藤原宮
藤原宮(ふじわらのみや)は、古代の日本で大和の藤原の地(現在の奈良県橿原市)に営まれた宮殿である。5世紀のものと、7-8世紀(694年から710年まで)のものの2つがある。
最初の藤原宮は、允恭天皇の妃、弟姫(衣通郎姫)のために造営されたと伝えられる。允恭天皇の后、忍坂大中姫は衣通郎姫の実姉で、允恭天皇の宮[1]とは別に衣通郎姫の宮が造営された。『日本書紀』によれば、衣通郎姫が藤原宮に住んだのは允恭天皇7年(418年)12月から翌8年(419年)2月まで3か月ほどのわずかな期間で、藤原宮よりも允恭天皇の宮から遠く離れた地へ移るとの衣通郎姫から允恭天皇への奏言があり、衣通郎姫の宮は河内の茅渟の地(現在の大阪府泉佐野市)へ移され、茅渟宮が営まれた[2]。これは多分に伝説的なものである。
二度目の、有名な藤原宮は、持統天皇が造った藤原京の宮である。持統天皇4年10月29日(690年12月5日)に太政大臣の高市皇子が宮の場所を視察し、同8年12月6日(694年12月27日)に天皇が遷った[3]。和銅3年3月10日(710年4月13日)に元明天皇が平城宮に遷るまで用いられた[4]。宮地は発掘調査されている。詳しくは藤原京を参照のこと。
異説・俗説
編集ヤマト政権は710年に平城京に遷都するまで阿波にあったとする阿波説では、藤原宮は二つ在って、最初の藤原宮は徳島県吉野川市鴨島町飯尾の呉郷団地南の山際、飯尾天神社辺りにあったとする。その根拠は飯尾天神社内に藤原宮を造った棟梁と伝えられる「藤原役の君」の尊像が安置されていること、藤氏神社(飯尾天神社の麓に鎮座)という天皇の宮を造ったとの伝承を持つ「工藤氏」の氏神を祀る神社が比定地近くに鎮座していること、比定地近くに「国一八幡宮」(鴨島町山路)が鎮座し、神社前の由緒書きに、「ここは昔慶雲の宮と呼ばれていた」と書かれていることである。710年に平城京へ遷都するまでここに都が置かれた。704年(慶雲元年)、半ば中断していた新益京の本格的造営が、宮名も藤原宮と改めて始まった。これが二度目の藤原宮(橿原市)である[5][6]。