西戎(せいじゅう)あるいは(じゅう)および犬戎、戌戎(けんじゅう)は、四夷の一つ。殷代西夷と称されていたが、周代に西戎と改称された。

四夷の名称

太古の先秦時代、西戎は黄河文明上流西側の諸民族を指し、華夏族の起源の一つである。秦以降、中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。

概要

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かつては文王の討伐を受けたことがある。後に文王の太子である武王と盟約を結んで共にを滅ぼした諸侯国の一つである、ほかには葷粥くんいくてい密須みつしゅなどが含まれた。

周代には現在の陝西省四川省から甘粛省チベット自治区の付近にいた。周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人公の誘いを受けた犬戎けんじゅう紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代の終わりを告げた。これ以降は春秋時代に入る。

周が追われた地にが封ぜられた。秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもの北はテュルク系、南はチベット族やチベット人の祖とされる彝族とみられている。

の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「」と同じで、西方の遊牧民を意味する[1]古公亶父は、に攻められて岐山の下に移り、はじめて狄風の生活形態である遊牧を改め、都市を建設し、北方狩猟民出身のを倒して取って代わった周が、西方遊牧民出身であることは明白である[1]

中国戦国時代儒学者である孟子は『孟子』において、「諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として[2][3]は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている[4][5]

脚注

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  1. ^ a b 岡田英弘『だれが中国をつくったか』PHP研究所PHP新書〉、2005年9月16日、29頁。ISBN 978-4569646190 
  2. ^
    孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
  3. ^ 王徳威「基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―」『愛知大学国際問題研究所紀要』第155号、愛知大学国際問題研究所、2020年3月16日、10-11頁、国立国会図書館書誌ID:030449718 
  4. ^ 杉山清彦第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史』(レポート)東京大学教養学部〈「正統」の歴史と「王統」の歴史〉、2021年、6頁https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_1087/ 
  5. ^ 韓東育「清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで」『北東アジア研究. 別冊』第4巻、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2018年9月、17頁、CRID 1051412328381388928ISSN 1346-3810 

関連項目

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