辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日[1] - 1967年4月27日)は、中国文学者。

辛島 驍
人物情報
生誕 (1903-08-16) 1903年8月16日
日本の旗 日本 福岡県福岡市
死没 1967年4月27日(1967-04-27)(63歳没)
出身校 東京帝国大学
子供 辛島昇(東洋史研究者)
学問
研究分野 中国文学
研究機関 京城帝国大学昭和女子大学
学位 文学博士
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経歴

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出生から修学期

1903年、福岡県福岡市で生まれた。1921年に福岡県立中学修猷館を卒業し[2]山口高等学校に進んだ。卒業後は帝国大学文学部に進み、支那文学科で学んだ。1928年に卒業[3]

中国文学研究者として

1929年に京城帝国大学法文学部講師となり、支那語学、支那文学講座を担当した。その後助教授を経て、1939年に教授昇格[4]。同年に博士論文『支那現代文学の研究』を東京大学に提出したが、太平洋戦争下の混乱の中で文学博士号授与は1946年となった[5]。朝鮮半島赴任時には、延禧専門学校(現・延世大学校)校長も務めた[6]

太平洋戦争後

戦後は昭和女子大学相模女子大学教授などをつとめた。また、鎌倉文士とのつきあいもあり、鎌倉市図書館館長を務めた。1967年に死去。

栄典

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家族・親族

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著作

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著書
共編著
訳書
訳担当「白娘子永鎮雷峰塔
  • 『醒世恒言』(全訳中国文学大系 1, 第10-14巻) 馮夢竜編、辛島訳註、塩谷温監修、東洋文化協会 1958
  • 『拍案驚奇』(全訳中国文学大系 1, 第15-17巻) 辛島訳註、塩谷温監修 東洋文化協会 1958-1959
  • 『覚世名言十二楼』(全訳中国文学大系 1, 第23巻) 李漁著、東洋文化協会 1958
  • 『無声戯 第1』(全訳中国文学大系 1, 第1巻) 覚世稗官編次、東洋文化協会 1959
  • 『警世通言 第1』(全訳中国文学大系 1, 第6巻) 馮夢竜編、辛島訳註、塩谷温監修、東洋文化協会 1959
  • 魚玄機薛濤』(漢詩大系 15) 集英社 1964
  • 詩選』(漢詩大系 16) 今関天彭共著、集英社 1966
  • 『中国怪談集』中野美代子武田雅哉編、河出書房新社(河出文庫) 1992
訳担当「十巹楼」李漁

参考

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  • 「辛島驍略年譜・著作目録・写真他 : 昭和五十八年十七回忌の法要に際して」辛島昇編 1983
  • 「中国現代文学の研究」辛島昇の解説 

脚注

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  1. ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』(日外アソシエーツ、1983年)p.147
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員15頁
  3. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正15年至昭和2年)』(東京帝国大学、1927年)學生生徒姓名480頁
  4. ^ 『京城帝国大学一覧 昭和14年』(京城帝国大学、1939年) 229頁
  5. ^ CiNii(学位論文)
  6. ^ 辛島驍「朝鮮学徒兵の最後」文藝春秋第42巻10号(文藝春秋新社、1964年) 266-272頁
  7. ^ 『官報』第5423号「叙任及辞令」1945年2月14日。
  8. ^ その他は、「白夫人の妖術」(林房雄訳)、「白夫人の妖恋」(八住利雄訳)。