皆川秀隆
日本の江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。常陸府中藩2代藩主皆川隆庸次男で、秀隆系皆川氏初代当主。甲府城勤番・下館城勤番を歴任
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永3年(1626年) |
死没 | 明暦3年6月18日(1657年7月28日) |
改名 | 又七郎(幼名)→秀隆 |
戒名 | 涼説 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
氏族 | 皆川氏 |
父母 | 父:皆川隆庸 |
兄弟 | 成郷、遠山秀友正室、秀隆、成之 |
妻 |
正室:松平成重娘 継室:伊丹勝長娘 |
子 | 広隆 |
略歴
編集常陸国府中藩2代藩主・皆川隆庸の次男として誕生。幼名は又七郎。
正保2年(1645年)2月5日に父が死去し、同年5月21日に兄・成郷が家督を継いだ際、常陸行方郡内5,000石を分与され寄合に列した。ほどなく兄・成郷が同年6月4日に嗣子なくして22歳で没し、府中藩皆川氏は断絶した。
慶安元年(1648年)5月に甲府城勤番に赴き、承応2年(1653年)に下館城勤番の任を溝口宣秋と共に勤め、明暦3年(1657年)に再び下館城勤番の任半ばで32歳で没した。法号は凉説。家督は子・広隆が継いだ。