松平 成重(まつだいら なりしげ)は、江戸時代前期の武将大名下野国板橋藩の第2代藩主、三河国西尾藩主、丹波国亀山藩の初代藩主。親清流大給松平家4代当主。

 
松平成重
時代 江戸時代前期
生誕 文禄3年(1594年
死没 寛永10年9月16日1633年10月18日
戒名 見樹院殿覚誉円徹大居士
墓所 東京都文京区小石川伝通院
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光
下野板橋藩主→三河西尾藩主→丹波亀山藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平一生、母:松平忠成の娘
兄弟 成重、慈照院、諏訪頼雄正室
正室:徳川家康の養女・椿姫
継室:安藤重信の娘
勝広、忠昭一重、重勝、近憲、本多康長正室、皆川秀隆正室、岡本次正室、木村成政
テンプレートを表示

生涯

編集

松平一生の長男として誕生した。母は松平忠成の娘。

慶長9年(1604年)、父が死去したため、その跡を継いで下野板橋1万石を領した。慶長19年(1614年)、大久保忠隣改易の連座で里見忠義が改易されると、その城受け渡しと破却を務めた。同年冬からの大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌年の大坂夏の陣では本戦に参加し、首級を12個挙げたという。

元和3年(1617年)、三河西尾2万石に加増移封された。元和7年(1621年)、さらに2200石加増され、合計2万2200石として丹波亀山に加増移封された。寛永3年(1626年)、徳川秀忠家光父子の上洛に付き従った。

寛永10年(1633年)9月16日、40歳で死去した。家督は次男の忠昭が嗣いだ。法名は見樹院殿覚誉円徹大居士。最初は深川の法禅寺に葬られたが、後に小石川伝通院に改葬されている。

系譜

編集

徳川家康の養女(松平康元の長女椿姫)を正室として亀山藩主の時に迎えた。逝去は寛永6年(1629年)11月21日。建平寺改め久松寺(現在の京都府亀岡市)に久松院としてある。成重以来、公儀行事、祝事における三つ葉葵紋の使用を認められる。

父母

正室、継室

子女