芭蕉塚古墳
芭蕉塚古墳(ばしょうづかこふん)は、京都府城陽市平川茶屋裏にある古墳。形状は前方後円墳。久津川古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「久津川古墳群」のうち)。
芭蕉塚古墳 | |
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墳丘(右手前に後円部、左奥に前方部) | |
所属 | 久津川古墳群 |
所在地 | 京都府城陽市平川茶屋裏 |
位置 | 北緯34度52分3.25秒 東経135度46分40.63秒 / 北緯34.8675694度 東経135.7779528度座標: 北緯34度52分3.25秒 東経135度46分40.63秒 / 北緯34.8675694度 東経135.7779528度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長114m |
埋葬施設 | 粘土槨 |
出土品 | 甲冑・埴輪 |
築造時期 | 5世紀中葉 |
史跡 |
国の史跡「芭蕉塚古墳」 (「久津川古墳群」に包含) |
地図 |
概要
編集城陽市北部、木津川右岸の丘陵地に築造された大型前方後円墳である。「芭蕉塚」の古墳名の由来は不明[1]。丘陵一帯では、本古墳や久津川車塚古墳・丸塚古墳(いずれも城陽市平川車塚)の大型古墳3基を含む古墳100基以上からなる久津川古墳群の分布が知られる[2]。現在の墳丘は竹林で覆われ、これまでに数次の発掘調査が実施されている[1]。
墳形は前方後円形で、前方部を南方向に向ける。墳丘は2段築成[3]。墳丘長は約110メートルを測り、久津川古墳群中では久津川車塚古墳に次ぐ第2位の規模になる[4]。墳丘くびれ部には左右両側に造出を付す[3]。墳丘外表では葺石・普通円筒埴輪列のほか、形象埴輪(家形・蓋形・靫形・盾形・甲冑形・囲形埴輪)が検出されている[3]。特に囲形埴輪は後円部・造出の谷間に据えられており、築造当時に墳丘谷間が導水・湧水祭祀空間に見立てられたことを表す事象として注目される[3]。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており(南側で一部残存)、外堤上では大型円筒埴輪列も検出されている[4][1]。埋葬施設は粘土槨で、後円部中央において墳丘主軸と平行に形成される[5]。久津川古墳群では埋葬施設に石材がほとんど用いられないことが知られており、その特徴が大首長墓である本古墳まで一貫する様子が指摘される[3]。この粘土槨は大規模な盗掘に遭っており、発掘調査では盗掘坑から副葬品の一部と見られる甲冑片が検出されている[5]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀中葉頃と推定される[3]。本古墳の外部施設の様相は中期古墳として典型的なものになる[3]。また久津川古墳群の大首長墓としては、丸塚古墳・久津川車塚古墳に後続する最後の築造とされる[2]。
遺跡歴
編集墳丘
編集墳丘の規模は次の通り[3]。
- 古墳総長:161メートル - 周濠を含めた全長。
- 墳丘長:114メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:62.7メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 長さ:51.5メートル
- 幅:61.0メートル
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後円部墳頂
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後円部から前方部を望む
文化財
編集国の史跡
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g 芭蕉塚古墳発掘調査報告書 2006, pp. 9–12.
- ^ a b 芭蕉塚古墳発掘調査報告書 2006, p. 7.
- ^ a b c d e f g h 芭蕉塚古墳発掘調査報告書 2006, pp. 66–74.
- ^ a b c 史跡説明板。
- ^ a b 芭蕉塚古墳発掘調査報告書 2006, pp. 37–39.
- ^ a b 「史跡等の指定等について」 (PDF) (文化庁記者発表、2016年6月17日)。
- ^ a b 平成28年10月3日文部科学省告示第144号。
- ^ a b 久津川古墳群 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 令和6年10月11日文部科学省告示第146号。
参考文献
編集- 史跡説明板(城陽市教育委員会設置)
- 地方自治体発行
- 『芭蕉塚古墳発掘調査報告書(城陽市埋蔵文化財調査報告書 第51集)』城陽市教育委員会、2006年。
- 「芭蕉塚古墳」『京都府埋蔵文化財情報 第103号 (PDF)』京都府埋蔵文化財調査研究センター、2007年、39-40頁。 - リンクは京都府埋蔵文化財調査研究センター。
- 事典類
- 「久津川古墳群」『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490263。
- 小泉裕司「芭蕉塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。