粟屋就貞
粟屋 就貞(あわや なりさだ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 年不詳4月13日 |
別名 | 通称:四郎三郎 |
官位 | 四郎右衛門尉 |
主君 | 毛利元就 |
氏族 | 粟屋氏 |
父母 | 父:粟屋元貞 |
生涯
編集粟屋元貞の子として誕生。毛利元就に仕える。天文12年(1543年)8月28日、元就の加冠を受けて元服し、就の偏諱から就貞という名を与えられた。永禄2年(1559年)12月29日には毛利隆元から四郎右衛門尉の官途名を与えられている。また、父・元貞の給分についての手違いを毛利隆元へ申し出て、就貞の言い分が通り、加恩されて5貫目を与えられた[1]。
没年は不詳であるが、井上就重を使者として元就から就貞の父・元貞に送られた書状[2]では、就貞が戦死したことが記されている。