西 徳二郎(にし とくじろう、1847年9月4日弘化4年7月25日) - 1912年3月13日)は、日本の外交官枢密顧問官薩摩藩出身の男爵

西 徳二郎
にし とくじろう
生年月日 1847年9月4日
弘化4年7月25日
出生地 日本の旗 日本薩摩国鹿児島城下
(現:鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1912-03-13) 1912年3月13日(64歳没)
死没地 日本の旗 日本
出身校 サンクトペテルブルク大学
前職 外交官
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
男爵
子女 西竹一

日本の旗 第13代外務大臣
内閣 第2次松方内閣
第3次伊藤内閣
在任期間 1897年11月6日 - 1898年6月30日

日本の旗 枢密院顧問官
在任期間 1897年3月18日 - 11月6日
在任期間 1901年11月25日 - 1912年3月13日
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若年のころはロシアの帝都サンクトペテルブルクに遊学し、その後はロシア・中国()両勢力圏に挟まれる中央アジアを調査した経歴を持つ。1886年6月より10年の長きにわたってロシア公使を務めたロシア通として知られた。1897年11月より約1年半外務大臣に任じられ、その間、大韓帝国をめぐる日露関係の調整に努めた。1900年義和団の乱において1か月半におよぶ北京籠城を経験している。嗣子は、乗馬の選手として1932年のロサンゼルスオリンピックで金メダリストとなり、のち太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐である。

人物・略歴

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1847年 、父・西藤左衛門勝成(薩摩藩士)、母・加納ヒロの次男として鹿児島城下樋之口町に生まれた。藩校造士館で和漢洋の学問を学んだ[1]1868年戊辰戦争では黒田清隆の指揮下で長岡戦争に参加し、長岡藩の攻略に従事した[2]

維新後は明治2年に外国語を学ぶべく上京し昌平学校に入学、海外留学を志す[1]開成所、東京大学生徒監督等を経て、ロシアの帝都サンクトペテルブルグに赴任したい決意を述べた「入露説」と題する上申書を黒田清隆のとりなしで参議の大久保利通に提出し、明治3年(1870年) 6 月ロシア派遣の官命を受ける[1]。同年7月よりロシアに留学したが、このとき、大久保よりロシア政体取調を委託されている[3][4]

1871年から文部省留学生として学費を受け、翌年秋にサンクトペテルブルク大学に入学して法政学を専攻、1873年末に官費留学生は終了したが自費で残留を続け、1876年、同大学の法政科を卒業した[2][1]。1874年からは同大学東洋学部において日本語講師も務めた[1]。卒業後ペテルブルグの新聞社に入社して記者として勤務の傍ら諜報活動を続け、ロシアが秘密裡に朝鮮元山を租借して軍港を築こうとしていることを察知し、駐露特命全権公使榎本武揚に報告、日本から朝鮮政府への勧告によりこの計画は頓挫した[1]

大学でフランス語も学んでいたことから1876年3月フランス公使館2等書記見習となりパリに赴任、1877年4月には書記一等見習に昇格、1878年2月外務二等書記官となりロシア公使館に在勤、この年の11月から1880年3月まで臨時代理公使の任にあった[2][1]。在勤中は絵画やピアノ、馬術を習い、観劇や舞踏にも興じて社交界の名士となった[1]

1880年7月から半年間中央アジアシベリア中国の各地を旅した[2]。このときの見聞は、のちに報告書『中亜細亜紀事』(1886年)として陸軍より出版された[4]。帰国後の1881年6月に太政官大書記官、軍事課勤務兼参謀本部御用掛、1882年6月に太政官大書記官兼宮内大書記官となる[3]。同月ロシア皇帝アレクサンドル3世戴冠式に参列するためサンクトペテルブルクを訪問する有栖川宮熾仁親王に随行した[2][3]

1886年6月、駐露公使に任命されて露都サンクトペテルブルクに赴任、以後10年以上にわたってその職にあった[2]1894年から1895年にかけての日清戦争とその後の三国干渉ではロシア帝国の情報収集に尽力した[2]。西は、三国干渉の数か月前からロシアの動きを察知して、それを陸奥宗光外相に報告し、陸奥をうならせたという。下関条約に先立つ講和条件に関する意見では、駐英公使の青木周蔵盛京省および吉林直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地をそこに建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張したのに対し、西は、ロシアを刺激することになる領土要求よりもむしろ償金を優先すべきという考えであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行った方がロシアなどからの干渉を極力排除できると説いている[5][6]。また、1896年5月には、ニコライ2世の戴冠式に参列するため特命全権大使としてロシアに赴いた山縣有朋を助け、6月9日には山縣・ロバノフ協定の締結に貢献した[7][注釈 1]

1897年3月に枢密院顧問官に任命されたが、同年11月6日、第2次松方正義内閣外務大臣に任じられ、続く第3次伊藤博文内閣でも外務大臣を務めた[2][3][4]1898年4月25日大韓帝国をめぐる問題に関連して西・ローゼン協定に調印し、日本の朝鮮半島への経済進出を帝政ロシアに認めさせた[2][4]。同年10月、駐清公使となり1900年の義和団の乱(北清事変)では北京籠城戦を経験した[2][3]。公使館に日本人居留者をかくまい、敵の襲撃から守った。福島安正率いる日本軍が到着すると公使館を飛び出し、自ら陣頭指揮にあたって戦果を挙げたと伝わる。1901年(明治34年)11月、枢密顧問官に再任された[2][注釈 2]1912年3月13日、死去[3]。墓地は東京都港区青山霊園(1イ8-3)に所在する[9]

年譜

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西徳二郎
  • 1847年:西藤左衛門・ヒロの次男として生まれる。幼名は常二郎。
  • 1870年(明治3年):ロシア ペテルブルク大学に留学。
  • 1873年-1880年中央アジアを調査のために踏破する。ブハラ、サマルカンド西トルキスタンタシケントウイグル新疆を調査した。
  • 1874年:フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
  • 1886年6月:駐ロシア公使を拝命(兼スウェーデン、ノルウェー公使)。
  • 1896年8月:駐ロシア公使離任。
  • 1897年3月:枢密顧問官任命。
  • 1897年(明治30年)11月6日-1898年(明治31年)1月12日: 第2次松方内閣の外務大臣就任。
  • 1898年(明治31年)1月12日-1898年(明治31年)6月30日: 第3次伊藤内閣の外務大臣就任。
  • 1898年(明治31年)4月25日: 第3次日露協定(西・ローゼン協定)。
  • 1899年10月:清国駐在公使を拝命。1900年の義和団の乱(北清事変)では北京に籠城。
  • 1899年(明治32年)12月27日:勲一等旭日大綬章受章。
  • 1901年1月:駐清公使離任。
  • 1901年11月:枢密顧問官。

著作

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  • 西徳二郎 『中亜細亜紀事』 <異域叢書>青史社、1987年(この著作は1886年に記した)。

栄典

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位階
勲章

栄誉

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外国勲章佩用允許

脚注

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注釈

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  1. ^ 1898年頃までは、陸奥宗光と西徳二郎を中心に形成された非同盟・ 日露協商路線が日本外交の基本方針となっていた[8]
  2. ^ 1901年以降は、明確に桂太郎小村寿太郎による日英同盟路線に方針が転換していった[8]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 木村暁「ウズベキスタン伝存の西徳二郎書簡をめぐって」『アジア・アフリカ言語文化研究』第88巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2014年9月、5-41頁、doi:10.15026/79242hdl:10108/79242ISSN 0387-2807CRID 1390577133286684288 
  2. ^ a b c d e f g h i j k コトバンク「西徳二郎」
  3. ^ a b c d e f 西徳二郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室
  4. ^ a b c d 近代日本人の肖像「西徳二郎」
  5. ^ 加藤祐三(1998)pp.389-393
  6. ^ 佐々木隆(2002)pp.143-146
  7. ^ 横手慎二(2005)p.23
  8. ^ a b 佐々木雄一(2018)p.293
  9. ^ 青山霊園「西徳二郎の墓」
  10. ^ a b c d e f g h i j 西徳二郎”. 枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ二. 2024年12月1日閲覧。
  11. ^ 『官報』第994号「叙任」1886年10月21日。
  12. ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
  13. ^ 『官報』第2818号「叙任及辞令」1892年11月17日。
  14. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」明治28年8月21日
  15. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」明治32年12月28日
  16. ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」明治29年11月2日

参考文献

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外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
西(徳二郎)家初代
1895年 - 1912年
次代
西竹一