粟屋 元貞(あわや もとさだ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将毛利氏の譜代家臣で長州藩士。知行は1600石。父は粟屋元利。父の兄である粟屋元種の養子となる。

 
粟屋元貞
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 寛永7年3月8日1630年4月20日
別名 与十郎→九郎右衛門尉(通称
官位 従五位下右近大夫肥後守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 源姓粟屋氏
父母 父:粟屋元利
養父:粟屋元種(父・元利の兄)
元重就貞
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生涯

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永禄6年(1563年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋元利の次男として生まれ、毛利輝元秀就の二代に仕えた。

天正8年(1580年4月14日、元貞の伯父である粟屋元種の嫡男・元信が輝元の備中出陣において先鋒部隊の将を務めたが、備中国下加茂の山中において伊賀久隆の強襲を受け戦死した。元信の戦死によって元種の後継がいなくなったため、元貞が元種の養子となって家督を相続した。

天正16年(1588年)、毛利輝元に従って上洛し、同年7月26日従五位下右近大夫に任官[1]し、豊臣姓を与えられる。また、慶長6年(1601年5月8日に輝元から「九郎右衛門尉」の官途名を与えられ、慶長17年(1612年11月9日には秀就から「肥後守」の受領名を与えられた。

寛永2年(1625年8月13日の御配所付立によると、周防国熊毛郡大河内村1400石と長門国大津郡日置村の内の200石、合計1600石が元貞に与えられている。

寛永7年(1630年3月8日に死去。享年68。子の粟屋元重(九郎右衛門)が家督を継いだ。

脚注

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参考文献

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