝を自称していると聞くと、2人はこれに投降し、荘尤は大司馬、陳茂は丞相に任命された。
更始帝は、皇帝を称した劉望の政権を敵とみなし、大司徒劉賜を派遣してこれを討伐させたが、劉望らは劉賜を撃退する。しかし同年10月、続いて討伐に来た奮威大将軍劉信に敗れ、劉望・荘尤・陳茂はいずれも戦死した[1]。
脚注
編集- ^ 『漢書』王莽伝によると、陳茂らは十数日で滅亡したという。ただし、十数日の起点が、陳茂の丞相就任日、劉賜の討伐開始日、劉信の討伐開始日のいずれであるかは不明である。