秦 真次(はた しんじ、1879年明治12年)4月6日[1][2] - 1950年昭和25年)2月24日[1][2])は、日本の陸軍軍人神職。最終階級は陸軍中将

秦 真次
生誕 (1879-04-06) 1879年4月6日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1950-02-24) 1950年2月24日(70歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1901年 - 1935年
最終階級 陸軍中将
指揮 陸軍省新聞班長
歩兵第21連隊長
歩兵第15旅団長
東京湾要塞司令官
憲兵司令官
第2師団長
戦闘 日露戦争
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
除隊後 神職
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経歴

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小倉藩典医・秦真吾の長男として生まれる[1]豊津中学校成城学校[要出典]陸軍幼年学校を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業[1][3]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる[1][3]

1904年(明治37年)2月、日露戦争に出征し、1905年(明治38年)8月、第1軍兵站監部副官となった[1]1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し参謀本部員に就任[1][4]

1913年(大正2年)11月、歩兵少佐に昇進[1]1914年(大正3年)1月、オーストリア大使館付武官補佐官となり、オランダ公使館付武官歩兵第70連隊大隊長などを経て、1918年(大正7年)7月、歩兵中佐に進級し歩兵第70連隊付となる[1]。同年12月、陸軍兵器本廠付となり、初代陸軍省新聞班長[2]を経て、1922年(大正11年)2月、歩兵大佐に昇進し歩兵第21連隊長に就任した[1][4]

1923年(大正12年)8月、第3師団参謀長に発令され、臨時東京警備参謀長、常設東京警備参謀長を歴任し、1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長となった[1][2][4]

1927年(昭和2年)7月、陸大教官に就任し、関東軍司令部付(奉天特務機関長)、第9師団司令部付、第14師団司令部付を経て、1931年(昭和6年)8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に着任[1][2][4]

1931年10月、兵器本廠付(陸軍次官補佐)となり、憲兵司令官を経て、1934年(昭和9年)8月、第2師団長に親補された[1][2][4]1935年(昭和10年)8月に待命、翌月、予備役に編入された[1][2][4]

1937年(昭和12年)4月、神宮皇學館研究生となり、後に神職となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、126頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』578-579頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』165、168頁。
  4. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』168頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
  6. ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
  7. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  8. ^ 『官報』第2626号「叙任及辞令」1935年10月2日。
  9. ^ 『官報』第625号「叙任及辞令」1929年1月31日。※秦直次と誤記
  10. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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