立花芳夫
立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。愛媛県出身。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級[1]。
立花 芳夫 | |
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生誕 |
1890年2月24日 大日本帝国 愛媛県 |
死没 |
1947年9月24日(57歳没) アメリカ合衆国 グアム |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 中将 |
経歴
編集立花三吉の二男として生まれる。私立金光中学を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年(大正5年)9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に進級。1924年(大正13年)3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に進級。歩兵第12連隊副官、同大隊長を歴任し、1935年(昭和10年)8月、歩兵中佐に昇進し歩兵第44連隊付となる。独立守備歩兵第9大隊付、満州国軍事顧問を経て、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進んだ。1939年(昭和14年)10月、歩兵第65連隊長に就任し日中戦争に出征。宜昌作戦などに参加した。
小笠原事件
編集混成第1旅団長(のち第109師団長)として父島に駐留中に、的場末勇少佐(45期歩兵科)らと共謀し、米軍捕虜の処刑や人肉食を行ったとされ、戦後にグアム軍事法廷で、1946年5月から9月にかけて三段階に渡る審判が行われた結果、立花には絞首刑が言い渡され、翌1947年(昭和22年)に処刑された[2]。
年譜
編集- 1913年(大正2年)5月26日:陸軍士官学校卒業
- 12月25日:陸軍少尉
- 1938年(昭和13年)7月15日:陸軍歩兵大佐
- 7月15日:満州国軍事顧問
- 1939年(昭和14年)10月2日:歩兵第65連隊長
- 1942年(昭和17年)8月1日:広島連隊区司令官
- 1943年(昭和18年)3月1日:陸軍少将昇進
- 1944年(昭和19年)5月27日:混成第1旅団長
- 1945年(昭和20年)3月23日:陸軍中将
- 3月23日:第109師団長
- (硫黄島の109師団玉砕に伴い、混成第1旅団を第109師団に再編成したもの)
栄典
編集慰霊碑
編集愛媛縣護國神社に建立された「殉国二十二烈士之碑」に他の戦犯と共に英霊として祀られている。碑文は次の通り。
大東亞戦後の戦争裁判は世界史に汚辱の一章を加え犠牲者の遺族に消える日のない痛恨を印した
愛媛ゆかりの二十二烈士亦大節を貫き恩讐を越え祖國の弥栄を念じ従容として平和の人柱となった今や轉位して裁きの神の座にます尊霊たちよみそなわせ
敗戦祖国は世界驚異の發展をとげアジアの諸民族は相次いで獨立の宿願を成就しました
21世紀は日本の世紀在天の英霊とこしえに祖國を守りたまえ
脚注
編集関連項目
編集参考文献
編集- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1999年。 ISBN 978-4167453053
- 堀江芳孝『闘魂 硫黄島 - 小笠原兵団参謀の回想』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年。 ISBN 4769824491
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。