劉望
劉 望(りゅう ぼう、? - 23年)は、中国の新代の武将、政治家。『後漢書』劉玄伝などでは「劉望」、『漢書』王莽伝は「劉聖」と記しているが、より新たな史書である『後漢書』の表記を本記事では採用する。
事跡
編集姓名 | 劉望(一説に劉聖) |
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時代 | 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 23年(更始1年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 南陽郡? |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | 鍾武侯〔新〕→皇帝〔自称〕 |
陣営・所属等 | 王莽→〔独立勢力〕 |
家族・一族 | 祖父:劉度?、父:劉則? 伯父:劉宣?、従兄:劉覇? |
新末の群雄の一人。元々は漢室の宗族に連なる鍾武侯であった[1]。
更始元年(23年)6月に、新の主力部隊が潁川郡昆陽(現在の河南省平頂山市葉県)で劉秀(後の光武帝)により殲滅されると、その間隙を突く形で劉望も挙兵し、汝南郡の各県を攻略した。この時、昆陽の戦いで敗北した新の納言将軍荘尤(厳尤)・秩宗将軍陳茂も、劉望の配下に加わっている。劉望は、荊州の更始帝の配下となることを望まず、同年8月には天子を称し、荘尤を大司馬、陳茂を丞相にそれぞれ任命して、新にも更始政権にも属さない独自路線をとることを鮮明にした。
そのため劉望らは、更始政権からは討伐の対象とみなされてしまう。まず更始政権の大司徒劉賜率いる軍の追討を受けたが、劉望はこれを撃退することに成功している。しかし同年10月、劉賜に代わって討伐に来た奮威大将軍劉信には敗北して、劉望・荘尤・陳茂は揃って戦死し、劉望の政権は間も無く滅亡した[2]。